中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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歩いて巡る甲州道中四十四次(第1回);(1)日本橋から半蔵門まで

2013年03月05日 08時02分03秒 | 甲州道中四十五宿

                                 <新装の東京駅>

 歩いて巡る甲州道中四十四次(第1回);(1)日本橋から半蔵門まで
            (五十三次洛遊会

          2013年3月3日(日)

<第1回の概要>

■第1回ルート地図



■第1回ルートの概要
 東京駅八重洲口に集合してから,まずは甲州道中の出発点である日本橋に移動する.
 日本橋で出発式を済ませてから,甲州道中を歩き出す.
 第1回目の行程は,日本橋から内藤新宿,下高井戸宿を経由して京王線八幡山駅までの水平距離16.7キロメートルの行程である.
 参加者は東海道五十三次,中山道六十九次を一緒に歩いた仲間を主体として,総勢12人(男5人,女7人)である.


<日本橋を出発>

■ルート地図


           ↓ 
(拡大図:日本橋付近詳細図)


<東京駅から日本橋へ>

■東京駅日本橋口集合
 いよいよ甲州道中出発の日である.
 私は,実は,2010年に某旅行会社主催の甲州道中の旅に参加していた.ただ,残念ながら,全行程に参加できなかったことと,是非見学したいなと思っていたところが,かなり端折られてしまっていたので,何となく欲求不満がたまっていた.そんな折りに,五十三次洛遊会のメンバーから,
 「是非,甲州道中を歩きましょう・・・」
という提案があったので,私は一も二もなく,
 “勿論,参加します・・・”
と手を上げていた.
 そして,今日がその記念すべき第1日目である.
 私は,何時もの通り,3時30分頃,起床する.朝出掛けるとなると,まとまった仕事にとりかかるわけにもいかないし,今日のように東京駅9時集合となると,私には集合時間が遅すぎて,早朝の時間つぶしに困ってしまう.
 そんなわけで,朝の無駄な時間を家でジリジリと過ごし,やっと6時20分になる.何時もの塔ノ岳詣でのときより1時間10分も遅い出発である.でも,6時20分に家を出ても,このまま真っすく東京駅に向かったのでは,7時台に東京駅に着いてしまう.でも,もう,間が持たないので,私の家の近くのバス停から,朝1番のバスに乗って大船駅に向かう.そして,大船駅では駅前の某ファストフードチェーン店で,コーヒーを賞味しながら,30分ほど時間を潰す.
 “もう,そろそろ,電車に乗ろうか・・・・”
で,大船7時14分発横須賀線東京行の電車に乗車する.
 “一人旅ならば,今頃,もうとっくに日本橋から歩き出しているのに・・・”
 私は,改めて,グループ旅の煩わしさを感じてしまう.
 8時05分,東京駅に到着する.まだ,集合時間に間がありすぎる.駅の地下街の弁当売り場をユックリと見て回る.随分美味しそうな駅弁が並んでいる.年金組サンデー毎日氏には,ちょっと手が出ない高価な駅弁を眺めながら,あちこちと歩き回っている内に,方向感覚がなくなって,自分がどの辺りに居るのか分からなくなる.
 仕方なく,一旦,地上のコンコースまで上がる.そして,自分が何時の間にか丸の内側まで迷い込んでいるのを確認する.
 “もう,そろそろ集合場所へ行こう・・・”
 私は再び地下街に潜り込んで,集合場所の八重洲口に向かう.
 途中,コーヒーの良い香りが漂っているところを通過する.堪らず“東京ブレンド”という銘柄のコーヒーを所望する.この店では注文を受けてから,一つひとつにコーヒーを入れてくれる.実に香り高い美味しいコーヒーである.大満足!
 ちょっと行儀が悪いが,このコーヒー賞味しながら,八重洲口に向かう.そして,集合時間20分前に集合場所に到着する.
 私が到着したときには,もう4人ほどの同行者が一同の到着を待っている.
 同行者の皆さんと雑談をしている内に,次々に同行者が現れる.そして,集合時間10分前には参加予定者12人全員が揃う.
 “皆,パンクチュアルで良いな~ぁ・・・・!”
 私は時間を厳守する人が大好きである.集合時間前に全員が揃ったので大満足.
 “時間前ですが,全員揃ったので,出掛けましょう”
とリーダーのO野さんが促す.
 O野さんの挨拶の後,私が作成した地図の説明をする.そして,
 「他人に迷惑になるのが一番イヤ・・・だから一列になって粛々と歩きましょう」
と提案する.
 出発前の儀式を終えて,8時55分,東京駅八重洲口から日本橋に向けて歩き出す.田舎者の私には,この辺りの詳しい地図は分からないので,日本橋までの経路は詳しい方の後を付いていくだけである.

<コーヒー「東京ブレンド」;香りが良くて美味>

■日本橋で出発式
 9時05分,日本橋に到着する.
 大部分の参加者にとって,日本橋からの出発は3回目になる.最初の日本橋からの旅立ちは東海道五十三次であった.今回参加している大部分の方とは,この時以来のお付き合いである.その後,日光街道,中山道,甲州道中へと,ここ日本橋から歩き出した.
 まずは全員で道路原票の前で記念写真を撮る.当然のことながら写真を撮っている私は,この写真の中には居ない(後で写真を合成して私も写真に入れる予定).
」 昨夜,思いつきで,「歩いて巡る甲州道中四十四次開始記念」という横断幕を作ったが,私のバカタレカメラでは,よく写っていないのが残念である.
 私が作った下手くそな横断幕を見て,専門の方が,
 「言ってくれれば,立派な横断幕を作ってきたのに・・・」
と残念がる.
 でも,私に言わせれば,
 “なんで私が言わなければならないの・・・私はリーダーでも何でもない.こんな横断幕が有った方が良いなと思って勝手に作っただけ・・・言われなくても,自分で気がついて,自発的に作って下さいよ・・・”
と言いたかったが,発言をぐっと押さえる.
 とにかく,私は必要以上に,他人から宛にされると鬱陶しくなる方である.私とお付き合いするのは大変ですよ・・・要するに“指示待ち族”は嫌いという天の邪鬼なのである.
 私達の直ぐ近くに,10名余りの人達の集団が居る.この方達もどこかに旅立つのだろうか.それにしては,服装がバラバラで,リュックも持っていない.バスに乗って旅立つのだろうか.ちょっと気になる.

<記念写真>                              

<記念の横断幕>

<再び東京駅へ>

■日本橋を出発
 9時13分,日本橋を出発する.
 いよいよ攻守道中の旅の始まりである.
 某旅行社主催の旅では,出発前に,必ず,
 「エイ,エイ,オー・・・」
と素っ頓狂な掛け声を上げていた.その残渣がというか,文化が,私達の間にある.どなたかが、控えめに,
 「エィ,エィ,オー・・・」
と掛け声を上げている.私は内心では無視.こういう“わざとらしい”ことは性に合わないのである.

<日本橋を出発>

■白木の名水
 さて,これからはできるだけ往時の甲州道中に沿った道を歩くことにしたい.私は大枚を叩いて,『ちゃんとあるける甲州道中四拾四宿』(資料1)と,『今昔三道中独案内』(資料2)という書物を購入して,浅学非才の私に手が届く範囲で,下調べをしている.
 勿論,団体行動なので,自分の好き勝手にはならないことは重々承知しているが,押さえるべき所は,できるだけ,きちんと押さえて歩きたいと願っている.
 …で,折角,入手した『ちゃんと歩ける・・・・』という資料も,肝心の私が老眼なので,細かい字が読めない.そこで,私達のグループで,一番若くて(多分),リーダーでもあるA葉氏に,この地図をお渡しして,道々のチェックをお願いする.
 9時18分,信号日本橋(永代通り)を右折する.資料1によると,この角に「白木の名水」があったようである.今は「赤木屋」という看板が取り付けられているビルが建っているようである.もっとも,資料1の地図を頼りに,多分ここだろうと私が勝手に思っているだけなので,確かにここかどうかは定かではない.
 資料1によると,諸大名は,ここ白木の名水を茶の湯に使っていたという.

<白木の名水>

呉服後藤跡
 9時22分,呉服後藤跡と思われる場所を通過する.正確にこの場所かどうかは分からないが,それらしい場所に竹下夢二の絵が飾られたビルが建っている.まあ,ここからあたらずとも遠からずの壱に呉服後藤があったに違いない.
 呉服後藤は,幕府行の呉服所,後藤縫殿助屋敷跡である.
 資料4には,「後藤縫殿助(ごとうぬいのすけ)は,江戸時代に代々呉服師を手がけた後藤家の当主が名乗った名称である.江戸幕府の御用達呉服師として仕え,彫金師の彫物後藤および小判鋳造を手がけた金座後藤庄三朗家と区別するため呉服後藤(ごふくごとう)とも呼ばれた.また後藤縫之助と書かれる場合もある.」という説明がある.

呉服後藤跡

■北町奉行所跡
 9時26分,再び東京駅八重洲口に戻る.
 下の写真は東京駅八重洲口である.右に見えている細い道を進み突き当たり辺りが北町奉行所跡である(多分).
 北町奉行所の由来は,下の写真に記載されているとおりである.


<北町奉行所跡近傍>


<北町奉行所跡>

<東京駅>

■八重洲口から丸の内側へ
 東京駅構内に入る.
 余談だが,私はサラリーマン時代,数年間,丸の内にある本社に通勤していた.だから東京駅の構造は良く知っているはずだが,東京駅自体が大きく変わってしまったので,まるで今浦島.どこをどう通ったら丸の内側に出られるか良く分からない.
 この辺りは,他の方の後をついて歩くしかない.多少迷いながらも,東京駅八重洲口から丸の内側に渡る.
 
<八重洲口から連絡通路へ>                       <丸の内側に出る>

■東京駅の偉容
 丸の内側に出ると,高くて丸いドーム型の天井に圧倒される.新装なった東京駅の偉容である.一同口を開けて高い天井に見入る(巻頭の写真).私も新装なった東京駅の内部を初めて見て感動する.
 余談になるが・・・・
 私は内田百の随筆が大好きだった.特に淵田百が何処へ行くというわけでもなく,とにかく汽車に乗るだけが目的で旅に出る姿勢が好きである.内田百の随筆の中に東京駅が空襲で焼けてしまったことを書いたものがある.確か「東京駅焼尽」とかいう題名だったかと思うが,その記事が妙に私の脳裏に焼き付いている.
 “空襲で焼けた東京駅が元通りに復元できた.もし内田百が存命ならば大喜びしたろうな”
と思いながら,新装の東京駅を眺める.それにしても威風堂々の駅舎である.見ているだけで少なからぬ興奮を覚える.

<新装の東京駅の偉容>

<皇居のお堀に沿って>

■評定所跡・和田倉門・竜ノ口跡・八重洲河岸
 工業倶楽部会館の前を通り抜けて,評定所跡らしいところを通過する.評定所跡を示唆するものは何も残っていない.
 “良く分からないが,まあ,この辺りに評定所が有ったんだろうな”
と思いながら通過する.
 そして,ほどなく皇居のお堀端に到着する.
 この辺りが和田倉門跡である.資料1によると,また,ここは日本橋川に通じる竜ノ口という所だったらしい.
 また,現在の和田倉門付近には,八重洲河岸跡があるようだが,どこあたりなのか余りよく分からない.

<和田倉門跡>

■お堀の鳥達
 今日は,この時期にしては少々寒いが,お堀を覗くと,沢山の水鳥が心地良さそうに泳いでる.この長閑な風景に,思わず見とれる.
 お堀端の道を南に向けて歩き続ける.
 馬場先門で一休みしようかと一同に伺うが,まだ,休まなくても良いということなので,馬場先門は通過する.楠木正成像は見ずに通過することになる.

<お堀に集う鳥達>

■日比谷見付跡の石垣
 9時59分,日比谷見付跡を通過する.
 残念ながらお堀側の道を歩いているので,道路を挟んでの見学となるが,立派な石垣が残っているのが見える.
 どこかでマラソンの大会があるらしくて,ゼッケンを付けた人達と絶え間なくすれ違う.

<見付石垣>

■桜田門
 10時05分,桜田門に到着する.残念ながら,桜田門は修復工事中である.ここで立ち休憩を取る.
 マラソンランナーのかなりの人が,桜田門を経由して皇居外苑方面に走っていく.
 桜田門外の変は余りにも有名である.安政7年(1860年)3月3日,大老井伊直弼が水戸浪士等によって暗殺された(資料1).
 鎌倉の上行寺には,井伊直弼を襲撃した水戸浪士の一人,広木松之助の墓があるのを思い出す.広木松之助は事件後,鎌倉に逃れ,上行寺にかくまわれていたが,後に上行寺で切腹する.そして大正5年(1916年),上行寺本堂前に松之助の墓が建てられた(資料3,p.76).

<工事中の桜田門>

■桜の井戸跡
 10時20分,桜の井戸跡を通過する.お堀の土手に案内板が立っている.
 資料5には,「柳の井戸とともに江戸の名水で知られる桜の井戸は,山連式釣瓶で縦1,8m横3mの石垣で組んだ大井戸である.三本の釣瓶を下ろし一度に桶三杯の水が汲め,通行人に豊富な水を提供し重宝がられていた.昭和43年の道路拡張で桜の井戸を10mほど現在地に移動している.井伊直弼はこの屋敷から登城する途中,桜田門前に見える豊後杵築藩松平家屋敷(警視庁)前の濠端で水戸浪士たちに暗殺された.」という説明がある.
 ただ,一寸目には,この説明文にある「現在地」が良く分からない.残念.

<桜の井戸跡>

■厳しい警戒の半蔵門
 10時30分,半蔵門に到着する.
 同じお堀端を歩いているのに,半蔵門前はなだらかな上り勾配が続く.歩いていても“登っているな”と実感できるほどの勾配である.
 半蔵門付近は数名の警察官によって警備されている.ものものしい雰囲気なので,遠目の写真を1枚撮って通過する.
 資料6には,「
半蔵門の名称については,この門の警固を担当した徳川家の家来服部正成・父正就父子の通称「半蔵」に由来するとする説と,山王祭の山車の作り物として作られた象があまりにも大きかったために半分しか入らなかったことに由来するとする説がある.定説は前者であり,服部家の部下(与力30騎,伊賀同心200名)がこの門外に組屋敷を構え,四谷へと通じる甲州街道(現在の国道20号線,通称麹町大通り・新宿通ろ)沿い一帯が旗本屋敷で固められていたことに由来するという.これは非常時に将軍を甲州街道から幕府の天領である甲府へと安全に避難させるためと言われている.その意味で,半蔵門は江戸城の搦手門にあたる.また服部半蔵は,その特異な職責から講談や小説,ゲームなどの歴史ものの創作にもよく登場する.」いう説明がある. 

<半蔵門>

■半蔵門公園で休憩
 半蔵門を少し過ぎたところにある半蔵門公園で,10分ばかりトイレ休憩を取る.
 早速,女性群から“おやつ”の差し入れがある.女性群が多いと,こういうところが有り難い.

<半蔵門公園>

                                      (つづく)
[参考資料]

資料1;完全踏査街道マップシリーズ「ちゃんと歩ける甲州道中四拾四次」五街道ウォーク事務局
資料2;今井金吾,1998,『今昔三道中独案内 日光・奥州・甲州』日本交通公社
資料3;鎌倉市教育センター(編),2009,『かまくら子ども風土記』鎌倉市教育委員会
資料4;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E7%B8%AB%E6%AE%BF%E5%8A%A9
資料5;http://wako226.exblog.jp/tags/%E6%A1%9C%E3%81%AE%E4%BA%95%E6%88%B8/
資料6;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%8A%E8%94%B5%E9%96%80


「甲州道中」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/26e688e2088cef0b6bd6154f6c912ae7
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http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/cb68725cca399be27cf62edc66eae418
「甲州道中」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/a622a87fbc7f4454e3e837fc990ece58
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