中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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歩いて巡る中山道六十九宿(第15回):第1日目(3);関ヶ原古戦場(3)

2012年11月25日 03時24分14秒 | 中山道六十九宿

                                                        <開戦地>

歩いて巡る中山道六十九宿(第15回):第1日目(3);関ヶ原古戦場(3)

         (五十三次洛遊会;特別企画)
      2012年11月16日(金)~19日(月)

第1日目;2012年11月16日(金) (つづき)

<関ヶ原古戦場地図> 
(再掲)





<開戦地とその周辺>

■平野部に出る
 笹尾山の石田三成陣跡から一気に平野部まで下る.
 石田三成陣跡付近では,沢山の観光客と出会ったが,一寸離れると,誰も居なくなる.どうやら観光客の皆さんは,笹尾山山麓の駐車場まで車で来て,石田三成陣跡だけを見て帰ってしまうようだ.私は内心で,
 “折角こんな図場らしいところに来たのに,辺りを散策しないで返ってしまうのは勿体ないな”
と思うが,そこは人それぞれ.余計なお節介というものだろう.
 12時12分,小西行長陣跡の案内杭が立っている三叉路に到着する.私達は案内杭にしたがって,小西行長陣跡の方向に向かう.

<小西行長陣跡などの案内杭>

■島津義弘陣跡
 三叉路の直ぐ近くに島津義弘陣跡がある.
 案内板によると,島津義弘(惟新)は,北国街道を押さえるため,4000名の兵を率いてここに陣を張った.小早川が東軍に寝返って,西軍がことごとく敗退する中で,「西軍に島津あり」の勇姿を家康に見せるために,義弘は最後の賭として「敵中突破」を試みたという.

<島津義弘陣跡>

■開戦地
 島津忠広陣跡の直ぐ近くに開戦地がある.
 合戦当日の午前8時,尖鋒の福島正則は井伊隊の旗が動くのを見て,先陣の手柄を取られまいとして,宇喜多隊に一斉射撃を開始する.
 一方井伊隊は福島隊に遅れをとらないために,島津陣に対して攻撃を開始した.まさに,この場所が関ヶ原合戦の開戦地になった.

<開戦地>

■小西行長陣地跡
 12時23分,開戦地から西へ少し歩いたところにある小西行長陣跡に到着する.ここは天満山(標高198m)の北側山麓に位置している.
 案内板によると,小西行長はここに6000名の兵を集めた陣地を張った.合戦当日の午前8時,戦闘開始の狼煙を上げ,味方に合図すると同時に,西軍の主力部隊として勇敢に戦った.しかし,小早川の裏切りによって,小西隊は混乱した.その混乱に乗じた本多隊の襲撃を受け,午後1時頃,小西軍は遂に敗退した.

<小西行長陣跡>

<天満神社とその周辺>

■素晴らしい散策路
 天満山の東側山麓沿いの道を南に向かう.美しい樹林の中の散策路が続く.その昔,殺戮が繰り返されたところとは思えない素晴らしい森である.歩いていても実に心地よい.
 閑静な森の中を歩いていると,一体何でこんなに美しいところで合戦など行ったんだろうとむなしい気分になる.人間の業とは一体何だ.結局は,むなしさが後世に残るだけだ.何となくしんみりとした気分になる.

<美しい森の小径を歩く>

■天満神社
 12時37分,小径から右へほんの一寸入ったところにある天満神社に到着する.ここは言わずと知れた菅原道真が祭神である.この神社は天満山の南側の山麓に位置している.
 境内にある案内板によると,この神社の創建時期は分からないが,柴井七郎という人物が北野天満宮の祭神を勧請したという説があるらしい.柴井七郎は,美濃の守護代斉藤妙椿(1411~1480年)の一族だという.
 関ヶ原合戦のときに,宇喜多秀家がこの神社一帯に陣を張った.そして,ここで東軍と戦ったときに社殿は焼失した.その後,寛文3年(1663年),岩手藩主竹中越中守の寄進で再建された.
 
<天満神社参道入口>                          <天満宮本殿>

■宇喜多秀家陣跡
 天満宮境内の一角に宇喜多秀家陣跡を示す石柱が安置されている.
 案内板の説明によると,宇喜多秀家はここの1万5000人の兵を配して中山道を押さえていた.
 当日午前8時,福島勢の猛攻が始まった.秀家の前衛明石全登(てるすみ)との激突となった.ここで宮本武蔵が奮戦したようである.
 秀家は敗走.途中で池田郡白樫村の矢野五郎右衛門に助けられたが,八丈島へ流される.以後,秀家は83歳まで生き延びたという.
<宇喜多秀家陣跡>

<藤古川周辺>

■藤古ダム
 天満神社から天満山の裾野を回り込むように歩く.そして,12時48分,藤古ダムの堤防を渡って,川の右岸側に入る.ここからは再び山道になる.
 
<藤古ダムの堤防>                            <藤古ダムから藤古川の上流を望む>

■藤川台
 12時53分,藤川台に到着する.ここは宇多田陣跡から600メートル,平塚の碑まで100メートルの地点である.
 ここは藤古側の右岸に位置していて,地形が平らで廻りより少し高いところなので藤川台と呼ばれている.
 ここに大谷吉継,戸田重政,平塚為広など諸将が布陣した.そして小早川隊などと壮絶な死闘を行った,


<藤川台>

■長い上り階段
 山道は一旦自動車道に合流する.ただ,私が持っている古い地図には,この自動車道は載っていないので,自動車道に合流したときに,一瞬戸惑う.
 この舗装道路を数百メートルほど歩くと,大谷吉隆墓に通じる階段道の入口に到着する.
 地図で確かめると,かなり長い階段道のようである.
 私達は鬱蒼とした森林の中の階段道をひたすら登る.

<長い階段道を登る>

■大谷吉隆墓
 13時02分,階段道を登り終えて,大谷吉隆の墓に到着する.
 鬱蒼とした森の中に,立派な五輪塔が安置されている.
 案内板の記事によると,大谷吉隆は,石田三成に挙兵を思いとどまるように再三説得したが,三成の決意は変わらなかった.そこで吉隆は石田三成と運命を共にすることを決意して,死に装束で出陣した.
 吉隆は,壮絶な死闘の末,自害するが,自分の首を決して敵方に渡すなと言い残した.
 この墓は敵方の藤堂家が建立したものだという.

<大谷善継墓>

■心地よい散策路を下る
 大谷吉隆陣跡から,往路をほんの少し引き返す.進行方向右手に,今歩いている小径と同じような小径が分岐する.案内杭の表示にしたがってなだらかな下りの尾根道を進む.雑木林の中の素敵な散策路である.


■大谷吉隆陣跡
 およそ10分ほど,この小径を下ると左手に大谷吉隆陣跡がある.
 案内板の説明によると,大谷吉隆は石田三成の親友であった.石田三成の懇請を受けた大谷吉隆は死に装束でこの場所(宮上)に出陣した.ここは松尾山に面していて,東山道を見下ろせる位置である.
 彼は9月3日に,ここに到着した.そして山中村郷士らの案内と,村人の支援を受けて,陣造りを進めた.そして15日に石田三成が着陣するのを待ったという.

<大谷吉隆陣跡>

■若宮八幡神社
 関ヶ原駅前で頂戴した案内パンフレットを見ると,大谷吉隆陣跡からさらに西へ山道を歩くようになっている.私達もそれらしい道があることは分かった.でも,ほとんど人が通った形跡がないので,これは多分道ではないなと判断した.
 枝道に入らずに,そのまま下り続けると,間もなく,眼下に神社が見え出す.地図で確かめるとどうやら若宮八幡神社らしい.今更,先ほどの分岐まで戻る気がしないので,そのまま,やや急な坂道を下って,13時15分に若宮神社に到着する.
 境内の案内板によると,この神社の由来はどうやら不明のようである. 

<若宮八幡神社>

<旧中仙道に入る>

■踏切と高架橋
 若宮八幡神社の参道は階段になっている.この階段を下りると東海道本線の踏切がある.この踏切を渡ると,旧中仙道に突き当たる.この辺りの中山道は,前回(第14回)1日目(2012年9月15日)に通過したばかりである.
 今日は,同じ中山道でも,逆方向に歩くことになっている.同じ場所でも歩く方向が逆だと,感覚がおかしくなってしまい,全く新しい道を歩いているような気分になる.
 旧中仙道に突き当たって左折する.するとすぐ先に歩道橋がある.この歩道橋を見た途端に,
 ”ああ,この歩道橋の下で雨宿りしたな・・・”
と前回の旅のことを思い出す.
 歩道橋を渡る.歩道橋の上から,前回の旅のときに昼食を摂ったレストランが見えている.あ.れからそれほど日が経っているわけではないが,とても懐かしい気分になる.
 
<東海道本線の踏切を渡る>                        <中山道の跨線橋>

■藤下若宮八幡宮
 暫くの間,旧中仙道を江戸の方向に向けて歩く.「不破ノ関0.2km」の案内杭が立っている三叉路で右折して,旧中仙道から外れる.藤下という集落に入る.集落の中にはいくつかの枝道があって,道順が少し分かりにくいが.そこは動物的な感を働かせるしかない.
 道を間違えることもなく,13時31分,藤下若宮八幡宮に到着する.東海道新幹線の土手が境内の直ぐ傍を通っている.
 境内にある案内板によると,この神社も何時創建されたかは定かではないようである.元応2年(1320年),弘文天皇を祭り,応永11年(1404年)と明応9年(1500年)に社殿を修理したという記録があるようだ.
 本殿は檜皮葺きで関ヶ原町重要文化財に指定されている.

<若宮神社>

■脇坂安治陣跡
 13時35分,若宮神社を出発する.
 歩き出して直ぐに新幹線のガードを潜る.道なりに南東の方向へ歩いて,名神高速道路のガードを潜る.
 ガードを潜って直ぐの奥まったところに,脇坂安治陣跡がある.
 案内板の説明によると,脇坂安治は洲本城主だった.彼はかつて賤ヶ岳七本槍の一人として名を上げた武将だった.
 東軍に通じていた脇坂にとって,小早川の裏切りは願ってもないことだった.そして,東軍が優勢に転じる頃合いを見計らって,自らも槍を振るって先頭に立ち,大谷隊の側面に躍り込んだという.

<脇坂安治陣跡>

                                                                                          (つづく)

[参考資料]

資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5;関ヶ原町役場地域振興課『このまち,まるごと,古戦場』
資料6;「関ヶ原合戦史跡めぐり」

「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/9190d803c5ee8042743b7acfaec374b8
「中山道道六十九宿」の次回の記事

http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/1adb9e6f991893d64da658a4563880aa

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