歴史には思わぬ盲点がある。
例えば,我が国の有史以来の悪人を10人挙げよ,となると誰を挙げることになるだろう・・・。
蘇我入鹿,弓削道鏡,藤原時平,平清盛,源頼朝,北条政子,北条義時,北条高時,足利尊氏,高師直,足利義政,日野富子,斎藤道三,松永久秀,明智光秀,石田三成,井伊直弼・・・なんて名前がたちどころに挙がりそうだ・・・。
いずれも果断な性格で,政策を断行した点が共通していると思うし(高時と義政・富子夫妻は違うか・・・),簡単・単純に悪人のレッテルを貼ること自体が極めて安易と思われるが,今回はその中で石田三成に焦点を当ててみたい。
・・・と言っても,三成については今更私が語る程でもあるまい。
多くのサイトを見れば済むことだし,個人的には特に興味の湧く人物ではない。
寺に入れられていた子どもの頃,秀吉に茶を入れて気に入られたエピソードなどいささか出来すぎと思うし,だいたいそんな小賢しい子どもなんてかわいげが全くないと思う。
私としては,三成の軍師である島左近勝猛に魅力を感じるのだが,彼と上杉家家老直江山城守兼続についてはいずれ述べてみたいものである。
だから,三成について述べるのではなく,彼の子どもについて語ってみたいと思う。
周知の通り,三成は慶長5(1600)年9月15日の関ヶ原の一戦に敗れ,伊吹山から小谷山付近へ逃走して,同21日痢病を煩ったところを田中吉政の配下に捕らえられ,大坂・堺を引き回しの上10月1日に京の六条河原で斬られた。
その前の関ヶ原直後の9月18日,三成の居城佐和山城が東軍の猛攻によって陥落(西軍を裏切った小早川秀秋軍が主力だったらしい)。
父正継と兄正澄,三成の妻の父である宇田頼忠・頼重父子は城と運命を共にした。
さらには,女たちは城の裏手の谷に身を投げた,という痛ましい話も伝わっている。
正澄長男(つまり三成甥)朝成は一緒に自害したとも,西国へ逃れたとも諸説がある。
正澄次男主水正は木喰上人を頼って高野山に逃れたが,12月に自害したという。
・・・と,ここまで打ってやっとノってきた,と思いきや,子どもを風呂に入れろと矢のような催促が・・・。
おまけに,「仕事」忙しいんだったらしなくていい,と嫌味を散々言われた・・・。
せっかく本題に入ろうとしているのに,続きは明日にでも・・・。
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