「 先生、厄介な感染症が流行り出しましたね。待合室のテレビで騒いでましたよ。 」 「新型コロナウィルスの件ですね。 」 「先生どう思います? 中国は何かと迷惑な国ですね!! 」 「 確かに、身勝手で他者に迷惑をかけることは多いですね。また、この時期に大移動なんて世界を攻撃しているようにも見えますね!?」 「 どうなるんでしょう? 」 「 日本でも結構拡がると思います。 それこそ、北朝鮮のように早速 中国からの入国は全面禁止にしたような手でも打たないとダメでしょう。厳しさのない今の日本はそんなことをしないし、今後の経済効果も考えてできないのでしょうね。」 「 みんなマスクをしてますがどうなんでしょう?」 「 はしかのような空気感染をするわけでもなさそうなので、マスクの予防効果は殆どないのではないでしょうか。罹患している人がマスクをして咳やくしゃみの拡散を防止する意味では良いのかもしれないですが。」「 罹ってしまったら病院へ行けって言ってましたが治るんですか?」 「 一般の風邪同様、病院に行っても治療法はありません。自己の免疫力で治していくしかありません。肺炎になっても細菌性の肺炎ではないので抗生物質も全く意味がなく、時間が経つのを待つしかありません。ウィルスにはワクチン接種の予防しかありませんが、今からワクチンを作るなんて到底間に合いません。現在、ウィルスに効く薬は、C型肝炎ウィルス、ヘルペスウィルス、インフルエンザウィルスぐらいかと思います。それくらい、薬の開発は難しいのです。極論を言えば、新型コロナウィルスに罹った場合は、病院へ行ってもその場で診断がつくわけでもなく、治療法もないわけですから、どちらかといえば他人にうつしてしまう可能性の方が高いため、自宅で1~2週間じっとしていることでしょうね。まあ、肺炎ともなるとしんどくてそうもいかないでしょうけど。電話で保健所に状況を報告するシステム作りが大切なように思えます。免疫力の弱い人は、病院に行っても残念な結果になるでしょうし、そうでない人は自然に回復してくるはずです。」 「 罹らないようにするにはどうすればいいのでしょう?」 「 風邪やインフルエンザの予防と一緒です。繁華街に行かないこと、狭い空間(電車、レストラン、風通しの悪い多数の人が集まる部屋などを避けることです。外出中、および外出後は数回、手洗いやうがいをすることですね。マスクはこういった場所では少し効果があるかもしれませんが、使い捨てでないと意味がありません。」 「 道頓堀、戎橋筋、黒門市場・・・大変ですね!」「 そうですね。しかし、この場所の店々は日頃は中国の人に稼がしてもらっているわけですから仕方ないですね。今後の情報収集が大切ですね。」
今年も残りわずかとなってきた。5月には新元号を迎え、新たな時代を感じる一年のはずであったが、別段新しい風が吹くこともなく、令和元年を終えようとしている。昭和から平成になった時、まだ医師になって2年目だった。今年は31年目、開業して18年目になった。この18年間、医療の変遷は大きく、超高齢者の急増とそれに対する医療内容の変化は凄まじいものと実感している。クリニックも80歳以上の患者さんが占める比率が大きくなり、もはや医療を超え、福祉を仕事としているような気がする。病気でない加齢による苦痛に対する訴えに答える毎日。朝9時前から昼2時前まで一切の休憩なしに診察をこなし、昼3時から5時の午後の診察も大抵は6時を過ぎる。やっと診察が終わっても、引き続き、役所から送られてくる患者さんの介護保険の申請書類作成や、夜間や休日に調子が悪くなり他院に入院となった患者さんの情報提供書の依頼に対する書類作成、また、当院では施行できない検査や診察目的での他院への紹介状作成など連日2時間以上の書類作成およびクリニックの雑用など、朝から12時間雑談もなく、二度のトイレと15分程度の昼休みぐらいで、もう疲労困憊である。働き方改革だのと馬鹿なことを言っているこの国はもう終わっていると感じる。自分は病気を治そうと医師になったのであるが、もはや役所のような高齢者の福祉事業をしているようで、自分の目的とした仕事ではなくなってきているとつくづく実感している。そろそろ引退をする時期かと考える毎日である。引退して何をしようか? 考えれば考えるほど焦りが生じて何も思いつかない。取り敢えずは引退してから考えようかという結論になってしまう。愚痴になりそうな話を家庭に持ち帰る訳にもいかず、その苦痛と闘う毎日である。夢を追い続けている二人の子供は、今年 長女は4月に名古屋でコンピューターグラフィックを駆使したデザイン関係の仕事を独り立ち。顧客をつかむため、多方面に足を運びながら日々努力しているようだ。小学3年生からゴルフを始めた次女は、高校1年時に関西大会で優勝し、今年の女子ゴルフプロテストも642名が受験した中、1次テストを通過、2次テストも通過し、最終テストの100名に残り、最後は31位。21位までが合格であったため、非常に残念ながら合格はできなかったが着実に夢に向かって努力している。スポンサーもいくつか付き、ゴルフ雑誌に掲載されたり、インターネットTVやBSテレビの大会やゲームに招かれたり、CMに出たりとなかなか忙しいようである。自分も若い時は夢に向かって頑張っていたのだなと回顧するが、もう一度何か夢を持ちたいなと夢見ている毎日である。今年一年、結局自分は何も進歩することもなく、残念な一年になってしまった。さて来年はどんな一年になるか、しっかりと目標を持って新年を迎えたいと思う。どうぞ、皆さんも良き年となりますように。
誰にでも思い入れのある数字があると思う。83・・・ この数字は何を意味するか? この数字に思い入れのある人はいるか? 中学生の頃、素数というものを数学で学んだ。1より大きく、約数が1とその数字そのものしかなく、他の数字で割り切れない数字のことである。83 はその素数である。今晩からプロ野球は日本一を決める日本シリーズが始まる。ジャイアンツの原監督の背番号は 83 である。自身の現役時代の背番号 8と尊敬する長嶋茂雄名誉監督の現役時代の背番号 3を合わせた番号らしい。野球少年であった私は、小学生時代(3年間仙台市) 長嶋茂雄に憧れて背番号 3のユニフォームを着て野球にいそしんでいた。しかしながら、試合になるとピッチャーかショートを守ることが殆どで、試合用のユニフォームでは好きな背番号 3を付けることは一度もなく、ピッチャーの 1かショートの 6を付けて試合に出ていた。当時、ジャイアンツが年1回、仙台に試合に来ることがあった。友人と二人で当時の宮城県営球場にジャイアンツ戦を観戦に行き、試合終了とともに、塀を乗り越えて、守備(サード)から駆け足でベンチに引き返そうとする長嶋選手を目掛けて猛ダッシュで駆け寄った。ほんの一瞬のことではあったが、長嶋選手の左肩をタッチすることができ、その日は手を洗うこともできず凄い興奮の中、床に就いたことを覚えている。 18年?ほど前、幼い二人の娘と家内とで軽井沢にスキーに出かけた。ホテルのエレベーターに乗ってゲレンデに向かおうとしていた時、『 すいません 』 と男性の声。閉まりかけたドアを開け、『 どうぞ 』とその男性に向かって返答すると、なんと 原監督親子が乗り込んできた。唯々 『 は・ら・さんですか?!』 としか発することができず、原監督も 『 え~ 』 というだけの一瞬の空間を味わったことがある。8 と 3 との直接的な接触の二幕だった。 前置きはこれくらいにして、毎日診察していると すごく 83 が気になる。83 歳のことである。女性が 83歳になると、かなり多数の人は急に体力がなくなり、『 しんどい、しんどい病 』 が始まる。多数の検査をしても特に異常もないが、兎に角 『 しんどい、しんどい、なんでですか?』 を毎回連発される。クリニックも18年目になると、初年度 65歳であった患者さんも、今では 83歳になっておられる。『 あんなに元気だったのに、歳を取られましたね! お尻や太ももの筋肉がやせ細ってしまって、立ち上がるのも、歩くのも大変になってきてますね。下半身の筋肉がげっそりして来ているので上半身を支えられなくなってきています。自分の体を思うように動かしたり支えたりすることができなくなってきているのでしんどく感じているのだと思います。』 70歳台にジムにでも通って筋肉を鍛えておかないと 80歳台になったら、このようにしんどくなってしまう。それも 83 歳を超えてくると必発?のように感じる。比較的男性は筋肉が女性より多いので、『 しんどい、しんどい 病 』 は少ない。世界平均寿命 71歳であることを考えると厳しいようではあるが、仕方のないことのように思えるのだが。
神戸市須磨区の小学校で先輩教師が若い後輩教師をいじめている事案が連日テレビで放映され、相変わらずテレビの司会者や何の資格もないコメンテーターがこの不謹慎な大バカ教師どもを罵っている。挙句の果てに、教師を辞めさせるべきであるなどと公共電波を使って自説を繰り広げている。以前、このブログで記した正に『 不謹慎狩り 』 を行っているのである。個人的には彼らと大きな意見の相違はないが、公共の電波を使って多くのお茶の間の人たちに発信することではなく、彼らにその権利はないはずである。大バカ教師の行った不謹慎な行動(事実)そのものを伝えることがテレビの役目であって、その人間の処罰まで発信できるものではない。精々、その小学校のPTAを含む関係者と学校に税金を払っている神戸市民、神戸市がこの事案に口出しすることは可能かと思うが、それ以外の人間が深入りするのは正に 『 不謹慎狩り 』 である。本当に、不快である。また、面白いことに、『 子供を教える立場の人間(教師)が、これでは子供を教えれない 』 なんて偉そうに このテレビのコメンテーターは言っているが、あなたたちもそんなに立派な人間なのと問いたい。 連日の診察で、アルコール性肝障害の患者さんには毎回減酒するように指導しているが、ついつい吞んでしまうと言い訳をし、糖尿病のコントロールの悪い患者さんには、間食を減らし、食事量を減量するように指導しても、つい美味しいお菓子を食べてしまうとか、外食が多かったとか毎回言い訳ばかりしている。いい加減にしろよ! と言いたくなるが、『 頑張って努力してくださいね!』 なんて言う自分が情けなく、時に皮肉っぽく 『 子供には、おやつを制限したり、門限を決めたり、ゲームをする時間を制限したりするのに、貴方は大人であるにもかかわらず自分で守れていない。子供に対して、ずるくありませんか! 』 と言ってやることがある。こんな患者さんもこのテレビを観て、コメンテーターと同じことを言ってるんでしょうね。正に、五十歩百歩ですよ。
かつて一世風靡したポケットベル(ポケベル)が、今年9月に完全にその通信サービスが終了となるとのニュースを聞いて驚いた。携帯、メールといった当り前のこの時代にまだ、ポケベルが生き残っていたことと、それを利用している人が1500名ほどいるといった事実に驚きである。救急疾患を扱う循環器医としてはかつて必需品であった懐かしい思い出がある。24時間、365日,、風呂に入るときはドアの横に、眠るときは枕元に、それ以外は常に携行するといった習慣をつけ、外出する時や夜中にはいつポケベルが鳴るのかと不快な緊張感を持った生活が続いていた。今の携帯と違って直ぐに会話ができるわけでなく、相手(病院)から突然呼び出され、昼ならまだしも真夜中ともなるとその『 ピー、ピー 』といった音が家中に響き渡り、目覚まし時計以上に敏感に起こされ、すぐさま病院へ確認の電話を入れて要件を確認するといった日々である。心筋梗塞の患者(急患)が運ばれてきた場合が圧倒的に多く、当直医からの要請であり、真夜中に車を走らせてカテーテル治療(インターベンション)目的に駆けつけることが殆どであった。自分のみならず、大きなポケベルの音で家族も一緒に目覚めてしまう日々であった。携帯電話の無い時代であるため、高速道路を運転している時なら、一番近い出口を降りて、公衆電話を探し、病院へ確認の電話を入れることになる。また、外食中などは、店の外の公衆電話を探したりと、容赦なく鳴り響くポケベルの音に、文句も言えずこれが当たり前であると納得していた当時の医師の一人であった。今や、どこに居ても双方向通話ができる携帯の時代が羨ましくも思える。医師のプライべートだの、働き過ぎだのと言っておれる時代ではなく、倒れるものは敗北者の時代であった。先の『 嶋の大ばあちゃん 』でも出てきたが、私が関西労災病院で勤務していた時は、大阪労災病院で勤務していた時代以上に急患が多く、少人数の医師で治療を担当していたものだから、毎回全員集合といったルールになっていた。季節によってはほぼ毎日夜中にポケベルで起こされ、暗い夜道を宿舎(官舎)から自転車で駆け付けた思い出がある。週1日の休みに結婚したばかりの私どもは、いつポケベルがなって病院に駆けつけないといけないかもしれないとの思いで、二人で買い物に行くのも車で30分以内のところが精々で、地階での買い物(大抵は食料品)はポケベルの電波が届かないので、家内一人で買い物をし、私は駐車場で待つといった生活であった。このようなタイミングにポケベルが鳴るのもしばしばで、公衆電話を探して要件を確認後、地階で買い物をしている家内を走って呼びに行き、買い物も途中で精算させ、急いで病院に駆けつけるといった日々であった。外食中も容赦はない。注文してから食べるまでの間にポケベルがなることも何度もあった。こんな時は、お金だけ払って店を出たこともあった。希望して循環器医になったからには宿命と感じ、後に大阪労災病院のカテーテル室長になった時には、後輩たちに 『 これが循環器医の宿命、嫌ならやめろ!』 などと言ったものだった。今となれば懐かしい必需品であったポケベルではあるが、当時は憎きポケベルであった。