中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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歩いて巡る甲州道中四十四次(第1回);(2)半蔵門から新宿御苑へ

2013年03月06日 19時18分25秒 | 甲州道中四十五宿

                               <新宿御苑のウメ>

  歩いて巡る甲州道中四十四次(第1回);(2)半蔵門から新宿御苑へ
             (五十三次洛遊会)
          2013年3月3日(日) (つづき)

<ルート地図>


※前掲図



<平河天満宮とその周辺>

■見当たらない山田浅右衛門邸跡
 半蔵門公園で10分ほど休憩を取った後,10時38分に半蔵門公園から西に向けて歩き出す.緩やかな上り勾配の道が続く.
 私は,事前調査の段階で,甲州街道からは少し離れているが,平河天満宮には是非立ち寄りたいなと思っていた.そこで,リーダーのO野さんに,
 「平河天満宮に是非立ち寄りましょう・・・」
と提案する.
 地図を頼りに,とある四つ角で左折して,狭い道を南へ進む.
 “この道で良いのかな・・・・”
と多少気になるが,間違っていたら元へ戻ればいいと気楽に考えることにする.
 資料1によると,この狭い路地に入って直ぐ右側に山田浅右衛門邸跡があるはずだが,それらしい場所には,平凡なビルが建っているだけで,何の痕跡も説明文もない.
 資料1の説明文によると,山田家は享保4年(1719年)から約200年の間,代々首切り役を世襲し,将軍家御試御用として,将軍家の刀剣を罪人の屍で試し切りを行っていたという.昔は凄い職業があったものだと驚く.

■平河天満宮に到着
 “道に迷ったかな”と思いながらも先へ進む.
 10時55分,無事に平河天満宮に到着する.私は無事就いたので,内心で“ホッ”としている.
 境内入り口には“平河天満宮”と刻字した大きな石柱が,そしてその直ぐ側に大きくて立派な鳥居が立っている.境内は,それほど広くはないが,境内の突き当たりに立派な社殿が構えている.
 資料3によれば,「菅原道真を主神に八幡宮と東照宮(徳川家康)を相殿の神として祭っている.文明10年(1478年)に大田道灌が江戸城本丸内の梅林坂上に勧請したのが始まりと言われ,徳川家康入城後,本丸修築のためこれを平川門外に移り,慶長11年(1606年)現在の地に遷座した. 
 徳川幕府に特別な格式で待遇され,紀州藩徳川家,彦根藩井伊家の祈願所でもあった.天保15年に氏子町により奉納された銅鳥居や,力石,狛犬が千代田区の文化財に指定されている.
 梅が天神様のシンボルであるのと同様に,牛(神牛)も天神様のトレードマークである.平河天満宮にも撫で牛が1体,石牛が4体鎮座している.
 御祭神菅原道真公は,承和12年乙丑の生まれということもあり,牛が繰返し噛砕き消化することを学問に擬え,大変かわいがられたという.天神様の使わしめ(神牛)の耳元でお願いごとを唱えながら,一番気にかかる箇所をやさしく撫でると,繰返し天神様にお願いしていただき,撫でた箇所と同じところにご利益があるといわれている.」
という説明がある.


<平河天満宮の銅鳥居;区指定文化財>

■平河天満宮の常夜灯
 境内に入って右手に立派な常夜灯がある.この常夜灯は区有形民俗文化財に指定されている(資料3).

<常夜灯;区有形民俗文化財指定>

■撫牛と狛犬
 本殿の前に,撫牛と呼ばれる石の彫刻が鎮座している.この牛も区文化財に指定されている.近くに,大きくて立派な狛犬が鎮座している.この狛犬も区文化財に指定されている.
 境内には,城西大学が奉納した布袋尊の石像が安置されている.
 
<撫牛;区指定文化財>                          <狛犬>
 
<心法寺とその周辺>

■金隣堂跡
 10時58分,平河天満宮を出発する.往路を辿って再び甲州街道に戻り,西に向けて歩き続ける.
 11時08分,三菱東京UFJ銀行麹町支店の前を通過する.
 資料1によると,この辺りが金隣堂跡のようである.金倫堂は尾張屋清七の店舗で,江戸の切絵図を発行していたという.

<この辺りが金隣堂跡?>

■心法寺に到着
 11時18分,心宝寺に到着する.
 資料4には,「新宿通りを四谷から半蔵門方面に向かって,約200メートルいった左側に心法寺がある.宗旨は浄土宗で,三河国の秦宝寺から天正18年(1590)に徳川家康といっしょに江戸に来た然翁聖山和尚が創始者である.
 三河に帰ろうとした和尚を家康が引きとめ,代わりに市ヶ谷に広い寺地を与えたが,和尚はこれを断り,慶長2年(1597年)に今の場所にお堂をたてた.「衣食が十分だと僧侶が怠け者になり,仏に仕えることがいやになる」ということと「江戸に移住した町人たちのために大衆的なお寺にしたい」というのがその理由であった.この希望はかなえられえ,大名や旗本が檀家になることを断り,町人たちのためのお寺として発展していった.しかし,幕末には,武家の檀家もしだいに増えていった.
 天保9年(1838年)心法寺から出火し,寺と麹町の広い部分が焼けた.隣の尾張藩中屋敷からの檀家が多かった関係で天保11年(1840年)に中屋敷内御殿が払い下げられ,弘化4年(1847年)に復興した.江戸時代には「心法寺のえん魔さま」は有名だったようである.しかし,この建物も東京大空襲で焼けてしまった.」という説明がある.

<心宝寺>

■塩地蔵尊
 心宝寺境内にある塩地蔵尊を詣でる.
 自分の患部と同じ所に塩を擦り付けると治癒するという言い伝えがある.小さな社殿の中に2体の地蔵が安置されている.その手前に塩が置いてある.
 気のせいか,頭が随分と摩耗して小さくなっているような気がする.頭に塩を擦り付ける人が多いのだろうか,
 全くの余談だが・・・・
 鎌倉の光触寺には塩嘗地蔵が鎮座している.
 “日本全体で,塩と関連する地蔵は,一体,どの位有るんだろう?”
と内心でつまらないことに興味を持ち始める.

<塩地蔵>

■成瀬邸跡と上智大学
 11時40分,心法寺を出発する.
 資料1によると,心法寺の直ぐ隣が成瀬邸跡である.成瀬家は尾張藩家老だったとのこと.しかし,現場にはそれらしい遺構も説明文もない.
 甲州街道の広い道路の反対側には上智大学のキャンパスがある.

四谷見付跡
 11時25分,「スクワールこうじ町」という小さな公園風の空き地を半周するように歩いて,四谷見付跡を通過する.ここにJR四ッ谷駅がある.
 四谷見付跡の石垣に突き当たって左折,信号四谷見付付近で,再び中山道に突き当たる.
 
<四谷見付跡>                               <再び甲州街道へ>

<西念寺>

■観音坂
 甲州街道の南側で,四谷見付から四谷三丁目付近に掛けて,西念寺,愛染院,勝興寺,須賀神社,東福院など沢山の社寺が集積している.これらの社寺を全部参拝見学することは,時間の都合上,不可能だが,主だった寺を1~2箇所訪れたいと思う.
 この辺りの土地勘のある方に先導して頂き,甲州街道から左折して住宅地内に入る.左折,右折,引き返しなどを繰り返しながら社寺を見付けるので,忽ちの内に煌々感覚が失われる.その内に観音坂という場所に出る.坂道に沿って立派な塀が続いている.この塀の向こうはどうやらお寺のようである.

<観音坂>

■西念寺に到着
 路地に入った途端に,私の方向感覚はおかしくなる.ここは土地勘のあるアンパンマン氏にお任せするしかない.
 観音坂を途中まで下って,再び登り返して,今度は路地を右折する.つまり,東の方向に向かう.そして,突き当たったところを右に曲がる.
 11時44分,ようやく西念寺に到着する.
 資料1によると,西念寺には服部半蔵の墓があるとのことなので,是非,この寺には立ち寄って見たかった.
 資料5には,「
西念寺の所在する若葉2丁目地域は,江戸時代には伊賀町と呼ばれ徳川家に仕えた伊賀衆組屋敷があった.同寺開基の服部正成はこの伊賀同心200人・与力30騎からなる伊賀衆の組頭であったとされる.また,同寺から新宿通りを逆に都心方向に東上すると服部正成にちなみ命名されたという旧江戸城(現皇居)半蔵門に達する.西念寺は徳川氏が江戸に入封してまもない1594年(文禄3年)に服部正成が江戸麹町の清水谷(現在の新宿区紀尾井町清水谷公園付近)にその前身である庵(安養院)を創建したことに始まる.正成はかつて非業の死を遂げた信康の慰霊のために,出家入道して西念と号し安養院に供養塔を建てて菩提を弔いつつ余生を過ごした.そして,1596年(慶長元年)の死後には法名・専称院殿安譽西念大禅定門と追号されて同庵に葬られた.」という説明がある(一部省略).

<西念寺に到着>

■服部半蔵の墓
 境内に入る.それほど広くはない境内である.たまたまここを訪れていた品の良い数名の方から服部半蔵(はっとり はんぞう)の墓がどこにあるかを教えて頂く.
 本堂に向かって,ほんの少し右手に入ると,大きくて立派な宝篋印塔が立っている.これが服部半蔵の墓である.
 資料によると,「服部半蔵は,戦国時代から江戸時代初期にかけて松平氏〜徳川氏の麾下で活躍した武士.代々「半蔵」を通称の名乗りとした服部半蔵家の歴代当主である.また,歴代の当主は石見守(いわみのかみ)という百官名も持ち,服部石見守とも称した.現代において一般的に忍者のイメージがある.しかし,実際に忍者だったのは初代だけであり(ただし詳細は不明),2代目以降は忍者ではなかったとされる.」とのことである.

<服部半蔵の墓>

■何とも美しい阿弥陀仏
 西念寺の境内で,何とも美しいお姿の阿弥陀仏を見付ける.思わず写真を撮る.

<阿弥陀如来像>

<お岩水かけ観音>

■ビルに組み込まれている“お岩水かけ観音”
 12時05分,街角で“お岩水かけ観音”が安置されているのを見付ける.
 下の写真のように,「山田クリニック」が入っている普通のビルの一角に観音が安置されている.写真のアングルが悪くて中央に男性が写っているが,この男性が“お岩”という訳ではない.男性の後ろに写っているゴツゴツとした黒いものが件(くだん)の観音である.

<お岩水かけ観音が安置されているビル>

■険しい表情のお岩水かけ観音
 上の写真の黒い物体の中に,お岩水かけ観音が安置されている.観音は険しい顔をしているが,観音の前には綺麗な花が飾られている.

<お岩水かけ観音>

■四谷怪談とは無関係
 傍らに説明文が取り付けられているが,残念ながら殆ど読めない.
 多分怖いことが書かれているんだろうなと想像する.

 資料7によると,「地下鉄丸の内線の四谷三丁目駅前に「丸正」というスーパーがある.その1階入り口に,その場の光景から切り離されたようにあるのが「お岩水かけ観音.」である.名前からして「四谷怪談」ゆかりの曰く因縁の土地なのかと思いがちであるが,石版の由来を読むと,どうもこの丸正スーパーの社屋建設の際(昭和46年)に社長の肝煎りで建立されたらしい.特にここで何かがあったという伝承地ではないが,「四谷といえばお岩さん」という感覚で作られたランドマークと言っていいだろう.ミスマッチ感が強いために,インパクトはなかなかのものであると思う.」ということらしい.
 四谷怪談とは無関係と知って,正直なところ,私は.
 “おや,おや,・・・そうだったの?”
ホッとするやら,ちょっと残念な気分やらで,複雑.

<お岩水かけ観音の説明文>

<新宿御苑>

■四谷大木戸跡と水道碑
 土地勘のある方の先導で,新宿御苑に入る裏道とやらを通って新宿御苑に入る.でも,この裏道を通ったのでは,大木戸跡と水道費の二つの史跡を見ないことになってしまう.
 “もっときちんと先導する方に言っておけば良かった・・・”
と後悔先に立たず.
 結局,大きく回り道をして,12時19分,大木戸跡に到着する.回り道のロスタイムは10分.
 資料1の説明によると,大木戸跡は元和2年(1616年)に設置荒れた木戸番所の跡である.ここで往来する旅人を糾問した.
 この大木戸を抜けると,甲州道中1次の宿場,内藤新宿である.
 大木戸跡の直ぐ隣に水道碑がある.資料1によると,承応2年(1653年),江戸の飲料水確保のために,玉川兄弟は多摩川の羽村から,大木戸まで玉川上水を引いた.この碑は地下鉄工事でで発見された玉川上水の石樋だという.
 
<水道碑><四谷大木戸碑>

■新宿御苑の概要
 資料8によると,「新宿御苑は,江戸時代に信濃遠藩内藤家の下屋敷のあった敷地である. 1879年(明治12年)に新宿植物御苑が開設され,宮内省(現在の宮内庁)の管理するところとなったが,第二次世界大戦後は一般に公開され,現在は環境省管轄の国民公園として親しまれている.2006年(平成18年)に,「新宿御苑」の名を冠してから100周年を迎えた.開園100周年事業の一環として,絶滅が危惧されている植物の保護センターを設置することが計画されている例年4月上旬には内閣総理大臣主催の「を見る会」,11月上旬には環境大臣主催の「菊を観る会」が開催される.大正天皇・昭和天皇の大喪の礼が執り行われた場所でもある.
 
隣接する東京都立新宿高等学校の敷地は,1921年(大正10年)にこの新宿御苑の土地の一部が東京府へ下賜されたものである.」とのこと.

<新宿御苑案内図;配付資料より引用>

■新宿御苑で昼食

 12時23分,予定より10分ほど遅れて,新宿御苑に到着する.
 「高齢者割引はありません」
という表示を恨めしげに眺めて,所定の入場料を支払って,苑内に入る.
 入口近くの休憩所で,少々遅めの昼食を摂る.
 食後,何人もの方から,飴,菓子,果物などの差し入れがある.食べ物に卑しい私は,頂戴したものは全部平らげてしまう.
 一同,至って元気で,疲れたそぶりを見せる人は居ない.なかなかの健脚揃いである.

<新宿御苑のテラスで昼食>

■ウメが見頃
 テラスで食事をしながら,苑内を眺める.
 少々寒い.でも,沢山の観光客が三々五々散策を楽しんでいる.
 目の前の紅梅,白梅が丁度見頃である.実に美しい.昼食もそこそこに観梅としゃれ込む.

<御苑のウメが見頃>

                                       (つづく)

[参考資料]


資料1;完全踏査街道マップシリーズ「ちゃんと歩ける甲州道中四拾四次」五街道ウォーク事務局
資料2;今井金吾,1998,『今昔三道中独案内 日光・奥州・甲州』日本交通公社
資料3;http://www.kanko-chiyoda.jp/tabid/376/Default.aspx
資料4:http://www.kanko-chiyoda.jp/tabid/900/Default.aspx
資料5;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%BF%B5%E5%AF%BA_(%E6%96%B0%E5%AE%BF%E5%8C%BA)
資料6;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E5%8D%8A%E8%94%B5
資料7;http://www.japanmystery.com/tokyo/oiwa5.html
資料8;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%AE%BF%E5%BE%A1%E8%8B%91


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