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シネマテークたかさき で『判決、ふたつの希望』を独りで観た。
一体どういう話なのか、HP から引用する。
「レバノンの首都ベイルート。その一角で住宅の補修作業を行っていたパレスチナ人の現場監督ヤーセルと、キリスト教徒のレバノン人男性トニーが、アパートのバルコニーからの水漏れをめぐって諍いを起こす。このときヤーセルがふと漏らした悪態はトニーの猛烈な怒りを買い、ヤーセルもまたトニーのタブーに触れる “ある一言”に尊厳を深く傷つけられ、ふたりの対立は法廷へ持ち込まれる。
やがて両者の弁護士が激烈な論戦を繰り広げるなか、この裁判に飛びついたメディアが両陣営の衝突を大々的に報じたことから裁判は巨大な政治問題を引き起こす。かくして、水漏れをめぐる“ささいな口論”から始まった小さな事件は、レバノン全土を震撼させる騒乱へと発展していくのだった……。」
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この映画の背景を少し垣間見える記事が BuzzFeed にある。 ★
長い歴史の中で多くの民族が関わってきた土地だ。イスラレルを核として大きな問題がずっしり横たわっている。宗教の違いや難民という立場からいくつかグループに分かれるのだが、そのグループがまとまるのにエコーチェンバー現象とフィルターバブルというのが大きな力を果たしている。
エコーチェンバー現象というのは、自分と同じ意見ばかりエコーのように帰ってくる閉じたコミュニティにいること。フィルターバブルというのは、インターネットの検索エンジンが使う人の好みを学習して好まない情報をシャットアウトしていき、フィルターによってまるで泡のなかに閉じ込めらたようになること。
つまり、情報の取り込みによって己のグループが正しくてそうでないグループをどんどん非難するするように人々の気持ちが傾いていく、ということなのだ。
いま世界中が難民受け入れを拒否する方向に動いている。今まで積極的に難民を受け入れていた国でも選挙によって方向転換の民意を示される例が増えてきた。そのことを単純に良し悪しいうのは乱暴だと思う。
なにより人はまず動物なんである。身内とそうでないものに分け縄張りを守ろうとするのはもう本能なんだと思う。その一方で、他者を助けようとする本能もヒトだけのものではない。
どのような工夫をもって対処すればいちばんおさまるのだろう?
難民が来なければよい、それならば、難民が発生しなければよい、というのは簡単に思いつくのだが、そもそもヒトはアフリカで進化して以来ずっと移動し続けてきた。たぶん、その土地を後にしなければいけないのは弱い方だったろう。移った先に先住者がいた場合、何が起きたか?
ああ根深いね。
わたしも群馬の山奥に越してきて子供を産んで育てたけれど、もともと住んでいた人たちは温かく受け入れてくれたけれど、彼らとの違いを痛感することは多々あった。もともと住んでいた人たち、と一括りにするのは危ない考えだ、と感じたこともあった。ひとごとではないんである。
この映画について言いたいことはいろいろあるけれど、ネタバレしちゃうのでここらで止める。
最後に一つだけ。 あの終わり方はよかった。
チラシのコメント。
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