ヤスジロウのdiary ♪

未だみぬ過去を探し求めたい

 う  み

2018-07-26 | その他

18・7・22 Sun 

暑い日が続いておりますが、行くともなしに三国まで走ってみました。
陽射しを避けて日陰で休んでいると、そよ風が涼しく感じるそんな日でした。


蠅帽子峠

2018-07-16 | 山登り

18・7・15 Sun 

当会のS田君が沢登りに誘ってくれました。ついでに何処かよさげなとこ
ろはありますか、と尋ねられたので僕からの希望として蠅帽子山をリクエ
ストしました。静寂な森の中をゆっくりと流れる蠅帽子川の印象はとても
よかったし、以前から蠅帽子峠のお地蔵さんをもう一度見たいなぁという
気持ちがささやかながらも心の片隅にあったから。

 
 

 

4時半に福井を発って笹生川ダムへと向かいます。ダム湖を回り込んで
蠅帽子川への林道を車で進んで行くとすぐに小さな土砂崩れで通行止め
になっていました。
そこから先は徒歩で林道を詰めて中髙沢出合から蠅帽子川へと入ってゆ
きました。以前は無かった新しい堰堤を見たときにはガックリしました
が、そこを越えてしばらく行くと昔のままの景気が広がっていました。

 

 

 

西ケ麓谷出合まではジャブジャブと瀬を歩いてきましたが、気がつくと
(温ノ谷付近からか)左岸には所々で昔の峠道が通っているのを見るこ
とができました。東ケ麓谷から峠又谷に入って山頂を目指す段になって
ようやく小滝がチョコチョコと現れてきますがどれも楽しく越えて行け
ます。
さて、僕たちの読図が正しければ蠅帽子嶺の山頂へとダイレクトに延び
ると思しき枝沢までやってきたのですが、その見るからに暑苦しそうな
薮漕ぎを予見させる涸れた枝沢を詰める気にはなれなかったので、もう
少し高度を上げてから山頂方面への枝沢に入ることにしました。
結果的には山頂からはやや遠ざかったものの、然したる藪漕ぎもないま
まに県境稜線上の小径へと出ました。



 

 

 


県境稜線上の小径を二三分歩いたところで山頂に辿りつきました。僕に
は1996年の9月以来の蠅帽子嶺山頂です(10:05)。何もかもが懐かし
い当時と比べても何も変わったようには感じられないのが国境の藪山の
良いところですね。S田君が手にしているのは登山愛好者自作の蠅帽子
嶺山頂の看板です、もぅかなり古そうです。

 

 

 

 

山頂は薮に囲まれていますが、なんとか能郷白山以南の山並みを眺める
ことができる程度には小広く刈り込んであります。山頂で昼食を摂りた
いところではありますが、陽射しと蒸し暑さを避けて山頂下の木陰の径
の上で摂りました。

 

 

 

 

さて、昼食を終えて蠅帽子峠へと向かいます。山頂から峠へは小径があ
るのでどんどん歩いてゆけます。途中には大きな檜が次々と立ちはだか
っていました。こんなに大きな檜ってあったかなぁ、、、?
とか思いながらも進んで行くうちに蠅帽子峠の標高よりも低くなってい
て?そこでようやくルートミスに気がつき、再び県境尾根へと登り返し
ました。
県境まで戻って径を確認すると峠方面への径がありました。どうやら東
西ケ麓谷の中尾根に拓かれた径に誘い込まれてしまったようです。

 

 

 

11:30 ようやく辿りついた蠅帽子峠です♪”水戸浪士の道”が気になる
方は吉村昭さんの小説「天狗争乱」をご一読下さい。

 時は幕末、総大将の武田耕雲斎と藤田小四郎等が率いる水戸天狗党の浪士隊
は京都禁裏守衛総督一橋慶喜の下に赴き、慶喜から朝廷に事情を訴え裁断を仰ぐ
ことに決した。途中各所で幕軍の追討を退けながら大子村から下野国境を越え、
那須、鹿沼、太田、下仁田、和田峠、下諏訪、美濃を経て、1ヶ月後の12月1日に
岐阜の揖斐に達した。
揖斐で西郷隆盛の秘命をうけた桐野利秋が薩摩藩として尽力することを約し中山道
を経て入京を勧めるが
藤田小四郎等は一橋慶喜が鎮撫のため自ら大津まで出ようと
していることを聞き、桐野に謝絶して進路を北にとって越前に向かうことになる。

12月3日に大河原に泊まり、翌4日には這法師峠を越えて越前西谷の秋生に泊まるこ
とになるのだが、この時通った峠がこの蠅帽子峠なのです。

その後、一行は蠅帽子峠を越え越前大野郡に入り、今立郡池田、南条郡今庄から木ノ
芽峠を越えて、12月11日敦賀郡新保に入るが…

 

 

峠にあるこのお地蔵さんは、明治元年(水戸の浪士隊が越えた3年後かな)に
美濃人によって安置されたそう。

【蠅帽子峠】江戸表で濃越国境の路の修復を大野藩から大垣藩に持ちかけられて修復
し1840年に完成。
大河原など六か所に荷継場や問屋を設けた。大野のゴザ、勝山のタバ
コが根尾の村々に運ばれたとある  「秘境・奥美濃の山旅」

 

 

 

峠からの下山にあたっては、当時の浪士隊の苦労に思いを馳せながら山腹
に刻まれた小径を辿って行きました。途中で、先ほどの大きな檜が次々と
立ちはだかっていた尾根上の径と合流して西ケ麓谷出合へ(12:10)。

するとS田君が藪の陰に看板を見つけました。90年代の頃の峠からの小径
と比べて今回歩き易く感じたのはこの看板を立てた人々が手入れしたから
なのでしょう。しかしながらすでに藪に埋もれつつあるこの看板の行く末
を思うとちょっぴり心許ない感じも受けました。

 
 

 

 

その後も出来るだけ小径を拾いながら下りましたが中高谷出合へと近づく
程に径は分からなくなってゆきました。径がない箇所は渡渉や水際にルー
トを求めることになりますが雪が降るなかを草鞋で歩き通した当時の浪士
隊の苦労を思うと胸がつまるような思いがします。

あとは、今朝の堰堤(13:30)を越えて再び林道を歩いて車へと戻りまし
た(15:00)。S田君のおかげで充実した山歩きができました、ありがとう
ございました。