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第七十章 知難(世に知り難い)
吾が言は甚だ知り易く、甚だ行ない易し。
天下能く知ること莫く、能く行なうこと莫(な)し。
言に宗有り、事に君有り。
夫唯(よのひと) 知ること無し。
是を以て、我を知らず。
我を知る者は希なし。我に則る者は貴 し。
是を以て、聖人は褐(かつ)を被(き)て 玉 を 懐(ふところ) にす。
言葉には主となるもの、基となるものがあるのである。道の言葉の主となるものは、無である。無は無の心、私心のないことを現わすのであって、無私の心に生ずるものは、慈愛の心である。慈愛の心から、すべてのものを大切にする、倹の心が生じ、すべてのものと争わない、譲るという心も生ずるのである。
第一章と第六十二章において述べたように、無欲になって座るということを習慣とすれば、無の心になることは容易であって、老子の言うことは解りやすく、行いやすいということも明らかになるのであるが、言うことが余り簡単であるために、却って信ずる人が少ないことは、第四十一章に述べた通りである。以上のようなわけで、老子の言うことを知ることができないから、老子を知ることができないのである。
聖人は貴いところの徳を備えているが、総ての人からよく理解されないところでは、粗末な衣服をきて、目立たない姿でいるのである。