中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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歩いて巡る中山道六十九宿(第13回):第1日目(2);日本ラインに沿って

2012年06月27日 03時37分29秒 | 中山道六十九宿

                            <日本ライン沿いの道から関道分岐へ下りる>

  歩いて巡る中山道六十九宿(第13回):第1日目(2);日本ラインに沿って
             (五十三次洛遊会)
        2012年6月22日(金)~24日(日)

2012年6月22日(金)  (つづき)


<日本ライン周辺地図>



<深田神社から木曽川の堤防道へ>

■深田神社
 10時06分,坪内逍遙ゆかりの妙見堂を通過する(前回地図の参照).
 この辺りのルートは文献により若干異なるが,私たちは今井金吾氏(資料3,p.278)のルートに沿って歩いている(前回示した地図の点線のルート).
 10時12分,進行方向左手にある深田神社に到着する.温度計を持参していないが,かなり気温が高そうで,少々蒸し暑い.神社の鳥居の陰で,暫く立ち休憩を取る.
 なお,深田神社の「深田」は,この辺りの地名である.深田神社の由来などは,手許の資料では不明である.

<深田神社>


<深田神社の木陰で休憩>

■滔々と流れる日本ライン

 ほんの数分の立ち休憩の後,深田神社のすぐ南側に木曽川右岸沿いの堤防に登る.涼しい河風が吹いている.昨日までの雨のためか,少し濁った水が川幅一杯に流れている.
 この辺りの木曽川のことを日本ラインと呼んでいるようである.

<滔々と流れる日本ライン>

■俳句が飾られた欄干
 堤防の護岸には,何やら俳句(?)刻字したプレートが沢山はめ込まれている.浅学非才の私には,これらの俳句は,残念ながら,殆ど分からない.

<日本ライン堤防の欄干>

■美しい姿の和船
 そよ風に吹かれながら,堤防の上を下る.
 10時22分,展示されている美しい和船の脇を通過する.多分,鵜飼いに使われていたものだろうと想像するが,説明文がないので良く分からない.また,手許の資料にも,この和船についての記述がないので,かっきりしたことは分からない.

<和船>

■兼松嘯風の歌碑
 和船のすぐ先に,兼松嘯風の歌碑がある.
 傍らに説明文を刻字した立派な石碑が置かれているが,何とも読みにくいので,読むのを諦める.
 私は兼松嘯風という俳人は知らないが,資料4には,次のような説明がある.
 「**三年(一六五四)〜宝永三年(一七〇六) 美濃国加茂郡深田村の生まれでこの地方の俳人。名前は甚蔵といいました。嘯風は、経済的に恵まれていたこともあり、風雅を好み、俳諧を嗜んでいました。当 初は、北村季吟の門下で活動していましたが、松尾芭蕉の蕉門十哲の一人である内藤丈草と出会い、蕉門に入りました。その後、蕉門十哲の一人各務支考に依頼 され『国の華』の第四巻「藪の花」を選集し、この地方の俳諧をリードしました。」
 なお「**」の部分は源資料でも年号が欠落している.

<兼松嘯風の歌碑>

■一色の堤防道を南西へ
 木曽川は大きく左に蛇行して,堤防から離れていく.地図を見ると,木曽川と堤防の間に,坂祝町一色という集落がある.
 私たちは,暫くの間,一色の集落沿いの堤防を南西の方向に歩き続ける.堤防のすぐ下には小さな川が流れている.
 やがて、前方に一色に通じる橋が見え始める.

<堤防道を南西に歩く>

<一旦木曽川から離れる>

■池端へ
 10時32分,一色へ通じる橋の袂に到着する.
 ここで,現在地を確認してから,橋の前の十字路を右折して,一色と川向かいにある池端の集落に入る.すぐに左折して,国道21号線の自動車道に沿って西に歩き始める.

<一色へ向かう橋の袂で現在地を確かめる>

■パジェロ製造工場
 2車線の自動車道路を西へ歩く.
 10時43分,パジェロ製造株式会社の前に到着する.大きな工場の敷地沿いに歩き続ける.会社名の脇に,「三菱パジェロ生誕の地」と大きな字で書かれた看板が取り付けられている.
 この辺りには,工場,物流・倉庫業などの産業が集積しているらしくて,如何にも工業都市名古屋近郊という雰囲気である.
 この道路を行き交う自動車はかなり多いが,道路には全くと言って良いほど人影はない.

<パジェロ製造株式会社>

■一里塚跡
 10時28分,一里塚跡に到着する.江戸日本橋から99番目の一里塚である.辺りは何の変哲もない公共地帯である.その中に「史跡一里塚趾」と書いてある杭が1本立っているだけである.

<一里塚跡>

■坂祝町役場で休憩
 10時52分,三叉路を右折,10時55分に坂祝町役場に到着する.ガラス張りの壁面が印象的な立派な庁舎である.ここでトイレ休憩を取らせて頂く.
 役場2階の総務課を訪れて,坂祝町関連の観光用パンフレットを幾つか頂戴する.役場の女子職員の対応がとても親切なので感激する.

<坂祝町役場>

<再び堤防道を歩く>

■行幸公園から日本ライン沿いの散策路へ
 11時10分頃,町役場を出発する.元の自動車道に戻ってから,すぐに木曽川右岸の堤防に上がり,堤防道を西南西の方向に歩き出す.
 道路の路面を見ると,私たちが歩く方向に「ここは行幸公園,終点(勝山入口)1300m あずまや800m 駅前入口430m」と書いてある.
 「駅って・・・何処の駅だろう?」
と少々気になるが,地図で確かめると,堤防から北へ200~300メートル離れたところに高山本線の坂祝駅が確かにある.これで地図上の現在地も確かに確認できた.
 心地よい川風を受けながら,堤防道をノンビリと歩き続ける.

<堤防道の標識>

 
<堤防道をノンビリと歩く>

■堤防上の水神
 11時25分,小さな祠の前を通過する.水神である.祠の脇には「水神」と刻字した石柱が立っている.
 この辺りで,堤防と並行している国道21号線へ下りる.
 
<堤防上の水神>

<関道分岐から岩屋観音へ>

■堤防下の道標
 国道をさらに西へ進むと.路傍に古い道標が立っている.流麗なくずし文字で書いてあるので,私にはよく読めないが,「右□□・・□」と書いてあるようだ(□の部分は私には読めない).
 その先の三叉路は関道の分岐点である.三叉路を右折すると関道に入る.
 11時27分,関道分岐を通過する.
 
<国道21号線に下りる>


<堤防下の道標;関道との分岐>

■コンビニで休憩
 木曽川右岸沿いの道路は,緩やかに左にカーブし,進行方向が次第に南西方向に変わる.右手には低い山が連なっている.道路の遙か前方で高圧線が道路を横切っているのが見える.地図で高圧線の位置を確かめながら現在地を把握する.
 11時31分,高圧線の真下を通過して,信号勝山西の三叉路に到着する.資料によるとこの辺りに神明神社跡碑があるようだが,見当たらない.
 11時36分,進行方向右手にあるコンビニで小休止.
 少し蒸し暑いので,アイスも中を購入.体内から身体を冷やす.

<コンビニで休憩>

■岩屋観音堂
 11時41分,コンビニを出発する.国道21号線はさらに左にカーブする.進行方向右側には険しい山が迫っている.
 11時44分頃,右側の崖沿いに作られている未舗装の小径に入る.急な階段道が続く.見る見るうちに高いところを歩く.
 11時48分,岩屋観音堂に到着する.崖の途中にかなり大きな観音堂が建っている.一同交代で参拝を済ませる.ここは坂祝町指定有形文化財に指定されている.
 資料5(p.51)によれば,この観音堂は推古天皇が勧請したもの.岩窟の中に石像の観音が安置されている.
 再び石段の参道を下って,国道21号線に戻る.

<岩屋観音堂>


<岩屋観音堂>

[参考文献]


資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;http://kaikan.ootajuku.net/history/post-39.html
資料5;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局


「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/639da3a1a71e75e6c594cd50e450adac
「中山道六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/8a9831706a6cbe3dff76a6b36e1dab0c

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