<懐古園>
8月15日:暑い日の小諸ネコ(4):栃木追憶
2009年8月15日(土) (つづき)
<追憶の栃木>
<小諸広域地図:「未公開」は当面「非公開」という意味(永久に非公開かもしれない).>
■郊外の道を辿る
小諸市内の北国街道をブラブラしていた私は,そろそろ郊外にある親戚の家に向かおうと思う.
実大寺前から,うろ覚えの枝道を辿って,小諸商業高校の方へ向かう.
こんな枝道を通るのは,実に50年振りのことである.近くの国道は,年に数回は通っているのに・・・
枝道を通っている内に,当時の記憶が沸々と蘇ってくる.今は小径に至るまで綺麗に舗装されているが,昔は相生町以外は,国道を含めて,すべて砂利道だった.
・・・そういえば,商家の小僧が蚕の繭を運搬するリヤカーに乗せて貰って,郊外の祖父の家から,小諸市内の自宅まで届けて貰ったことがあったな・・・あれはまだ小学校に上がる前だったな・・・この道の下には,大きな製材所があったっけ.でも今は住宅地になっている・・・
こんなことを思い出しながら懐かしい小径を辿る.
■栃木交差点
やがて,小径は国道141号線に合流する.途端に自動車の往来が増える.行き交う自動車に注意しながら,栃木の交差点に到着する.ここは三叉路である.左は西原を経由して上田方面へ通じる.右は諸,滝原,根津方面に向かう山道である.
右側の道を辿ると,祖父の家がある集落に到着する.
敗戦直後の食糧難時代に,祖父の家から少しばかりの食料を貰って,小諸市内の家に帰る途中で,この三叉路の駐在に捕らえられた.食料を貰うのは食管法(だったかな?)違反だという.警官から,
「おまえの家はどこだ?」
と聞かれる.
「○○町の××です」
と答える.
そのころ,私の父は,町医者だった.この警官の奥さんが父の患者だった.
そのためかどうか分からないが,警官は困ったような顔をして,結局は何の咎めもなく,そのまま自宅まで食料を持って帰った.
帰宅後,両親に「警官に捕まった」と話すと,両親はニヤニヤしていた.あのニヤニヤは,いったい何だったんだろう.両親はもう遠の昔に川の向こうへ行ってしまったので,結局は分からないままである.
それにしても,あの頃は,全く食べ物がなかったなあ・・
味噌も野菜もないので,岩塩を溶かした塩水を味噌汁代わりに飲んだ.※のご飯など滅多に食べられない.皆,ガリガリに痩せこけていた.履き物もままならないので,終日裸足のまま出歩くことが多かった.戦後暫くの間は,こんな状態が続いた.食糧事情は戦後の方がひどくなったかもしれない.
何もかも無い無い尽くし.道に落ちているモク拾い,釘拾い.ドロボーも多かった.それに,赤痢,トラホーム.良くもまあ今日まで生き延びたと思う.
お金のことは言いたくないが,
「・・・年輩の方々は,恵まれている・・私たちの時代には年金など当てにできない」
と,私たちの世代は幸福だと良く言われる.
私に言わせれば,
「あの青春時代に味わった惨めな体験をしないで済むのなら,年金に多少の不安があっても,今の若者と,いつでも交替してあげるよ」
というのが偽りのない気持ちである(言い過ぎたかな).
まあ,人生なんて,どうせ山谷があって,一生を均してみれば,皆,似たようなものだよ・・と達観したもう一人の私が言っている.
<戦後間もない頃,この三叉路で,警察に捕まった>
■8月15日は暑い
小諸は高原なので涼しいはずなのに,私が今住んでいる鎌倉と,「さして変わらない」ほど蒸し暑い.太陽が容赦なくジリジリと照りつける.
そういえば,玉音放送があったあの日も暑かった.あの放送を聞いても,私には戦争に勝ったのか,負けたのか,どうなっているのか全く理解できなかった.
直立不動で聞いていた家族や従業員が,放送が終わってからも,立ったまま何時までも泣いていた.
あの日は,まだ,父は軍隊に応召したままで不在.銃後は母が健気に守っていた.私は,折角,旧制中学に入学していたのに,戦争末期には,来る日も,来る日も,銃後を守るために,出征兵士の居る農家に派遣され,農業の手伝いをしていた.
戦時体制下で,上からの命令で,有無を言わせずに,農家の手伝いがきまっていたのだろう.今考えると,子どもを派遣されても,農家は,返って足手まといになっていただろう.今更,確かめようもないが,お国の命令だから仕方がなかったが,本当に役に立っていたのだろうか.
それにしても,町中では米などめったに食べられなかったけれども,農家へ手伝いに行くと,お昼に,大きな“銀シャリ”のにぎりめしを食べさせてくれる.うれしかったなあ!!
とはいえ,多少は役に立ったこともある.道ばたに落ちている馬糞や牛糞拾いである.これらは大切な肥料である.糞拾いならば,子どもでも楽にできる.汚いという感覚は,全くなく,良く拾い集めた.あとは,山からの薪運び,ヤギ用の草刈りと運搬.勉強などほとんどせずに,こんなことばかりしていた・・・
昔を懐かしみながら栃木を通過する.
<「お焼き」とネコと法事>
■どっしりとした「お焼き」
13時25分頃,法事の会場に到着する.
まだ,早すぎたようである.仏様の奥さん(つまり私の姉),息子,娘達だけが集まっている.丁度,昼飯時らしく,奥さんが手作りの「お焼き」が山盛りになっている.駅売りの「お焼き」と較べれば,不格好でやたらに大きいが,手作りの「お焼き」の方が,ずっしりしていて,とても美味しい.
一つ頂戴して,かぶりつく.中から大きなナスが出てくる.
「これ,これ,...これだよ! 「お焼き」は・・」
私は思わぬところで,祖母が作ってくれたのと同じの懐かしい「お焼き」に出会って,感激する.
「そういえば,戦争が激しくなる前,幼少のころには,田舎にも,結構,美味しいものがあったなあ・・」
私は甘酸っぱく,昔,昔のことを思い出す.
■ネコ3匹
ここには,3匹の内ネコが居る.母親ネコ1匹と,その子どものネコ2匹である.親子兄弟なので,3匹とも良く似ている.
どれも,可愛がられすぎているのか,メタボ気味である.3匹とも性格が異なるらしくて,私を珍しがって寄ってくるネコと,警戒して寄ってこないネコがいる.
このネコたちが,旦那を亡くした姉を,どれだけ慰めているか・・・
私は,暫くの間,ネコ達を相手に遊びほうける.
<メタボなネコ>
<おとなしい親ネコ>
■法事
近親者が集まって,14時頃から一周忌法要読経が始まる.
月日の経つのは,実に早いものである.義兄があの世へ旅立ってから,もう1年になる.改めて人生のはかなさを実感する.
お経の内容は,聞いていても殆ど分からないが,最後の般若心経だけは理解できた.
法要は私事なので,記録はこれくらいにしておこう.
小諸市内のお斎会場で法要が行われるまで,まだ,少々,時間がある.私は弟の運転で,高峰高原まで行ってみることにした.
<高峰高原>
■高峰高原ホテル
弟の車で,高峰高原ホテルの山岸さんを訪れようかと話がつく.山岸さんは,例年,体育の日に,弟がリーダーになって,浅間登山をする仲間である.
小諸市内から,チェリーパークラインの坂道を登る.
程なく,高峰高原ホテルに到着するが,お盆の真っ最中のためか,大混雑で駐車場が一杯である.それほど時間に余裕があるわけでもないので,高峰高原ホテルに立ち寄るのはヤメにする.どうせ,10月の体育の日辺りでお目に掛かるから,特段,急ぐこともない.
<高峰高原スキー場のレストハウス>
■スキー場で一休み
そのまま,峠を越えて,群馬県側に少し下る.そして,スキー場のレストハウス前で車を停める.
外に出ると,高原の冷気が心地よく伝わってくる.周辺の峰々には雲が掛かっている.ここは標高約2000メートルの峠である.
「早く冬にならないかなと思っているよ・・・午後からここへ来て,あのゲレンデを10回ぐらい滑って帰ると気分が良いよ・・」
と弟が言う.
こんな素晴らしいところの近くに住んでいる弟が羨ましくなる.
<高峰高原スキー場のゲレンデ>
<高峰高原スキー場から黒斑山方面を望む>
<再び小諸へ>
■小諸グランドキャッスルホテル
15時40頃,小諸駅近くの小諸グランドキャッスルホテルに戻る.長野新幹線が開通する前までは,このホテルも宿泊客や宴会場に来る方々で盛況だったが,開通後は何となく閑散としている.
ここが,お斎会場である.故人ゆかりの方々が30名ほど集まっている.中には,幼少の頃からの知人も何人かいる.法事は2時間足らずで終わる.
<小諸グランドキャッスルホテルから小諸の街を望む:電線が邪魔>
■懐古園を一寸だけ散策
法事が済んでも,まだ外が明るい.私は,折角小諸に来たのだから,近場の懐古園を,少しだけ散策しようと思う.
三の門から懐古園に入る.17時以降は入場無料である.近所の方々が,ラフな姿で,園内を散策している.あまり時間がないので,園内を一回りする余裕はない.入り口付近を,大急ぎで廻る.そして,物陰に隠れて,これまで着ていた黒いネクタイやYシャツを脱ぎ捨てて,Tシャツと半ズボン姿になる.
そして,小諸義塾の校舎の脇から,自由通路を通って,小諸駅に向かう.
<懐古園:三の門>
<小諸義塾の校舎>
<案外空いている長野新幹線>
■混雑する小海線
小海線小諸18時02分発小淵沢行に列車に乗車する.丁度そのとき到着した「しなの鉄道」の列車からおびただしい人数の若者や家族連れが小海線に乗り換えてくる.たちまちの内に,列車は満員になる.乗客は,高校生ぐらいの男女が大半である.浴衣姿の女性が沢山居る.
小海線沿線のどこかで,若い人を惹き付けるイベントがあるらしいが,何があるのかさっぱり分からない.でも,面倒なので,何があるかを聞く気にもならない.「聞いたところで,それが何になる」なんて,馬鹿みたいに意固地になっている.
まもなく長野新幹線乗換駅の佐久平に到着する.ここでも大変な人が小海線の列車に乗ろうとしている.ホームは人の波でもみくちゃである.
<混雑する小海線:佐久平駅にて(写っている人物は無関係)>
■新幹線に悠々と座れる
長野新幹線の自由席に乗るつもりである.東京まで立ちんぼを覚悟している.10分余りの待ち合わせで,佐久平18時30分発あさま544号東京行に乗車する.列車は案外空いていて,楽に腰掛けられる.軽井沢からは多少の立ち席も出たが,この時期にしては空いている.列車が空いているのは不況のせいか,それとも高速道路1000円のためか分からないが,拍子抜けする.
座席に座って考える.
先ほど出会った沢山の乗客の中で,今日が「玉音の日」だということを認識している人は,一体何人いるだろうか.正に,第二次世界大戦の悲劇は遠い昔のことになってしまった.かろうじて当時のことを知っている私たちが,このまま戦争の無意味さ,悲惨さを孫子に伝えなくて良いのだろうか.
冷房の利いた電車の中は気持ちが良い.すぐに眠くなる.居眠りをしている内に,瞬く間に東京に到着する.直ぐに東海道本線の電車に乗り換える.東海道本線の電車に乗ると,何となく日常に引き戻されたような,がっかりしたような気分になる.
大船で下車する.相変わらず人数が多い.静かな小諸に比較すると,大船は毎日が縁日のような感じである.それにしても暑い.
こうして,長い,長い,小諸の一日旅は終わった.
9月になったら,また,小諸を訪れようかと思っている.
(おわり)
「関東・上信越の山旅」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/011d37c85fcd64f0c617b4c9e2ed63c1
「関東・上信越の山旅」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/f9c740beb9a8f34ef04ef60b43bdfc0e
8月15日:暑い日の小諸ネコ(4):栃木追憶
2009年8月15日(土) (つづき)
<追憶の栃木>
<小諸広域地図:「未公開」は当面「非公開」という意味(永久に非公開かもしれない).>
■郊外の道を辿る
小諸市内の北国街道をブラブラしていた私は,そろそろ郊外にある親戚の家に向かおうと思う.
実大寺前から,うろ覚えの枝道を辿って,小諸商業高校の方へ向かう.
こんな枝道を通るのは,実に50年振りのことである.近くの国道は,年に数回は通っているのに・・・
枝道を通っている内に,当時の記憶が沸々と蘇ってくる.今は小径に至るまで綺麗に舗装されているが,昔は相生町以外は,国道を含めて,すべて砂利道だった.
・・・そういえば,商家の小僧が蚕の繭を運搬するリヤカーに乗せて貰って,郊外の祖父の家から,小諸市内の自宅まで届けて貰ったことがあったな・・・あれはまだ小学校に上がる前だったな・・・この道の下には,大きな製材所があったっけ.でも今は住宅地になっている・・・
こんなことを思い出しながら懐かしい小径を辿る.
■栃木交差点
やがて,小径は国道141号線に合流する.途端に自動車の往来が増える.行き交う自動車に注意しながら,栃木の交差点に到着する.ここは三叉路である.左は西原を経由して上田方面へ通じる.右は諸,滝原,根津方面に向かう山道である.
右側の道を辿ると,祖父の家がある集落に到着する.
敗戦直後の食糧難時代に,祖父の家から少しばかりの食料を貰って,小諸市内の家に帰る途中で,この三叉路の駐在に捕らえられた.食料を貰うのは食管法(だったかな?)違反だという.警官から,
「おまえの家はどこだ?」
と聞かれる.
「○○町の××です」
と答える.
そのころ,私の父は,町医者だった.この警官の奥さんが父の患者だった.
そのためかどうか分からないが,警官は困ったような顔をして,結局は何の咎めもなく,そのまま自宅まで食料を持って帰った.
帰宅後,両親に「警官に捕まった」と話すと,両親はニヤニヤしていた.あのニヤニヤは,いったい何だったんだろう.両親はもう遠の昔に川の向こうへ行ってしまったので,結局は分からないままである.
それにしても,あの頃は,全く食べ物がなかったなあ・・
味噌も野菜もないので,岩塩を溶かした塩水を味噌汁代わりに飲んだ.※のご飯など滅多に食べられない.皆,ガリガリに痩せこけていた.履き物もままならないので,終日裸足のまま出歩くことが多かった.戦後暫くの間は,こんな状態が続いた.食糧事情は戦後の方がひどくなったかもしれない.
何もかも無い無い尽くし.道に落ちているモク拾い,釘拾い.ドロボーも多かった.それに,赤痢,トラホーム.良くもまあ今日まで生き延びたと思う.
お金のことは言いたくないが,
「・・・年輩の方々は,恵まれている・・私たちの時代には年金など当てにできない」
と,私たちの世代は幸福だと良く言われる.
私に言わせれば,
「あの青春時代に味わった惨めな体験をしないで済むのなら,年金に多少の不安があっても,今の若者と,いつでも交替してあげるよ」
というのが偽りのない気持ちである(言い過ぎたかな).
まあ,人生なんて,どうせ山谷があって,一生を均してみれば,皆,似たようなものだよ・・と達観したもう一人の私が言っている.
<戦後間もない頃,この三叉路で,警察に捕まった>
■8月15日は暑い
小諸は高原なので涼しいはずなのに,私が今住んでいる鎌倉と,「さして変わらない」ほど蒸し暑い.太陽が容赦なくジリジリと照りつける.
そういえば,玉音放送があったあの日も暑かった.あの放送を聞いても,私には戦争に勝ったのか,負けたのか,どうなっているのか全く理解できなかった.
直立不動で聞いていた家族や従業員が,放送が終わってからも,立ったまま何時までも泣いていた.
あの日は,まだ,父は軍隊に応召したままで不在.銃後は母が健気に守っていた.私は,折角,旧制中学に入学していたのに,戦争末期には,来る日も,来る日も,銃後を守るために,出征兵士の居る農家に派遣され,農業の手伝いをしていた.
戦時体制下で,上からの命令で,有無を言わせずに,農家の手伝いがきまっていたのだろう.今考えると,子どもを派遣されても,農家は,返って足手まといになっていただろう.今更,確かめようもないが,お国の命令だから仕方がなかったが,本当に役に立っていたのだろうか.
それにしても,町中では米などめったに食べられなかったけれども,農家へ手伝いに行くと,お昼に,大きな“銀シャリ”のにぎりめしを食べさせてくれる.うれしかったなあ!!
とはいえ,多少は役に立ったこともある.道ばたに落ちている馬糞や牛糞拾いである.これらは大切な肥料である.糞拾いならば,子どもでも楽にできる.汚いという感覚は,全くなく,良く拾い集めた.あとは,山からの薪運び,ヤギ用の草刈りと運搬.勉強などほとんどせずに,こんなことばかりしていた・・・
昔を懐かしみながら栃木を通過する.
<「お焼き」とネコと法事>
■どっしりとした「お焼き」
13時25分頃,法事の会場に到着する.
まだ,早すぎたようである.仏様の奥さん(つまり私の姉),息子,娘達だけが集まっている.丁度,昼飯時らしく,奥さんが手作りの「お焼き」が山盛りになっている.駅売りの「お焼き」と較べれば,不格好でやたらに大きいが,手作りの「お焼き」の方が,ずっしりしていて,とても美味しい.
一つ頂戴して,かぶりつく.中から大きなナスが出てくる.
「これ,これ,...これだよ! 「お焼き」は・・」
私は思わぬところで,祖母が作ってくれたのと同じの懐かしい「お焼き」に出会って,感激する.
「そういえば,戦争が激しくなる前,幼少のころには,田舎にも,結構,美味しいものがあったなあ・・」
私は甘酸っぱく,昔,昔のことを思い出す.
■ネコ3匹
ここには,3匹の内ネコが居る.母親ネコ1匹と,その子どものネコ2匹である.親子兄弟なので,3匹とも良く似ている.
どれも,可愛がられすぎているのか,メタボ気味である.3匹とも性格が異なるらしくて,私を珍しがって寄ってくるネコと,警戒して寄ってこないネコがいる.
このネコたちが,旦那を亡くした姉を,どれだけ慰めているか・・・
私は,暫くの間,ネコ達を相手に遊びほうける.
<メタボなネコ>
<おとなしい親ネコ>
■法事
近親者が集まって,14時頃から一周忌法要読経が始まる.
月日の経つのは,実に早いものである.義兄があの世へ旅立ってから,もう1年になる.改めて人生のはかなさを実感する.
お経の内容は,聞いていても殆ど分からないが,最後の般若心経だけは理解できた.
法要は私事なので,記録はこれくらいにしておこう.
小諸市内のお斎会場で法要が行われるまで,まだ,少々,時間がある.私は弟の運転で,高峰高原まで行ってみることにした.
<高峰高原>
■高峰高原ホテル
弟の車で,高峰高原ホテルの山岸さんを訪れようかと話がつく.山岸さんは,例年,体育の日に,弟がリーダーになって,浅間登山をする仲間である.
小諸市内から,チェリーパークラインの坂道を登る.
程なく,高峰高原ホテルに到着するが,お盆の真っ最中のためか,大混雑で駐車場が一杯である.それほど時間に余裕があるわけでもないので,高峰高原ホテルに立ち寄るのはヤメにする.どうせ,10月の体育の日辺りでお目に掛かるから,特段,急ぐこともない.
<高峰高原スキー場のレストハウス>
■スキー場で一休み
そのまま,峠を越えて,群馬県側に少し下る.そして,スキー場のレストハウス前で車を停める.
外に出ると,高原の冷気が心地よく伝わってくる.周辺の峰々には雲が掛かっている.ここは標高約2000メートルの峠である.
「早く冬にならないかなと思っているよ・・・午後からここへ来て,あのゲレンデを10回ぐらい滑って帰ると気分が良いよ・・」
と弟が言う.
こんな素晴らしいところの近くに住んでいる弟が羨ましくなる.
<高峰高原スキー場のゲレンデ>
<高峰高原スキー場から黒斑山方面を望む>
<再び小諸へ>
■小諸グランドキャッスルホテル
15時40頃,小諸駅近くの小諸グランドキャッスルホテルに戻る.長野新幹線が開通する前までは,このホテルも宿泊客や宴会場に来る方々で盛況だったが,開通後は何となく閑散としている.
ここが,お斎会場である.故人ゆかりの方々が30名ほど集まっている.中には,幼少の頃からの知人も何人かいる.法事は2時間足らずで終わる.
<小諸グランドキャッスルホテルから小諸の街を望む:電線が邪魔>
■懐古園を一寸だけ散策
法事が済んでも,まだ外が明るい.私は,折角小諸に来たのだから,近場の懐古園を,少しだけ散策しようと思う.
三の門から懐古園に入る.17時以降は入場無料である.近所の方々が,ラフな姿で,園内を散策している.あまり時間がないので,園内を一回りする余裕はない.入り口付近を,大急ぎで廻る.そして,物陰に隠れて,これまで着ていた黒いネクタイやYシャツを脱ぎ捨てて,Tシャツと半ズボン姿になる.
そして,小諸義塾の校舎の脇から,自由通路を通って,小諸駅に向かう.
<懐古園:三の門>
<小諸義塾の校舎>
<案外空いている長野新幹線>
■混雑する小海線
小海線小諸18時02分発小淵沢行に列車に乗車する.丁度そのとき到着した「しなの鉄道」の列車からおびただしい人数の若者や家族連れが小海線に乗り換えてくる.たちまちの内に,列車は満員になる.乗客は,高校生ぐらいの男女が大半である.浴衣姿の女性が沢山居る.
小海線沿線のどこかで,若い人を惹き付けるイベントがあるらしいが,何があるのかさっぱり分からない.でも,面倒なので,何があるかを聞く気にもならない.「聞いたところで,それが何になる」なんて,馬鹿みたいに意固地になっている.
まもなく長野新幹線乗換駅の佐久平に到着する.ここでも大変な人が小海線の列車に乗ろうとしている.ホームは人の波でもみくちゃである.
<混雑する小海線:佐久平駅にて(写っている人物は無関係)>
■新幹線に悠々と座れる
長野新幹線の自由席に乗るつもりである.東京まで立ちんぼを覚悟している.10分余りの待ち合わせで,佐久平18時30分発あさま544号東京行に乗車する.列車は案外空いていて,楽に腰掛けられる.軽井沢からは多少の立ち席も出たが,この時期にしては空いている.列車が空いているのは不況のせいか,それとも高速道路1000円のためか分からないが,拍子抜けする.
座席に座って考える.
先ほど出会った沢山の乗客の中で,今日が「玉音の日」だということを認識している人は,一体何人いるだろうか.正に,第二次世界大戦の悲劇は遠い昔のことになってしまった.かろうじて当時のことを知っている私たちが,このまま戦争の無意味さ,悲惨さを孫子に伝えなくて良いのだろうか.
冷房の利いた電車の中は気持ちが良い.すぐに眠くなる.居眠りをしている内に,瞬く間に東京に到着する.直ぐに東海道本線の電車に乗り換える.東海道本線の電車に乗ると,何となく日常に引き戻されたような,がっかりしたような気分になる.
大船で下車する.相変わらず人数が多い.静かな小諸に比較すると,大船は毎日が縁日のような感じである.それにしても暑い.
こうして,長い,長い,小諸の一日旅は終わった.
9月になったら,また,小諸を訪れようかと思っている.
(おわり)
「関東・上信越の山旅」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/011d37c85fcd64f0c617b4c9e2ed63c1
「関東・上信越の山旅」の次回の記事
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