<犬神川を渡る>
歩いて巡る中山道六十九宿(第14回);第2日目(9);高宮宿からあまこ出村へ
(五十三次洛遊会)
2012年9月15日(土)~17日(月・敬老の日)
第2日目;2012年9月16日(日) (つづき)
<高宮宿とあまご出村地図>
■高宮宿地図
■あまこ出村地図
<高宮宿>
■高宮宿の概要
高宮宿は,64次の宿場である.
資料3(p.339)によれば,宿内人口3560人.内,男1755人,女1805人.宿内惣家数835軒.内,本陣1軒,複本陣2軒,旅籠23軒である.
資料1(p.172)によれば,高宮宿は「多賀大社の鳥居前町で,宿中央に一の鳥居が建っている.麻織物高宮市の機織りで栄え,宿内人口は本庄宿に次いで中山道第2の規模であった.古い家並みが残り,ベンガラ格子や袖卯建のある家が多く見られる」という.
■芹川を渡る
14時49分,芹川を渡る.清流と青空が綺麗である.
この辺りから旧跡「床の山」が見えていたはずだが,確かめずに通過してしまった.ずっと後になって気がつくが,もうどうにもならない.
上の地図に記載されている大堀山(別名鳥籠山)が,床の山だと後になって気がつく.
<芹川を渡る>
■床の山
14時50分,「中山道旧跡床の山」と刻字してある案内杭を通過する.
事前の予習が足りなかったために,“床の山って何だろう・・”と不思議には思ったものの,そのまま通過してしまった.
帰宅後,資料5で,ここは芭蕉に縁のある旧跡だと知り,何の関心も示さずに通過してしまったことを残念に思うが,こう言うのを後の祭りという.
この資料によれば,
“昼顔に
昼寝せうもの
床の山”
という俳句で知られる名所のようである.
「あなたのいる床の山にお寄りして,いっしょに一休み昼寝でもして旧交を温めたいのですが,故有ってお会いできません.立ち寄らずに立ち去る言い訳の挨拶句」ということである.
なお,芹川を渡ったときに小さな丘「床の山」が見えたはずだと後になって気がつく.この辺りで自分で撮った写真を調べたが,肝心の床の山は写っていない.残念!
<旧跡床の山>
■石仏群と常夜灯
14時54分,石仏群に到着する.丘の斜面に,20~30体の石仏が並べられている.それぞれの石仏が,色とりどりのよだれかけを掛けているのに興味をそそられる.
これらの石仏の由来などは,手許にある資料では不明.
石仏群の直ぐ近くに,立派な常夜灯が立っている.
<石仏群> <常夜灯>
■石清水神社
14時51分,石清水八幡宮に到着する.地図を見ると,この辺りは大堀町である.
境内の案内板によると,この神社の祭神は第16代応神天皇とその母神功皇后(息長帯姫命).この神社の本殿が建っているところは亀甲山というらしい.この神社の由来は古く,飛鳥時代まで遡る.
本殿の建築時代は不明だが,拝殿は明治9年に改築されたものだという.
<石清水八幡宮>
■唯称寺
続いて,14時54分,唯称寺を詣でる.山号は鳥籠山.鳥籠山は先ほどの「床の山」の別名でもある.
案内板の説明によると,この寺は室町時代以前は天台宗の寺院だったが,永正年間(1504 ~1521年室町時代)に改宗,浄土真宗末寺となる.寛永2年(1625年)火災により本堂,庫裏を消失,元文2年(1737年)に再建され今日に至っている.
<唯称寺>
■近江鉄道の踏切
15時03分,近江鉄道の踏切に到着する.丁度このとき,近江鉄道の電車が踏切を通過していく.
いよいよ私達は,64次の高宮宿に到着である.
<近江鉄道の踏切を渡る>
■高宮神社
15時11分,高宮神社大鳥居の前に到着する.
境内にある案内板によると,この鳥居は中山道と多賀みちの分岐点に立っている.寛永12年(1635年)に建立された.鳥居の大きさは,高さ約11メートル,柱の間は約8メートルである.県の重要文化財に指定されているという.
<高宮神社>
■芭蕉の紙子塚
南南西に少し歩いて,15時15分,芭蕉の紙子塚に到着する.
古い家屋の柵に案内板が取り付けられている.また,直ぐ近くに明治天皇ゆかりの石柱が立っている.
案内板には次のようなことが書かれている.
“たのむぞよ
寝酒なき夜の
古紙子”
貞享元年(1684年)の冬,縁あって小林家三代目の許しで一泊した芭蕉は,自分が横になっている姿の絵を描いてこの句を読んだ.紙子とは神で作った衣服のことである.小林家は新しい紙子羽織を芭蕉に贈り,その後,庭に塚を作り古い紙子を収めて「紙子塚」と名付けた.
<芭蕉の紙子塚>
■脇本陣跡・問屋場跡
15時17分,脇本陣跡に到着する.
戦前に建築されたと思われる民家の格子に案内板が取り付けられている.この案内板の説明によると,江戸時代,高宮宿には2軒の脇本陣があった.その一つが,この地に置かれた.門美構,玄関付き,間口約14メートル,建坪約244平方メートルであったらしい.そして,門前には高札場があったらしい.
この脇本陣は道中奉行の支配下にあり慶長13年(1608年)からは人馬の継立,休泊,飛脚,街道の維持管理を行う問屋を兼ねていたので問屋場とも呼ばれていたという.
<脇本陣跡>
■本陣跡
15時18分,脇本陣の直ぐ近くにある本陣跡に到着する.
案内板の説明によると,高宮宿の本陣は1軒で,間口約27メートル,建坪約396平方メートルの建物だったという,現在は,この写真に写っている表門だけが残っている.
<本陣跡>
■円照寺
本陣と道路を挟んで反対側にある円照寺の写真を撮る.入口には明治天皇の碑が建っている.
資料6によると,この寺の山号は三光山.「高宮家家臣の北川九兵衛が剃髪建立。境内には明治天皇ゆかりの「止鑾の松」という名の松の大木や「家康公腰懸石」がある」という.
今回は,これらを見学せずに通過する.
<円照寺>
■むちん橋
15時21分,むちん橋に到着する.
橋の袂にある案内板によると,天保の初期,彦根藩は増水時の「川止め」で川を渡れなるのを解消するために,この地の富豪,藤野四郎兵衛,小林吟右衛門,馬場利左衞門らに費用を広く一般人から募らせ,橋を架けることを命じた.
当時,川渡しや仮橋が優良であったのに対して.この橋は渡り賃をとらなかったことから「むちんばし」と呼ばれたとのことである.
(むちん橋)
■むちん地蔵尊
むちん橋の袂にむちん地蔵尊が安置されている.
<無賃地蔵尊>
■高宮宿の案内杭
15時23分,むちん橋を渡り終えたところに案内杭が立っている.杭には「中山道高宮宿」と書いてある.
私達は,高宮宿を通過し,本日の歩き終わりのあまこ出村に入る.
<高宮宿案内杭>
<あまこ出村>
■法士一里塚跡
15時27分,法士一里塚跡を通過する.
ここには小さな杭が1本立っているだけで,往時の面影は微塵もない.
<法士一里塚跡>
■長閑な田園
一里塚跡を過ぎる辺りから,広々とした田園地帯が広がる.歩いていても実に心地が良い.
<長閑な田園地帯が広がる>
■月通寺
15時37分,月通寺(ガッツウジ)の前を通過する.
この寺の山号は延命山.真言宗.本尊は地蔵菩薩である.
<月通寺>
■還相寺
15時39分,還相寺に到着する.山号は甑谷山という・・が,浅学の渡しには読めない漢字である.真宗大谷派の寺院.本尊は阿弥陀如来とのこと.
<還相寺>
■了法寺
15時39分,了法寺を通過する.山号は摂取山.浄土宗の寺.それ以外のことは,手許の資料では不明.
<了法寺>
■松並木
15時42分頃から松並木の道になる.それほど長くはないが,暫くの間,松並木の道が続く.
相変わらず列の先頭と後ろの間隔が広がったままである.
<松並木>
■モニュメント
15時46分,彦根市が建てた大きなモニュメントの前を通過する.
15時49分,出町の交差点で左折して,南東の方向に向かう.
<彦根市のモニュメント>
■尼子駅
田んぼが一面に広がっている中を,ひたすら東南に歩き続ける.やがて田んぼに向こうに近江鉄道尼子駅の駅舎が見え始める.
15時59分,近江鉄道尼子駅に漸く辿り着く.
<尼子駅>
(つづく)
[参考資料]
資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5;http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/hirugao1.htm
資料6;
「中山道六十九宿」の前の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/fbd4abe94c3d599bdd19537d4bb1a314
「中山道六十九宿」の次の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/222702f94b96549be5dcd306a5c69c59
「中山道六十九宿」第15回目(次回)の最初の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/7d05729bf21e688aee67d1edb0fdab4e
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