石田三成の子たちは一体どうなったのだろう。
関ヶ原後の佐和山城攻城戦では三成の父や兄,義父に甥も皆儚くなっているにもかかわらず,三成の子の記述は無い。
私はてっきり佐和山で一族と共に自害したか,東軍に捕らえられ斬られたと思っていた・・・。
三成次男重成(吉成とも)。
天正17(1589)年生。
関ヶ原の役後,父三成が烏帽子親を務めた津軽信建(1574-1607初代津軽藩主大浦為信長子)の手引きにより,津軽へ逃れる。
そこで名を変え,1610年に死去したとも1641年まで生きたとも言われる。
彼の子孫の杉山家は,代々津軽藩の重臣として栄えたという。
津軽氏は,当主の為信が東軍に属したものの,長子の信建が前述の通り三成を烏帽子親としたため西軍に与した。
これは,真田家同様,生き残りを賭けた苦肉の策だったと思われる。
長男重家。
天正11?(1583)年生。
関ヶ原の役当時,人質として大坂城内に留め置かれる。
関ヶ原敗軍,及び佐和山城陥落の報を受けて,家臣津山甚内の手により城内から脱出。
京都妙心寺(三成が父正継のために建立)の塔頭に入り剃髪。
やがて,幕府に存在を知られるも,京都所司代奥平信昌を通じて助命を嘆願。
家康も仏門に入った重家を誅するわけにはいかず,その後住職となり(還俗して岸和田藩に仕えたとも),貞享3(1686)年104歳で長逝したという。
重家を救った津山甚内は,次男重成とともに津軽藩に身を寄せたという。
津軽藩主第二代信枚(為信三子)の側室辰姫は重家・重成兄弟の妹(高台院=北政所=秀吉正室寧々の養女)であることが大いにものをいったと思われるが,三成の子2人を救った甚内の功は極めて大きいと思われる。
予想(というか私の思い込み)に反して,三成の子2人は天寿を全うした。
意外な歴史の盲点とも言うべきものと思うが,その事実に何となく救われた思いを持つのは私だけでは無いような気がする・・・。
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