<鴨之巣一里塚付近を行く>
中山道六十九宿巡り(第12回);第2日目(6);椿瀬間ノ宿・謡坂
(五十三次洛遊会)
2012年4月6日(金)~8日(月)
第2日目;2012年4月7日(土) (つづき)
<細久手・椿瀬間ノ宿地図>
※前掲
<くじあげ坂・藤あげ坂を下る>
■鴨之巣の一里塚
13時59分,鴨之巣の一里塚に到着する.ここは岐阜県史跡に指定されている.
左右にある塚の位置が少しずれている.資料2(p.264)によると,向かって右側の林が途切れたところにある北側に1基と,西の左にある1基との間の距離は約16メートルだという.ここは江戸日本橋から93里目の一里塚.京まで後41里である.
一同,塚を眺めながら立ち休憩.そして,地図上の現在地を確認する.
ここから鈴鹿・伊吹の山々,それに北アルプスも一望できるというが,見渡したところ雑木林に遮られて何も見えない.
<鴨之巣の一里塚>
<鴨之巣の一里塚で現在地確認>
<椿瀬間ノ宿>
■長閑な田園風景が広がる
一里塚を過ぎると再び雑木林の中の閑静な道が続く.何処が市境かハッキリとは分からないが,私たちは間違いなく瑞浪市から御嵩町に入る.地図で確かめると,この辺りの下り坂は,くしあげ坂と呼ぶらしい.
どこに境目があるのか分からないが,くじあげ坂は,藤あげ坂と名前を変える.
14時16分頃,長閑な田園風景の先に集落が見え始める.どうやら椿瀬間ノ宿のようである.
<長閑な田園風景;椿瀬間ノ宿が見え始める>
■山内嘉助屋敷跡
14時16分,山内嘉助屋敷跡に到着する.屋敷の石垣が少し残っている.
資料3(p.48)によると,山内嘉助は酒造業営んでいた人物のようである. これ以上の情報は手許に資料からは得られない.
<山内嘉助屋敷跡>
■鴨之巣一里塚案内杭
14時17分,「至鴨之巣一里塚」の道標を通過する.
■津橋薬師堂
藤あげ坂を下って舗装された自動車道路を横切る.この自動車道路を少し南に下ったところにお堂が見えている.多分,津橋観音堂かなと思うが,定かではない.違って入るかもしれない.
<津橋観音堂かな?>
<諸木坂>
■閑静な集落を通る
自動車道を横切って間もなく津橋を渡る.
進行方向右手にこんもりとした森が見えている.多分,あの森に熊野神社があるのだろうと思いながら,再び自動車道路を横断する.5叉路である. 私たちは,一般車両進入禁止標識のある細い道に入る.案内書によると,進行方向右手の竹藪の中に観音堂があるらしいが,残念ながら見落としてしまう.
やがて,集落の中の道になる.余所様の家の軒すれすれに通り抜けているような妙な気分になる.そして次第に急な坂道になる.資料2(p.265)によると,この坂は「諸木坂」あるいは「もちの木坂」と言うらしい.
<諸木坂沿いの集落を行く>
■津橋の馬頭観音
14時33分,津橋の馬頭観音と思われる石塔の前を通過する.ここが本当に津橋の馬頭観音かどうかは良く分からない.馬頭観音らしい石塔の脇の石柱には「奉納一日(あるいは百)番供養□」(□は読めない)と刻字してある.
<津橋の馬頭観音(?)>
■桃源郷のような風景
やや急な坂道が続く.高度が高まるにつれて,進行方向左手の見通しが良くなる.
時政に早春.梅が見頃である.何とも言えない長閑な風景は,正に桃源郷のようである.一同,
「すばらしなあ・・・」
とため息をつきながら,坂道をゆっくりと登り続ける.
<梅が満開の桃源郷>
<物見峠>
■馬の水呑場跡
やがて,登り坂が終わり物見峠(別名;諸之木峠)を越える.ここからは謡坂(うとうざか)の下りとなる.資料2(p.265)によると,峠には5軒の茶屋があったようである.
14時47分,峠近くにある馬の水飲み場跡に到着する.湧き水である.
近くに案内板が立っている.この案内板の説明によると,「ここは物見峠といい,道路の両側に計5軒の茶屋があり,十三峠の前後のこの地であれば往来の馬もさぞのどが渇いたであろう.存分にのみなさいと北側に3ヶ所の水飲み場が設けられていた」という.
<馬の水飲場>
■御殿場跡
馬の水飲み場に隣接して御殿場跡がある.広々とした公園風に整備されている.
傍らに立つ案内板の説明によると,1861年(文久元年),皇女和宮の行列が中山道を下向した際,ここに一行が休憩する御殿が造られたことから,ここを御殿場というようである.
和宮の行列は4000~5000人だったというから大変な規模である.10月28日の早朝,太田宿を出発し,昼に御嶽宿で休息,そして,ここ御殿場でも休息し,大湫宿で宿泊したという.
<御殿場>
■御殿場と鬼岩公園
御殿場の案内板によると,ここからの眺望は素晴らしく,御嵩山,笠置山,恵那山などの名山が一望できるという.
案内板の説明によると,先ほど私たちが通過した五叉路を東海道自然歩道沿いに進むと鬼岩公園松の湖に達するという(このブログ記事の地図参照).
<御殿場からの眺望案内>
<謡坂>
■唄清水
物見峠からの杉木立の間の下り坂を500メートルほど下る.地図で確かめると,この辺りは謡坂(うとうさか)という所らしい.水たまりの奥に古い碑が建っている.
15時02分,唄清水に到着する.傍らの案内板の説明によると,この碑は1854年(嘉永7年)に千村源征重心が建立したもの.
「馬子唄の響きに浪たつ清水かな 五歩」
という俳句が披露されている.手許の資料では,「千村源征」も「五歩」も,その人となりは全く分からない.
それにしても,何で「唄」清水などという名前が付いたんだろう.不思議である.
<唄清水>
■一呑の清水
謡坂を下り続ける.15時06分,一呑の清水に到着する.
清水の中に石仏や石碑が並んでいる.屋根覆いのある立派な清水である.
傍らの説明文によると,皇女和宮もこの清水の水を賞味し,大変気に入られたとのこと.後に上洛の際,永保寺(現岐阜県多治見市)から,わざわざここの清水を取り寄せたという.
ここは岐阜県名水50選の一つとのことである.
<一呑の清水>
■十本木立場跡
15時09分,十本木立場跡を通過する.
案内板の説明によると,ここはもともと人夫が杖を立て,駕籠や荷物をおろして休息した所から次第に茶屋などが設けられ,旅人の休憩所として発展したようである.また,参勤交代の諸大名が通行する際にはここに警護の武士が駐屯して,一般の通行人の行動に注意をしていたらしい.
<千本木の立場跡>
■十本木の洗場
15時13分,十本木の洗場に到着する.小さな水たまりの脇に,文字が殆ど消えかけている案内板が立っている.消えかけた文字は極めて読みにくいが,どうやらここは共同の洗い場だったようである.
■謡坂石畳と刻字した石柱
さらに謡坂を下り続ける.
15時13分,大きな民家の脇を通り抜ける.どうやらトタン板で覆った茅葺き屋根の家のようである.
さらに下って,15時20分,謡坂石畳の終わりに到着する.石畳の終点には「謡坂石畳」と刻字した石柱が立っている.
<トタン板で覆った茅葺きの家>
<謡坂獅子畳みと刻字した石柱>
(つづく)
[参考資料]
資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料3;五街道ウォーク事務局,発行年不明,『ちゃんと歩ける中山道六十七宿』
「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/e5ceee3caf89cb17c2680b1ca16828ff
「中山道六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/55302f868eeac9c36e349c0a2e9071a6
※お断り
時々,当ブログの記事について,誤字・脱字・転換ミスが多すぎるというお叱りを受けることがあります.気がついたときはできるだけ訂正するようにしていますが,所詮,当ブログは管理者の道楽.企業のブログや市販本のように十分に手間暇を掛けているわけではありません.正確さも保証致しかねます.
当ブログは,あくまで仲間内だけで見て頂くことを前提としています.ご不快に思われる方は,どうぞ,当ブログへアクセスはご遠慮いただけますようお願い致します.
なお,引用箇所に誤字があったり,内容が異なることがあればご容赦ください.
最新の画像[もっと見る]
- 精密検査から戻って;長女が老夫婦を日比谷花壇大船フラワーセンターへ招待・・・ 4年前
- 精密検査から戻って;長女が老夫婦を日比谷花壇大船フラワーセンターへ招待・・・ 4年前
- 精密検査から戻って;長女が老夫婦を日比谷花壇大船フラワーセンターへ招待・・・ 4年前
- 精密検査から戻って;長女が老夫婦を日比谷花壇大船フラワーセンターへ招待・・・ 4年前
- 精密検査から戻って;長女が老夫婦を日比谷花壇大船フラワーセンターへ招待・・・ 4年前
- 精密検査から戻って;長女が老夫婦を日比谷花壇大船フラワーセンターへ招待・・・ 4年前
- 精密検査から戻って;長女が老夫婦を日比谷花壇大船フラワーセンターへ招待・・・ 4年前
- 精密検査から戻って;長女が老夫婦を日比谷花壇大船フラワーセンターへ招待・・・ 4年前
- 精密検査から戻って;長女が老夫婦を日比谷花壇大船フラワーセンターへ招待・・・ 4年前
- 精密検査から戻って;長女が老夫婦を日比谷花壇大船フラワーセンターへ招待・・・ 4年前