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中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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中山道六十九宿巡り(第11回);第3日目(7):落合宿

2012年01月07日 03時37分47秒 | 中山道六十九宿

                               <善昌寺門冠の松j>

      中山道六十九宿巡り(第11回);第3日目(7):落合宿
                 (五十三次洛遊会) 
          2011年11月11日(金)~14日(月)

第3日目;2011年11月14日(月) 

<ルート地図(再掲)>


(再掲)

■落合宿詳細図


<落合宿を行く>

■落合宿の概要
 落合宿は江戸から44番目の宿場である.馬籠宿から4.5キロメートル,次の中津川宿まで3.9キロメートルの場所に位置している(資料2,p.104,P.122).
 資料1(p.241)によれば,宿内人口370人(男182人,女188人).宿内惣家数75軒(本陣1,脇本陣1,旅籠14)であった.
 宿場入り口案内板によると,落合宿の長さは3町35間(約390メートル).宿の中央には用水が流れていたようである.
 1804年(文化元年),1815年(文化12年)の2度の大火で大きなダメージを受けてしまったという.
 美濃16宿の入口に当たる宿である.

■薬王寺
 13時17分,薬王寺に到着する.お寺の案内板によると,薬王寺は別名山中薬師.浄土宗.山号は瑠璃山.
 案内板には非常に細かい説明があるが,残念ながら,全部を読んでいる暇がない.
 資料1(p.240)によると,入口脇に芭蕉の句碑があり,そこには,
    梅が香に
      のつと日の出る
         山路かな
という句が刻字されているという.
 1853年(嘉永6年)に建立された.ここには行基作と伝えられる薬師如来像がある.
 資料2(p.154)には,「(この寺で)キツネを助けたお礼に,キツネから教わったという妙薬が売られていた」と書いてある.



<薬王寺>

■下桁橋
 13時24分,落合川に架かる下桁橋を左岸に渡る.ここが落合宿の入口でもある.
 少々急な上り勾配になる.


<下桁橋を渡る>

■中山道の付替と落合大橋
 近くにある案内文の記事によると,下桁橋は,江戸時代には「大橋」あるいは「落合橋」と呼ばれていた.現在地より少し川下に架けられていたが,洪水により,度々流失した.また,当時の橋から医王寺までは急なつづら折りの坂道を登らなければならなかったことから,1741年(寛保元年)に神坂湯経由の道になった.
 しかし,この道も悪路で,しかも従来の道に比較して,1.8キロメートルも遠回りになったため,1771年(明和8年),ふたたび十曲峠を通る道に戻った.このときに,つづら折りの急坂道が廃道になり,緩やかな道に付け替えられた(以上案内文の要約).


■石塔群

 登り坂が200~300メートルほど続く.
 13時26分,沢山の石塔が並んでいるところを通過する.道祖神だろうか.それとも馬頭観音かな.何れも苔むしていて,私には何か全く見当が付かない.
 まあ,間違っているかもしれないが,ここでは一応道祖神としておこう.


<石塔群>

■落合宿の町並み
 13時28分,坂を登り切ると,落合宿の家並みが続くようになる.観光客が全く居ない生活臭のある町並みである.

<落合宿の町並み>

■高札場跡
 13時29分,高札場跡に到着する.車道と旧中仙道に挟まれた狭いところに「落合宿の高札場跡」と刻字した石柱が立っている.


<高札場跡>

■上町の秋葉様の常夜灯
 13時31分,上町の秋葉様の常夜灯に到着する.
 この辺りが上の枡形である.
 傍らにある案内板の記事によると,宿場通りには,もともと4基の常夜灯があった.これらは1792年(寛政4年)に建てられたが,1880年(明治13年)の道路工事の際,3基はよそに移されてしまい,この1基だけが道路の片隅に残されているという.


<上町の秋葉様の常夜灯>

■塚田家脇本陣跡
 13時34分,塚田家脇本陣跡に到着する.民家の門柱脇に塚田脇本陣跡と刻字した石柱が立っている.
 資料2(p.154)によると,ここは問屋と庄屋を兼ねていたようである.


<塚田家脇本陣跡>

■落合宿本陣跡
 脇本陣と道路を挟んで反対側に落合宿本陣跡がある.ここは井口氏という方のお宅のようである.立派な門構えである.
 門の脇に明治天皇落合御小休所と刻字した立派な石柱が立っている.
 資料2(p.154)によると,文化年間の大火の後に建てられた.中庭には市川海老蔵と雲助の碑があるそうである.

<落合宿本陣跡>

■大きな釜
 13時35分,大きな釜の前を通過する.
 「この釜,何だろう・・?」
分からない.手許の資料には,この釜の説明は見当たらない.飢饉のときに炊き出しでもしたのだろうか.それとも,そんな昔のこととは関係のないものなのだろうか?
 良く分からないが,釜の大きさにほだされて,思わず数枚の写真を撮る.

<良く分からない大釜>

■善昌寺
 13時37分,善昌寺の前をセカセカと左折しながら通過する.私は心の中で,
 「もう少しユックリと見学しながら歩きたいな・・」
と思うが,口には出さない.
 慌てて,山門脇の説明文だけをデジカメに収めて,グループの先頭を追う.
 案内板の記事によると,この寺は曹洞宗.1600年(慶長5年)に創建された.山号は不明.
 1891年(明治24年)の道路改修工事で,寺の一部が道路となった.そして,寺は東側に移設された.境内にあった松はそのまま残されて,現在,「路上の松」と呼ばれている(冒頭の写真).
 この松は創建当時の山門を覆っていたので「門冠の松」と呼ばれている.樹齢はおよそ450年といわれている.

<善昌寺>

<中津川宿を目指して>

■落合五郎兼行之城趾(愛宕神社)

 13時41分,国道19号線の上に架かる陸橋を渡る.その突き当たりにある小高い丘が落合五郎兼行之城趾である.
 われわれは,ここには立ち寄らずに,橋を渡ってすぐに左折する.
 私は,せめて説明文だけでもデジカメに収めようと思って,小走りに城趾に向かう.もっとも,私は一般の方よりはかなり速く歩ける自信があるので,100メートル程度のビハインドは全く問題ないと思っている.
 リーダーのお一人に断ってから,城趾に駆け上がる.
 資料2(p.154)によれば,兼行は木曾義仲の武将として活躍した人物である.
 城趾に掲示されている説明文によると,兼行は中原兼遠の末子という説と中原一族という説があるらしい.一方,木曾義仲は,幼少の頃,乳母の夫である中原兼遠のもとで養育された.落合五郎兼行は中原兼遠の三男である.
 ここは兼行の館跡とされていて,「オガラン」と呼ばれているが,これは「大伽藍」に由来する呼称ではないかと推定されている(以上説明文の要約).

<落合五郎兼行之館跡>

■愛宕神社
 この城趾には,愛宕神社がある.地元の人の言うオガランである.
 資料1(p.242)によれば,写真の鳥居の奥に,「秋葉大権現,天神を祀る二つの祠が
並んでいる」と書かれているが,どちらがどれかを確かめる暇がない.

<愛宕神社>

■ガードを潜
 ほんの少し間,国道19号線沿いの道を歩いた後,すぐに右折して,与坂の集落に入る.左右にクネクネと曲がる集落の中の道を進んで,13時50分,国道19号線下のガードを潜る.
 いよいよ,中津川宿が間近である.


<国道16号線のガードを潜る>
                                    (つづく)
[参考文献]

資料1;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料2:岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料3;五街道ウォーク事務局『ちゃんと歩ける中山道六十七次』

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