☆毎日をキラリ!と

キラリ!と光るのは、ちょっと無理かもしれないけれど、どんなことにも前向きに・・・

兄の死 その3

2011年11月29日 | 日記
兄の事故は、付近に設備の整った病院がなく 病院をたらい回しになったことで 新聞記事になったらしく、 学校に行くと みんな 兄が

亡くなったことを知っていた。

私たち家族を 励ましたり そっとしておいてくれたり、 なるべくいつも通りに接してくれた人もあったけど、  被害者の家族である

私たちや、 事故を見つけて 兄たちを車に乗せ 病院を回って下さった親切な方にまで 因縁めいたことを言ってくる人もいた。  

世の中とは そういうものなのかもしれない。  強くならなければ 付け込まれる・・・ 


兄の葬儀の三日後から いつもどおり 店を開けた。 お客様の注文や預かり物に不都合があっては 店の信用は保てない。 両親に

代わって、私も ときどき学校を休んで 店に出た。 力を合わせて 生きていくのが 家族だと思った。


あれから40年・・・  母は 心が壊れてしまった時期もあった。  おしゃれで 負けん気な母が 買い物に出かけた繁華街の真ん中で 

スカートをまくって 靴下を引き上げたときには 正直 ぞっとした。   両親も今は80歳を過ぎ、 支えてくれた祖母や伯父も 他界した。 

強くなりたい・・・ と 法学部に進学した私も たいして 物にはならなかった。


今は 兄の死が無かったかのように ごく平凡に暮らす毎日ではあるけど、 私も きっと両親も 平凡に暮らせることに、また そこそこ

健康でいられることに感謝をし、間違いなく 真面目に、 出来る限り 人生を無駄にすることなく 生きてきたと思う。


もうすぐ 兄の 40回目の命日だ。 生きていれば 還暦なんだ、 どんなおじさんに なっていただろう・・・ と ふと思う。 

兄の死 その2

2011年11月27日 | 日記
神戸の震災の時、ニュースを見る度に 涙が止まりませんでした。


沢山の方が 突然の地震の為に 亡くなられ、 沢山の方が 大切な人の残念な死を 受け入れなければならない。

親を亡くされた子供さんたち、子供さんを亡くされた方々など。 大切な家族を亡くされて、心に大きな傷を受けた方が 何千人も

おられることでしょう。 皆さん 心の傷に加えて 明日からの生活の不安もあるんですものね。

真面目に 一生懸命生きてこられた人ほど どうして私がこんなにめに遭わなければいけないの? 何故 私の家族だけが 死ななければ

いけないの? など 到底 納得のいかない思いに 苦しんでおられることでしょう。 

怪我をされて 体が不自由になられた方は、痛み 悲しみ 腹立たしさ・・・などの 思いと 毎日闘っておられるかもしれない。

私たち家族どころではない・・・と。


JR尼崎の鉄道事故の時も 同じ気持ちがしました。

尼崎の人たちも 震災で 大きな被害を受けらたそうです。 事故現場の近くの会社に勤めていた 主人の話だと、 事故を知った上司が 

社員に救助の手伝いを・・・ と思ったときには、殆んどの社員が 現場に駆けつけていなかった ということです。  一人でも多くの人を 

助けてあげたい・・・ と 仕事をおいて 駆けつけられた方々も  きっと 事故の辛さがわかる方々なんだ と思いました。 

兄の死 その1

2011年11月24日 | 日記
私は18歳の時に兄を亡くしました。 兄は20歳になって 2週間ほどで亡くなりました。

朝 元気に出かけて行って 帰ってきたときはお棺の中でした。 交通事故です。 驚きと悲しみで その日の事はよく覚えていません。

一人息子を突然亡くした両親は どんな気持ちだったのだろう・・・ と考えると、 やはり 逆縁ほど親不孝なことはない と思いました。

もっと生きたかっただろう・・・と思うと 兄の口惜しさ、 残念だったろう気持ちが伝わってくる様な気もしました。

「生老病死の移り来ること ついでを待たず・・・」 か と高校生だった私は、人は皆 気づかぬだけで いつも死に直面しているんだ と思った

ような気もします。

あれから40年。 私たち家族 祖母、両親、私 の物の考え方、人生 は大きく変わりました。 変わらなければいけない と思った部分もあり

ました。兄の死を 無駄にしたくない という気持ちが強かったからです。