中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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歩いて巡る中山道六十九宿(第7回):第3日目(6):熊野神社から旧軽井沢へ

2013年06月16日 11時13分20秒 | 中山道六十九宿

                          <熊野神社>

[改訂版]歩いて巡る中山道六十九宿(第7回):第3日目(6):熊野神社から旧軽井沢へ
            (五十三次洛遊会)
       2012年10月12日(金)~14日(日)

2012年10月14日(日) (つづき)

<碓氷峠地図>



<峠村で観光>

■「峠」の碓氷嶺観光案内図
 碓氷峠を越えて,無事旧峠村に到着した私達は,ここで少々時間を取って,界隈を散策することにする.
 まず最初に眼に入ったのは「碓氷嶺名所観光案内図(私設)」である.この案内図を見て,峠周辺に地図を頭に入れる.
 当初,この辺りも“ザッと見”だけで通過すれば,16時過ぎには間違いなく軽井沢駅に到着すると見込んでいたが,ここで観光の時間を入れると,軽井沢到着時間は,それだけ遅くなる.それでも,折角の観光地だから,少しは観光しようということになる.


■みくにふみの碑
 まず最初に眼に入ったのが,「みくにふみの碑」である.
 石塔の横には,妙なことが書いてある案内板が立っている.
 こ案内板には「四四八四四 七二八億十百 三九二二三 四九十 四万万四 二三 四万六一十(よしやよし 何は置くとも み国書 よくぞ読ままし 書読まむ人 み国書) これは峠の社家につたえられていたものを滅失を恐れて昭和30年熊野■■・・■(よめない)建てたものである」と書いてある.

<みくにふみの石>

■県境を跨ぐ
 辺りには沢山の観光客が居る.
 これまで歩いてきた碓氷峠とは,全く異次元の世界に迷い込んだような気分になる.
 何となくブラブラ歩きをしていると熊野皇大神社の参道に辿り着く.長い石段の参道の中央を長野県と群馬県の県境が走っている.
 沢山の観光客が,入れ替わりにこの県境を跨いで,片足は長野県,もう一方の足は群馬県に置いてはしゃいでいる.
 勿論,私達も県境を跨いでみる.

<長野県と群馬県の県境>

<熊野皇大神宮>

■二つの県にまたがる神社
 この神社の位置は長野県(信濃)と群馬県(上州)にまたがっている,
 そこで,まずは長野県側の熊野神社をインターネットで検索してみる(資料6).すると以下のような説明がある.
 「
当神社は碓氷峠頂上標高1200mに位置し,自然豊かな軽井沢に鎮座する神社です.また,当神社は,全国的にも珍しい県境,お社の中央で長野県と群馬県に分かれた神社です
ので,一つの神社でありながら2つの宗教法人が健在し長野県熊野皇大神社と群馬県熊野神社に分かれております.その為,神社をお護りする宮司も2人おりそれぞれ神社のお祀りを行っており,御祈祷・お守り・社務所も別になっております.当神社は長野県軽井沢の氏神,長野県熊野皇大神社であります.」
 資料7には二つの宗教法人に分かれた経緯について,次のような説明がなされている.すなわち,「第二次世界大戦後に宗教法人法が制定された際,都道府県ごとに宗教法人の登記がされることになったため,ひとつの神社でありながら県境を挟んで,長野県側が熊野皇大神社,群馬県側が熊野神社という別々の宗教法人となった.そのため,一つの神社だが,宮司や社務所,賽銭箱,お守り,ご祈祷は別々である.」
 熊野皇大神社と熊野神社を使い分けるのは面倒である.そこで,このブログでは,了法合わせて熊野神社ということにしておこう.

■長い石段を登る
 14時38分,長い上り階段を登り始める.そして,熊野神社を参拝,境内を散策する.
 これまでの中山道路とは違って,面食らうほど沢山の観光客で賑わっている.

<熊野神社の石段>

■熊野神社の由緒
 境内にある説明文によると,この神社は
 「県境にあり,日本武尊東国平定の帰路に碓氷峠にて濃霧にまかれたとき,八咫烏の道案内によって,無事嶺に達することができたことにより熊野の大神を祀ったと伝えられる.
 碓氷嶺に立った尊は雲海より海を連想され走水で入水された弟橘比売命を偲ばれて「吾妻者椰(あづまや)」と嘆かれたという(日本書紀より).
 これらの御由緒より「日本太一」という烏牛王札が古来から起請文や厄難消除の御神札として頒布されている.
 歴史大略
 鎌倉時代に武士団等の篤い信仰を受け,群馬県最古の吊鐘(県重文)が松井田より奉納されている.
 江戸時代には諸大名を始め,多くの人々が中山道を行き来した.関東の西端に位置し,西方浄土,二世安楽,道中安全を叶える山岳聖地として,権現信仰が最も盛んになった.
 「碓氷峠の権現様は主の為には守り神」と旅人に唄われ,追分節の元唄となって熊野信仰が全国に伝わっていった.」
 この説明文を読んだあとで,境内の各神社を参拝する.
 また,資料7には,熊野皇大神宮の由来について次のような説明がある,すなわち,「社伝によれば,ヤマトタケルが東征の帰路で碓氷峠に差し掛かった際,濃霧が生じて道に迷った.この時に一羽の八咫烏が椰の葉を咥えて道案内をし,無事に頂上に着いた事を感謝して熊野の神を勧請したのが熊野皇大神社の由来だとされる.」

<熊野神社>

■石の風車一対
 熊野神社の境内には,いくつかの見所があるが,その中から「石の風車一対」の写真を撮る.
 案内板の説明によると,軽井沢問屋佐藤市右衛門および代官佐藤平八郎の両人が二世安楽祈願のた,神社正面石畳を明暦3年(1657年)築造した.その祈念に,その子市右衛門が佐藤家の紋章源氏車を刻んで奉納したものだという.
 また,同案内文には,「秋から冬にかけて吹く風の強いところから中山道往来の旅人が石の風車として楽しみ,
  碓氷峠のあの風車
    だれを松やらくるくると
と追分節に唄われて有名になった」と紹介している.

<石の風車>

<峠から旧軽井沢へ>

■見晴台近くから中山道に入る

 15時50分,駐車場入口から見晴台入口から碓氷峠の下り坂に入る.
 見晴台に立ち寄ろうとも思ったが,また道草をしていたのでは,軽井沢に到着するまでに日が暮れる可能性があるので省略する.
 山道にしては良く整備されてる.旧中仙道に入ると,暫くの間は峠沢左岸沿いのトラバース道である.進行方向右手下には国道133号線の道路が見え隠れしている.

<展望台前の路を右折して中山道に入る>

■橋を渡る.
 暫くの間は緩い下り勾配の道が続く.すれ違う観光客はほとんど居ない.この辺りの地形の下調べは充分してあるつもりだが,山深い道を歩いている内に,この道で本当に良いのかなと絶えず不安である.でも,まあ,この道以外にそれらしい道もなさそうなので,まあ,何とかなるさで下り続ける.
 15時18分,国道128号線に架かる橋を渡る.
 今歩いている道が正しいかどうかを確かめるために,地図を首っ引きにする.その結果,まあ,間違いなさそうだということで先に進む.
 歩きながら,心の中で,
 “迷ったら,また峠まで引き返すさ”
と開き直っている.


<橋を渡る>

■峠沢右岸に渡る
 15時38分,立派な吊り橋を渡って峠沢右岸に入る.橋を渡ったところに大きな看板が立っている.そこには「野生熊生息地」と書いてある.
 この看板によると,たった今,歩いてきたところが熊生息地の真っ直中ということになる.背筋が寒くなる話である.
 でも,まあ,ニセ熊事件はあったものの,本物の熊にも会わずに,ここまで来られたのは幸いである.

<橋を渡って峠沢の右岸へ>

■国道133号線に合流
 橋を渡ると別荘地になる.道路の両側には広い敷地の別荘がちらほらと見え出す.そして,
15時49分,私達が歩いている旧中仙道道は,国道133号線に合流する.

<国道133号線に合流>

<観光客で賑わう旧軽井沢>

■矢ヶ崎川を渡る
 15時53分,矢ヶ崎川をわたる.いよいよ旧軽井沢の街中である.
 道の両側はフェンスに囲まれた広大な敷地の別荘が並んでいる.

<矢ヶ崎川を渡る>

■芭蕉の句碑
 15時55分,芭蕉の句碑に到着する.
 大きな石に芭蕉の句が刻字されているが,変体仮名なので浅学の私には読めない.
 傍らの案内板によると,
     “馬をさえへ
       ながむる
         雪の
           あした哉”
という句が彫ってあるようだ.
 案内文によると,「雪の降りしきる明け方,往来を眺めていると,多くの旅人がさまざまな風をして通っていく.人ばかりではない,駄馬などまでふだんと違って面白い格好で通っていくよ」という意味だそうである.
 この句碑は天保14年(1843年),当地の俳人小林玉蓬によって,芭蕉翁百五十回忌に建てられたものだという.

<芭蕉の句碑>

■つるや跡
 15時56分,「つるや跡」に到着する.
 資料4(p.21)によれば,往時は茶屋で強飯,ざるそば,煮しめなどを今日していたという.


<つるや>

神宮寺
 16時丁度に,神宮寺参道と思われるところを通過する.狭い路地の奥の本堂らしい建物が見えている.そろそろ時間が押しているので,参道の奥まで行ってみなかったが,地図で判断して神宮寺だろうと思う(違っているかもしれない).
 資料8によれば,「神宮寺(じんぐうじ)は,真言宗智山派の寺院で,山号は表白山,院号は釈迦院.本尊は大日如来.碓氷峠にある熊野神社の別当寺であった.」

<神宮寺(?)>

■モダンな商店街
 16時10分頃,進行方向右手にモダンな雰囲気の商店街がある.
 この辺りから軽井沢までは,私が先頭を歩く必要もないので,ポチモードにして,私はひたすら後ろから無言で付いていくことにする.特に途中の何処でコーヒーブレークを取るかも,主として女性軍にお任せする.
 女性軍の後に付いて右折してモダンな商店街に入る.鎌倉や原宿(行ったことないが)に居るような錯覚に陥りそうな雰囲気である.
 この商店街の中に雰囲気が良い喫茶店があれば,お茶しようということになる.
 しかし,商店街の一番奥の外れに期待はずれなほど小さなコーヒースタンドしかない.結局,コーヒーは後で・・ということになる.

<偉くモダンな商店街>

■旧軽井沢散策
 モダンな商店街から本通りに戻る.
 本通りは観光客で賑わっている.赤いバスが通りを走っていて,独特の雰囲気を醸し出している.何軒ものギャラリーがあるのに感心する.ただ,町の雰囲気は鎌倉の小町通りと大差ない.
 絵が好きな私は,一寸ギャラリーに立ち寄りたいなと思うが,まあ,ここは遠慮する.
 要するに軽井沢って一体どんなところ?
 この問いに一言で答えるのは中々難しそうである.たとえば,鎌倉なら「武家の古都」と一言で特徴を言える.
 …で,軽井沢は.
 私が幼少の頃は,軽井沢を一言で言えば「避暑地」だった・・・今の軽井沢は?
 そんなことを考えながら,ブラブラと歩き続ける.

<賑わう旧軽井沢の市街>

■今回の中山道の終点
 16時19分,中山道と駅前通りの交差点に到着する.今回の中山道の旅の終点である.
 私のこれまでの中山道の旅で,抜けていた横川から軽井沢の間を埋めることができた.
 すでに,2010年6月12日に軽井沢から先の旅を続けている.これで私の中山道の旅も,抜けたところなしに,江戸日本橋から66次の武佐宿まで繋がったことになる.
  「皆さん,ご苦労様でした.ここで私の先導役は終わりです・・・ここから先,軽井沢駅まではどうぞご自由に歩いて下さい・・」
ということで,完全にポチモードに切り替える.私は後ろから付いていくだけ.また,コーヒーブレークを取るか取らないか,どこで取るかもすべて女性軍にお任せする.

                                    (つづく)

[参考資料]

資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5;安中市産業部商工観光課「旧道日和;旧中山道碓氷の峠越え道」安中市観光協会
資料6;http://www.geocities.jp/kumanokoutai/
資料7;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E9%87%8E%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E5%AE%89%E4%B8%AD%E5%B8%82)
資料8;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E5%AF%BA_(%E8%BB%BD%E4%BA%95%E6%B2%A2%E7%94%BA)

[加除修正]
2013/6/16  誤字脱字転換ミスの修正および本文の加除修正推敲を行った.

「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/f51ea367c384c536bf9828a1dd14bd3e
「中山道六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/7f87cc7eefb4affa7ad65f627017d62e
「中山道六十九宿」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/b0fff7ecf75b54c3f443aa58cfa9424e


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