中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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歩いて巡る中山道六十九宿(第13回):第2日目(2);切通立場

2012年07月07日 18時36分42秒 | 中山道六十九宿

                                     <誓賢寺を出発>

   歩いて巡る中山道六十九宿(第13回):第2日目(2);切通立場
             (五十三次洛遊会)
        2012年6月22日(金)~24日(日)

2012年6月23日(金)

<旧高田村・切通村地図>


<新加納から切通へ>

■小林寺
 竹林を過ぎて小林寺近くを通過する・・・が,立ち寄らず.
 資料1(p.159)によると,小林寺は土岐一族の東陽英朝が開山した禅寺とのこと.
 少々気になるので,帰宅後調べてみる.
 資料6によると,東陽英朝は,「
1428-1504 室町-戦国時代の僧。正長(しょうちょう)元年生まれ。土岐持頼(もちより)の子。臨済(りんざい)宗。京都竜安(りょうあん)寺の雪江宗深(せっこう-そうしん)の法をつぐ。丹波竜興寺(京都府),京都の大徳寺,妙心寺,尾張(おわり)(愛知県)瑞泉(ずいせん)寺などの住持をつとめた。帰郷して美濃(みの)(岐阜県)少林寺開山(かいさん)となる。永正(えいしょう)元年8月24日死去。77歳。諡号(しごう)は大道真源禅師。」と解説されている.
 資料5によると,この寺は臨済宗妙心寺派.室町時代の土豪薄田氏が創建.境内に1500年(永逝元年)に歿した英朝の墓があるという.新加納の一番西に位置する大寺院とある.
 資料4(p.53)によると,「小林寺は織田信長の兵火で焼失.領主の坪内氏が再興して菩提寺とした」という.では,坪内氏とは?・・・こうなってくるとキリがなくなるので,この辺りで無用な詮索はヤメにしよう.
 でも,私たちはどうしてこんな大きな寺を見落としてしまったのだろうか.この辺りに手造り旅の問題点がある.

■東海北陸自動車道
 道路の両側には,広々とした水田が広がっている.
 9時15分頃,東海北陸自動車道ガードを潜る.


<水田の向こうに東海北陸自動車道のガードが見えてくる>


<切通立場>

■手力雄神社

 9時21分,境川に架かる高田橋を渡る.この一体は旧高田村,現在の岐南町高田3丁目というところらしい.
 地図を見ると,この辺りから,南西へ数百メートル離れたところに手力雄神社があるようだが,中山道から少し離れているので,残念ながら立ち寄らずに通過する.近くに名鉄の「てぢから」駅があるようだ.
 資料4(p.53)によると,この神社には,天の岩戸を開いた手力雄命を祀っているとのこと,860年(貞観2年)創建の古い神社のようである.信長の崇敬が厚かったとのこと.
 資料1(p.159)によると,この神社の火祭は岐阜県無形民俗文化財に指定されている.

■浄慶寺

 道路は集落の中を緩やかに左右に曲がりながら続く.
 切通5丁目付近で,手力雄神社から西に延びる道路に突き当たる.ここで直角に右折する.そして,間もなく,
9時38分,浄慶寺に到着する.
 この寺の由来などは,手許の資料では全く分からない.またインターネットで調べたが,はっきりしないが,切通(切通については次の項参照)の一角に位置している.
 資料によると,近くに高札場跡があるはずだが,見付けられないまま先へ進む.


<清慶寺>

■切通の由来
 清慶寺のすぐ近くに中山道と刻字した石柱と「切通の由来」を解説した案内板が立っている.
 この案内板の説明によると,切通は境川北岸一帯の地名である.地名の由来は岩戸南方一帯の滞留水を境川に落としていたことによるらしい.1185年(文治年間),渋谷金王丸という長森庄の地頭が,ここに長森城を築いた・・・・・江戸時代に,この辺りは加納藩領となったが,その後,幕府領,大垣藩預かり地,磐城藩所領と変わった頃,ここに陣屋が設けられた.切通は中山道が開通されてから,手力雄神社から浄慶寺付近まで立場(休憩所)として,茶屋,菓子屋,履物屋などが建ち並び賑わっていたという.

<切通の一角>

■伊豆神社
 9時45分,伊豆神社に到着する.立派な社殿である.
 参道入口にある石に刻字した案内分によると.この神社の創立年代は不明.祭神は大山祇神の娘石長姫命とやらである.神のことに疎い私には,石長姫命が何の神かは分からないが,健康と長寿を司る神のようである.全国主要神社で,この神を主祭神とする神社は,ここを除いて皆無だという.


<伊豆神社>

■真宗寺
 9時52分,真宗寺参道入口に到着する.手許の資料では,この寺の由来などは全く分からない.

<真宗寺>

■誓賢寺
 9時56分,誓賢寺参道に到着する.浄土真宗の寺.民家の間の参道を奥に進んで参拝.本堂前の広場で立ち休憩を取らせて貰う.日射しが強くて,蒸し暑いので,熱射病になる人が居たら困るなと心配になる.
 資料4(p.53)によれば,ここは親鸞上人御旧跡である.
 
<普賢寺>

<加納宿へ>

■細畑の一里塚

 10時03分,誓賢寺から歩き出す.
 10時11分,細畑の一里塚に到着する.ここは街中にもかかわらず塚がある.ただし,資料4(p.53)によれば,現存する塚は復元塚である.江戸日本橋から105里目,京三条大橋まで31里の一にある.
 写真に写っている説明文によると,この塚は1604年(慶長9年)に中山道の他の一里塚とともに造られたもので,東の鵜沼宿から3里14町(約13.3km),西の加納宿まで30町(約3.3km)の位置にある.

<細畑の一里塚>

■地蔵堂の道標
 細畑の一里塚から200メートルほど西に歩いて,10時13分,地蔵堂の前に到着する.Y型に分岐する三叉路に建っている.小振りながら大変立派な地蔵堂である.「南無延命地蔵菩薩」と書いてある白幟が取り付けられている.
 資料1(p.159)によれば,ここは領下(りょうげ)の追分.伊勢への近道

<地蔵堂>

■八幡神社
 地蔵堂のすぐ西隣に八幡神社がある.「八幡宮」と刻字した門柱の奥に境内が広がっている.なかなか立派な神社である.立ち寄らずに通過する.
 手許の資料には,この神社についての記述は見当たらない.

<八幡神社>

■秋葉神社
 10時23分,秋葉神社の前を通過する.
 この辺りには,随分と沢山の秋葉神社があることに気がつく.手許の資料では,この秋葉神社の由来は不明.

<秋葉神社>

■いよいよ加納宿
 10時28分,東海道本線のガードを潜る.つづいて、すぐに名鉄「ちゃしょ(茶所)」駅脇の踏切を渡る.駅から,赤い電車が発車するところである.
 この踏切を越えると,いよいよ江戸から53次の加納宿である.

<名鉄「ちゃしょ(茶所)」駅踏切>

                                             (つづく)

[参考資料]

資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5;各務原歴史研究会(編),「中山道新加納立場」各務原市・各務原市観光協会

資料6;http://kotobank.jp/word/%E6%9D%B1%E9%99%BD%E8%8B%B1%E6%9C%9D

「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/21d1c1f39f894709d51578d3c43300c1

「中山道六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/a20230565e993f9456ad03c09d28248e

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