第五十三章 益証 (道に益となる非道の 証 )
我をして介然として知ること有らしめば、大道を行かん。
唯り 施 すこと、是を畏れん。
大道は 甚 だ夷(たい)らかなれども、而るを民は 径 を好む。
朝は 甚 だ除まり、田は 甚 だ蕪(あ)れ、倉は 甚 だ虚し。
文繍(ぶんしゅう)を服(き)、利剣を帯び、 飲食 に厭きて財貨余り有り。
是を 盗 の夸りと謂う。道に非ざるかな。
大道は、平らかなものであって、有るか、無いか、判らないものである。
例えば、道が行なわれているときは、政治が行なわれているか、行われていないか判らないものである。
朝廷が租税を重くし、また、農繁期も構わず民を利用して立派な建物を建てさせたり、種々の仕事に使役することがあると、農民は農耕に専念できないために田畑は荒れ、収穫は少ないために貯蔵する程の穀物は収穫できないので、倉へ入れる穀物は極めて少ないということになるのである。
民百姓を非境に陥れて、朝に立つ者だけが栄華にふけるような政治のとり方をして、政治的手腕があるように誇るのは、税の名において民の財を奪い、それを誇りとするのと同じことであって、盗人が盗品を山のように積んで栄華にふけり、その手腕を誇るのと変りはないのである。
政治の最も善い状態は、第十七章に、
太上は下之有るを知る
とあるように、民が税をとられたりすることが少なく、貧富の差が少ないのをいうのである。