家づくり、行ったり来たり

ヘンなコダワリを持った家づくりの記録。詳しくは「はじめに」を参照のほど。ログハウスのことやレザークラフトのことも。

3.11以降も変わっていないこと

2012年08月11日 | その他

3.11以降、日本人の意識は変わったといわれる。私もそう思う。
だけど、議論の仕方は全然変わっていないのが残念でしかたがない。
例えば、原発問題。
反原発の流れは3.11以前とは比べようもなく強まっている。
3.11以前から、原発には批判的な姿勢だった私だが、最近の一部の反原発論者達に同調しようとはまったく思わない。彼らの論調、論法が感心しないからだ。
原発をすぐさま停止しない政府や原発関係者を悪人のように論じる。
政府や原発関係者にも彼らなりの正義があるのに、正義からの行動ではなく、私利私欲を満たそうとする邪悪な意思による行動のように語る。原発嫌いの私とて、原発推進派が邪悪な意志を持つ存在とは思っていない。彼らは原発を動かすことによって人々を幸せにしたいと考えているのであって、多くの人を不幸にしようとして原発を推進しているわけではない。

ある弁護士の方がこういうことを言っていた。
「絶対的な正義と絶対的悪は存在しない。部分的相対的正義と部分的相対的正義のぶつかり合いの中から、社会的正義が生まれてくる」

政治家を悪人のように言う人は、その政治家が世の中を悪くしようとして政治家を志したとでも思っているのだろうか。そんな動機で政治家になる人間などいない。自分が考える正義のもとに政治家を志したと断言してもいい。その政治家の正義と自分が考える正義が違っているだけだ。
政治家の多くがTVの時代劇にでてくる悪代官と越後屋みたいな悪だくみをしていると考えているとしたら大間違いだ。また、意図的にそういう印象付けをする連中は嫌いだ。
自分なりの正義で動いている人を悪人呼ばわりして、その人が行動を改めるわけがない。
対立しても、基本姿勢は「その正義を通しても、いい世の中にはなりませんよ」と説得するべきであって、「悪人は消えろ」みたいな言い様は相手をかたくなにさせるだけだし、真の解決からも遠ざかる。

対立する相手側を邪悪なものと考えることは戦争につながる。邪悪なものを封じるためには何をしても許されるようなムードになってしまうからだ。
悪代官と越後屋を切り捨てる桃太郎侍になった気分で論を繰り広げがちな人は、結局、切り捨てないとおさまらない。
敵を邪悪な存在と位置付けて、その悪を退治するというやり方がのさばると、戦争を起こしやすい性質を国民の中に成長させてしまう。「鬼畜米英」のスローガンと同じ構造を持つ危険なやり方なのだ。

いつの間にか

2012年06月12日 | その他
gooブログが60日も更新が無いと、悲惨なテンプレートにされてしまうことになったようで、そのテンプレから逃れるために、内容は無いけど、ひとまず更新。

2012 辰年

2012年01月02日 | 我が家のスペシャルな事情

 謹賀新年

昨年はいろいろなことがありすぎて、逆にBlogの更新がほとんどできなかった(言い訳にならない言い訳)。

2012新年は例年と変わらず、我が愛する古屋に、自前でついた鏡餅を飾り、火鉢に炭を入れ、お屠蘇を飲み、おせちを食べるという日本古来の正月の過ごし方ができた。しめ飾りも父の自製である。
昔は皆がやってたことだが、最近では「文化を守る」くらいの心持ちがないと維持するのは難しいかも、なんて思い始めている。
まあ私は希少なモノ・コトが好きなので、「ものめずらしい」と言われそうな今の状況の方が実は心地よい。
できるだけ続けようと思う。

台風15号による我が家の被害

2011年09月21日 | 我が家のスペシャルな事情

今回襲来した台風15号のすさまじい風雨によって我が家にも被害が出た。
庭木のザクロ(→LINK)が折れてしまったのだ。
樹齢は70年ほどだったと思われる。老木であることはかねて意識していたが、こんなふうに最期が訪れるとは思っていなかった。築60年超の古屋とも長年連れ添ってきた存在であるので、やはり悲しい。
ただ、4年ほど前から根本を同一とする枝木を2代目として育てており、木が無くなってしまうわけではない。
なかなか実をつけない木だったが、今年は2代目が3年ぶりに一つだけ実をつけている(関連エントリ→LINK)。代替りの予感があったのだろうか。
今日は午前で仕事を終わらせたせいか、主幹の最期に立ち会うことができた。こんなこともあるのだ。

いい夫婦の家づくり

2011年09月17日 | 我が家のスペシャルな事情

数日前、娘が「家の木にハトが巣作りを始めたようだよ」と教えてくれた。
今日何気なく外を眺めていると、山鳩が小枝をくわえて古屋の屋根に降りるのを見た。
たしかに巣作りをしているようだ。
しばらく観察していると、庭のモミジに作っていることがわかった。
2階のデッキテラスからそーっと覗いてみると、雌のハトの尾が見えた。作りかけの巣を見守っているのだろう。

          


ちょっと幸せな気分になった。

おそらく、この山鳩夫婦は以前「いい夫婦の日」というエントリ(→LINK1 LINK2)で紹介した山鳩の一族ではないだろうか。

いい家ができることを願う。



3.11と家

2011年09月12日 | 家について思ったことなど

  Blogを長いこと更新していなかった。自分自身の環境変化もその一因だが、3月11日の東日本大震災のあの津波の映像をみた後、能天気な家語りをするのに抵抗があったのもたしかだ。

 あの日から半年が経過したのを機に、その間考えたことをちょっと書いておこうと思う。 

  大災害を前にしては、個人の家は何も抵抗できない。
 津波、原発の放射能漏れ、周囲の液状化に対抗できる家なんて無いのだ。もし対抗できる家があったとしたら、それはシェルターのような家であり、平時にはまったく暮らしにくい家であろう。

 その一方、かつてあった平時の家の優劣を決めるような住宅性能差の議論も、些末で些細なことのようにも思える。
 「家の中の温度差が不快」なんていうのはなんと贅沢な心象か。そのことに不快感が抑えられないような人は、冷えた体育館で肩寄せあって過ごすことなんてできはしないだろう。
 だから、温度差を「不快」なんて強調するのはやめたほうがいい、とあらためて思った。「温度差がない家で快適」というのは否定しないが、逆は「不快」ではない。そのことについて以前、快適でも不快でもないゾーンの大事さを指摘してある(関連エントリ→LINK)。
 快適であることは喜ばしいことだけれど、だからといって快適でないことを即不快だと思うことは不幸だ。本当の不快な状況に直面した時、あまりにも弱くなる。

  性能の重要度についても考えた。

躯体の頑丈さ、耐震、免震はやっぱり重要なポイントだ。津波には耐えられないとしても、津波が到達せず、家が残りさえすれば、最低でも雨風をしのぐことができる。 

 電気、ガス、水道などライフラインが断たれた場合の強さはどうだろう。ライフライン(生命線)というくらいだから、長引けば生命にかかわる。
 何といっても水の確保が一番大事だ。雨水利用の仕組みがある家はそれを導入してない家にくらべれば多少長く耐えられるかもしれないが、大半の家は結局救援に頼らざるをえない。

 水が何とかなったとして、エネルギーとしての電気・ガスが来ないのも深刻だ。
 電気、ガスの最も重要な役割は熱源としての存在である。暖房や調理は熱源なしにはできない。ただし、他の熱源を自前で用意することはできなくもない。我が家の床下に多数置いてある炭袋は調湿を目的としているが、非常時の熱源としてある程度は頼りになる。この考え方は以前のエントリ(→LINK)で紹介したが、世間的にはもっと認知されていい性能だと思っている。同様に薪ストーブのある家の薪も有効だろう。プロパンガスの家は、その器具が損傷していなければしばらく安心だ。太陽光発電を導入している家は熱源としてはこころもとないものの、何もないよりはるかに心強い。

電気が断たれているときは、24時間換気の問題が出てくる。高性能な高気密高断熱住宅は換気が命。換気機能がなくなったら、窓を開けるしかない。私自身そんなことは些細な問題にすぎないとは思うが、高気密高断熱でない家の環境をまるで劣悪な環境のような表現をしている人々は大丈夫かしら、なんて思う。何段階も厳しい環境の避難所に避難したとたん、すぐにストレスでまいってしまいそうだ。もし大丈夫であるなら、平時に大げさに言わないでほしいものだ。 

 作家の曽野綾子が言う。

「基本的、原始的不幸――今日のような衣食住が確保されていない不幸――を体験したことないすべての人は、我々をも含めて、基本的、原始的幸福を発見する技術をもまた見失っているのである」

このたび、残念ながら東北の多くの人が原始的不幸を体験してしまった。逆に言えば、その他の人は家があるという原始的幸福がある。そのことを認識したうえで、被災地の方々に何か手助けになることをしたい。

小さなことに幸せを感じることのできる「幸福力」(→LINK)が重要な意味を持つ時代になってきたとあらためて思う。


 


やまぼうしの花咲く 2011

2011年05月05日 | やまぼうし


我が家のやまぼうしが花をつけた。
前年はわずか2輪しか確認できなかったが、今年は現時点で20以上つけているのが確認できた。
ただ、いまのところ真っ白な花はなく、青みがかった若い花と例の「くノ一手裏剣」もどきだけ。
きっと家主の気まぐれな性格を映し出しているのだろう。 

やまぼうし連合代表のfinziさんも開花の報告をしていた。
こちらは素直な白い花だった。きっと素直な奥方の性格を反映したものだろう。

 


隣家の竣工

2011年04月29日 | 我が家のスペシャルな事情

隣家が竣工した。
上棟の報告をこのブログで昨年11月27日にしてから5か月たっている。基礎工事まで入れれば工期は6か月以上になる。
設計・施工は近所の工務店だが、非常に丁寧な仕事ぶりだった。

人間の手作業は丁寧さをどこまでも追及できるため、職人肌の強い工務店ほど時間をかけて作ることになる。

ハウスメーカーの場合は、こんなに工期をかけない。
工期が短いことは仮住まいのコストの面で施主にメリットがある。施工側にとっても労務・人件費面でメリットが大きい。
そのため、工場で均一性のある規格品を一括生産する方式とし、人間が手をかける部分をその分少なくしている。
ハウスメーカーの仕事が雑だというわけではなく、ざっくり言えば規格品的か特注品的かという違いだろう。

私はハンドメイドが好きな人間であり、規格品よりスペシャルなものに興味を持つ嗜好もある(だからこのブログには「スペシャル」と冠したカテゴリが2つもある)ため、人間の手がたくさん入っていること自体に好感を持っている。

気に入ったことは他にもある。
隣家は我が家の南側に建つ。したがって、開口の広い我が家の南面と、隣家の北面の関係でプライバシー面での懸念があった。
ところがこの工務店(と施主)は設計でその点をしっかり配慮してくれていて、隣家の北側の開口はとても控え目なものになっていた。
(写真はワークショップから眺めた隣家)
向こうにしてみれば、こちらからもじっくり見られてしまうことを懸念したのかもしれないけれど…。
いずれにしろ私のこの工務店に対する好感度は非常に高いものになった。

隣家との間には、父がセルフビルドした例の格子状の塀がある(関連エントリ→LINK)。
これは隣家の塀のようにも見えるわけで、隣家にとって悪いものではあるまいと思っている。

隣家とは良好なご近所付き合いをしていきたい。


やまぼうしの芽吹き 2011

2011年04月16日 | やまぼうし

  

 ここのところ急に暖かくなってきたと思ったら、我が家のやまぼうしの若葉が芽吹いていた。
 春はやはり元気が出てくる。

 東日本大震災の被災地でも倒れた桜の木が開花したことが伝えられていた。
 春の到来が日本人の心にパワーを授けてくれますように。


 大震災で家(住宅)のことをいろいろ考えたが、世間がもう少し落ち着いてきたときに書いてみようと思う。


春の山にて

2011年02月27日 | 山小屋・ログハウス

 

久しぶりに山小屋に出向いた。
2月なのに、もう完全に春といっていいような陽気だったためだ。
好物のふきのとう狩りに近辺を散策していたら、散弾銃の薬きょうが落ちているのを発見した。

このあたりではイノシシのほかカモシカも見たことがある。
イノシシあたりを狙ったものかもしれない。

<おまけ>
物置前に植えた紅梅は満開だった。