<大塔の宮鳥居前の河津桜が綺麗に咲いている>
鎌倉:大塔の宮の河津桜が咲いた
(単独散策)
2008年1月24日(木)
※アンナプルナ・ダウラギリ紀行の続編は,明後日から続けます。
<とにかく歩こう>
■鎌倉駅へ
この所,毎日,何時,塔ノ岳に登ろうかと天候を見続けていた。今日は昼前から天候が回復するというので,塔ノ岳へ出掛けようかと随分迷ったが,天気予報では今日は風が強いという。多分,昨日の雪も大分残っているだろう。いくら馴れている塔ノ岳とはいえ,そんな条件の中を,年寄りの私が一人で登るのは,ちょっと危険かなと思う。そこで,残念ながら,塔ノ岳登頂を断念する。
私は早朝からヤボ用を済ませてしまう。9時を過ぎた頃から,だんだんと天気が回復して,明るい日差しが戻ってくる。私は,新刊本を見たくなり,ぶらぶらと鎌倉駅前の島森書店へ向かった。書店からそのまま帰宅するのも勿体ないが,あまり歩き回る気にもならない。そこで,まあ兎に角,八幡様辺りまで行ってみようかと思う。小町通の裏道をブラブラしている内に,何となく気分が高揚してくる。やっぱり歩くのが一番良いなと思い始める。
惰性で鎌倉宮まで足を延ばす。最近,元勤務先の同僚が始めたという鎌倉宮手前の手打ちソバ屋の前を通る。お店の窓越しに一生懸命ソバを打っている男性の姿を遠目に見るが,果たして同僚かどうか確かめられない。もっと近付いて確かめようかとも思ったが,忙しそうにしているので,ソッと立ち去る。
■覚園寺登山口
例によって,「さて,何処へ行こうか」と迷う。このまま覚園寺を参拝して,お坊さんの説明を伺うのも良いし,平凡に瑞泉寺登山口から天園ハイキングコースを一回りするのも良い。あるいは,久々に「まむしヶ谷坂」を登るのも一興である。あれこれと迷うが,まあ,今日の所は覚園寺登山口から,天園ハイキングコースに入り,百八ヤグラ脇から峠の茶屋を廻ることにする。
11時18分に覚園寺登山口に到着する。コンクリート道をちょっと登ると,昨日までの雨でツルツルになった山道に入る。覚園寺やぐら群脇の歩きにくい階段道をS字状に登り詰めると,永福寺裏山に通じる山道を分岐する。ここは,つい最近まで進入不可であったが,永福寺跡北西の隅が公園として整備されてから入れるようになった。
登山道は昨日の雨でビショビショのままである。とても滑りやすい。11時27分にヤグラ群の脇を通り過ぎる。ここには3個ほどのヤグラがあるが,ある人は三浦一族に関係するヤグラだというが真偽のほどは分からない。
■天園ハイキングコース
11時34分に,散在ヶ池へ向かう道路と天園ハイキングコースの交差点に到着する。今日は余り奇を衒わずに,そのまま天園ハイキングコースを大平山に向けて歩く。この時期は,周辺の木々がすっかり落葉しているので,冬枯れの木の枝の間から,絶えず鎌倉や逗子が良く見えている。快晴の空の下で,素晴らしい景色を眺めながらのそぞろ歩きは何とも気分がよい。
大平山手前の小さな露岩で,反対側から歩いてくる十数名の集団とすれ違う。大半が中高年のご婦人方のようである。高齢の男性も何人か混じっている。1人の女性が,露岩を降りられなくて屁っ放り腰になっている。近くの女性が,大声で,
「そんなところ,ピョン,ピョンって,飛べば大丈夫ですよ・・・」
と飛んでもない助言をしている。それにしても危なっかしい歩き方をしているグループだなと,見ている方がヒヤヒヤする。
11時52分に大平山山頂に到着する。今日は天気がよいのに,大平山広場でお弁当を開いている人達が少ないようである。
■峠の茶屋
大平山を下る。
広場を横切って,ゴルフ場近くを歩いていると,神奈川歩け歩け協会と書いた幟旗を担いだ方を先頭にして,100名以上の大集団とすれ違う。もの凄く沢山の方々が突然現れたので,ビックリしてしまう。リーダが,
「ここの広場で,12時45分まで昼食にしま~す・・・」
とハンドスピーカでがなり立てている。
11時59分に峠の茶屋に到着する。
天気が良いのに,峠の茶屋は空いている。ただ,ご常連のEさん達が何時もの所で宴会を開いている。
私は,峠の茶屋の女主人と,Eさんに挨拶をする。いつもはジュースを注文するのだが,今日は寒いので,珍しく甘酒を注文する。実は,ここ峠の茶屋で甘酒を賞味するのは2回目である。前回は,前の経営者が峠の茶屋を開いていたときである。前回,甘酒を飲んだときは,随分甘いなという印象だったが,今日の甘酒は淡泊な味である。どちらも美味しいが,私個人は,今回の甘酒の味の方が好みに合っている。
甘酒を飲みながら,鎌倉駅のコンビニで買ったオニギリを食べる。
<峠の茶屋:後ろ姿がEさん>
<河津桜が咲いている>
■大塔の宮
12時15分に峠の茶屋を出る。
何となく歩き続けるのが面倒になり,新林の谷,つまり獅子舞を下ることにする。足元はドロドロで滑りやすいので,注意をしながら下り続ける。そして,12時35分に獅子舞入口に到着する。その間,珍しく誰にも会わなかった。
12時49分に大塔の宮に到着する。ここからバスで鎌倉駅まで戻ろうかと思ったが,まあもう少し歩こうと思い直す。
■河津桜
先ほど通ったときには気が付かなかったが,鳥井の脇に植えてある神津桜が見事に咲いている。花に気が付いた私は,デジカメを取りだして,何枚も写真を撮り続ける。私が写真を撮っているのを見た観光客が立ち止まって,私と同じように早咲きの河津桜に見入っている。
思いがけず河津桜を見た私は,とても満ち足りた気分になる。
「よ~し,源氏山を越えて家まで歩くぞ・・・」
と張り切る。
<大塔の宮の河津桜>
<ヤグラ談義>
■大倉山ヤグラ群
12時51分に大塔の宮を後にする。この辺りからは観光客の姿も随分と増えてくる。絵柄天神を抜けて,東御門を通過する。このとき,ふと出来心が沸いて,大倉山ヤグラ群に立ち寄ってみる。
相変わらず2本の石段が見えている。辺りには誰も居ない。何となく厳粛な気分になってくる。階段を登る。すると幸運にも,先日お会いした先生が居られる。私は,
「今日は,先日はいろいろと教えて頂き有り難うございました・・・あの時の4人の1人です」
と挨拶する。先生も私のことを覚えていてくれた。
また,この間と同じように30分ほどの間に,いろいろとお話を伺うことができた。
話題はもっぱらヤグラと鎌倉時代の鎌倉の様子のことである。話の間に,13世紀にご家人に対して自分の屋敷内に法華堂を作るのを禁止した証拠となる古文書を見せて頂いた。私は,これまで伝聞に過ぎないと思っていたことが,きちんと文書で残っているのに大変驚き,また,感銘を受けた。
「この文章はかなり高圧的ですよね・・・まあ,北条泰時だから出来たんでしょうね・・」
と先生がいう。
<街中の法華堂禁止ことが書かれている:「府中墓所事」>
その後,そもそもヤグラが墳墓になったのはなぜかという話になる。もともと日本にはお墓という概念はなかったらしい。法華堂を最初に作ったのは源頼朝だと先生は言う。余談だが,大和時代の古墳は,一般のわれわれのお墓とは話が違うので,混同するなと注意される。とにかく,頼朝の法華堂がご家人に広がり,時代が経つにつれて庶民にまで広がったのだそうである。とはいえ,ヤグラは鎌倉とその周辺にしかないことから考えても,鎌倉地方特有のものだった。
この近くに北条泰時のヤグラあるという。ただ私有地の中にあるので入ってはダメだと注意される。
話題が転じて,日本人のお墓に対する考え方が,中国人や韓国人とは大きく異なるそうである。この話も面白かったが,ブログの限られた文字数の中では,とても記述できそうもないので割愛する。
その他に,北条正村の話や,北条首やぐらの話など,普通の本には書いてないことを沢山伺えたのは大変ラッキーであった。
<島津忠久の筆跡:これは絶筆に近いものだという>
■バスで帰宅
先生のお話を伺っている内に,瞬く間に30分ほどの時間が経ってしまった。今日は16時から始まるテレビの水戸黄門を見たいので,家まで歩くことを諦める。そこで,八幡宮を抜けてから,ぶらぶらと小町通りを経由して,鎌倉駅に向かう。小町通は相変わらず沢山の観光客で賑わっている。
ときどき立ち寄る喫茶店「モア」で,コーヒーを1杯賞味してから帰りたいな思うが,グッと堪えて,「モア」の前を通り過ぎる。
「ああ・・・そうだ。そろそろ現代語訳『吾妻鏡』第2巻が発刊されていないかな・・」
と気になって,駅近くの書店に立ち寄ってみる。どうやらまだ発刊されていないようである。
ついつい立ち読みをしている内に,14時52分発のバスに乗り遅れそうになる。
私は日長一日何をやっているんだろうかと反省する。
(おわり)
心動く人は増えると思います。書き込んでいただいてありがとうございます。大倉山やぐらも知りませんでした。
いこうと思います。
誰も、無
何時も当ブログにお運びいただき有り難うございます。
「言いたくても言えない・・・」とのご指摘,正に図星! 恐れ入りました。
行間から本音をお察し頂くしかないなと思っています。逆に,それがブログの面白さかもしれません。
コメント,本当に有り難うございました。
これからも宜しくお願い致します。