忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

ポリアンナ症候群と民主党

2013年04月16日 | 過去記事



BARをやっていたとき、実はもう少し表通りでやったらどうか、とアドバイスしてくれる人がいた。ケチくさいこと言わずに人も雇い、内装にも手を入れて派手にやったらどうか、と。実際に駅前のほうの物件もみたけど断った。理由は「金儲けに興味ない」と綺麗事を言ったが、半分は正直に言ったつもりだ。要するに邪魔臭かった。

また、そこまで腰を入れてやるなら借金も必要だった。その人も相談に乗る、とか言ってくれたが、それなら妻の「やっぱり辞めて」ですんなり辞められなかった。あくまでも自己資金の範囲内でやったから気楽なモノだった。みんなにも「ごめんね」で済んだ。

もっと本音を言うと、私はのんびりしたかった。だから2日に一度、昼間はずっと店にいた。隣のスナックのおばちゃんからは「家がないのか」と思われていた節もあるが、昼間のスナックビルはとても静か。無論、来客もない。ちょっと歩けば公園もあるし、立ち飲み屋も本屋もある。というか、酒が飲みたければ売るほどある。腹が減ったら近くになんでもある。ツレも電話すれば来る距離だし、地元だから自宅周辺よりも土地勘も効く。まあ、本音を言うと実に理想的な「書斎」でもあったわけだ。私はそこで静かに本を読んだり文章を書いたりした。申し訳ないがその延長、夜はオマケでBARをやっていたようなモノだった。無論、世の中そんなに甘くない。だから逃げるように潰した(笑)。

とういうのも、私は「(経営)商売に向いていない」と悟っていた。それは勝手に思い込んでいたのではなく、やはり20年ほどサラリーマンをした結果だった。簡単に言うと能天気で楽観主義なのだ。楽観主義者は経営者に向かない。店の運営を無借金でやる、というのも経営哲学でも何でもない。借金してまで大きくやれば手を抜けない。規模を広げると責任も大きく膨らんでくる。背負うモノは大きく重くなる。それを避けた。

また、向いていないことを続ければストレスで体を壊す。心のバランスも崩れる。妙な言い方だが、仕事に一所懸命になってしまう。面白くなってもくる。必要以上に、だ。それならこの20年と変わらぬ人生になる。私はそれが嫌だった。それに組織のトップは悲観主義者でなければやれない。だってそこには理想の前に現実がある。本当は無視もできない。しかし、現実ばかりじゃ人は使えない。理想を語る必要があるし、語れなければダメだとすら思う。理念やら指針やらもモチベーションの向上に欠かせない。だからそれを「NO2」がやる。私はそれが得意だった。


ややこしいのは「楽観主義者のふりをした悲観主義者のNO2」や「悲観主義者のふりをした楽観主義者の経営者」がいることだ。だからもちろん、これらの「逆」をいくのがよろしい(と思う)。




ベトナム戦争で捕虜にされたストックデール将軍。彼は8年間もベトコンに閉じ込められ、拷問を受け続けた。いつ釈放されるのか、いつ仲間が助けに来るのか来ないのか、さっぱりわからないままの状況を生き抜いた。助かった後「収容所で耐えられなかった人はどんな人か」と問われた彼は明確な答えを述べている。<それは簡単に答えられる。楽観主義者だ>。(※「ビジョナリーカンパニー2」ジェームズ・C・コリンズ著)。

失望が重なると絶望になる。最初からリアルに失望していると重ならない。捕虜になった楽観主義者は「次のクリスマスには出られる」とか勝手に思う。それが過ぎると復活祭。それも過ぎると感謝祭。また次のクリスマス。この連続で死に至る。悲観主義者は違う。苦しみを受け入れる。そんなに甘いわけはない、と諦める。しかし同時に決意も持つ。「絶対に生きて出てやる」と覚悟を決める。危機に対してはこれが強い。そして大なり小なり、企業や組織には「危機」がやってくる。

日本の企業で自己資金だけでやっている、というのは全体の3割に満たないらしい。つまり、7割は借金経営だ。15%~20%ほどが自己資金で残りは借金して運営している。それでなにをしているかといえば、それは技術の開発だったり、市場の開拓だったりする。これを普通は「成長」と呼ぶ。これがたくさん集まると「競争」になる。市場原理だ。

もちろん、これを不健全だ、とすれば日本の底力は失われる。馬鹿じゃない限り、こんなこと言う人もいない。馬鹿じゃなく言う人は反原発と同じ、イデオロギーで言っているだけだ。そこで思い出す。テレビのコメンテーターとか、御用経済アナリストの「日本は借金大国だ」がそれだ。

会社の中間管理職が「みんなは知らないかもしれないけど、我が社の自己資金は3千万円だ。それが銀行に1億円も借金している。これを返さねば健全経営とはいえない。だってこれが一般家庭なら破綻しているじゃないか」と言ったら阿呆扱いされる。それに加えて「だから残業をぜんぶサービスにしなきゃ」とか「経費の一部を負担して欲しい」と言えば阿呆では済まない。非難轟々、お前なんかやめてしまえと誹られる。つまり、コレと同じようなことをテレビ新聞はやった。それで消費増税を押した。「仕方ない」とか、多くの社員(国民)も納得するから、なんとなく流れでそうなっている。財務省はまた笑う。

そしてもうひとつ。悲観主義者は「ふり」はできても阿呆ではやれない。ちゃんと「悲観する理由」を知らねば悲観もままならない。また「悲観するだけ」でも話にならない。それを「なんとかする」と覚悟を決めて「なんとかする」方途を示さねばならない。わかりやすい実例を言うと、例えば麻生政権のとき、硫黄島の滑走路の基礎調査をするために1億円の予算をつけた。安倍総理は14日に硫黄島に行き、英霊が祖国に戻れるよう、早期作業のための具体的な方法を考える。ちゃんと現状に悲観して対策を講じる。トップの仕事だ。

そういえば管直人も行ったけれど、管は滑走路を引っぺがすのではなく<アメリカ軍がちゃんと遺体を葬ってくれた場所があるから、そこをやればいい>とした。顔だけは神妙。すなわち「悲観主義者のふり」だった。頭の中にはピンクの蜻蛉が飛んでいる。

高温多湿の硫黄島。遺体が痛むのも早い。だから縦穴を掘って日本兵の遺体を投げ入れた。べつに弔ったり、敬ったりもない。そこは「エネミーズ・セメタリー」と呼ばれる「穴」だ。こんなのに感謝する総理大臣とか、まあ本当に情けない限りだが、それを聞いていた滑走路の下の英霊はどう思ったか、想像もしたくない。

いずれにせよ、管直人が根っからの阿呆だとわかる。そして阿呆には物事がわからないから悲観することができない、という証左でもある。もちろん管直人などをはじめとする「民主党の残党」の場合は悪い意味での楽天家でもあるが、とはいえ、べつにポジティブとも違う。とくにプラス思考でもない。なんというか、考えた結果でもない。思考経路があるのかないのか、という状態だから、これはいわゆる「ポリアンナ症候群」に近い。

「ポリアンナ症候群」とは「直面した問題の中に含まれる良い部分だけを見て自己満足し、問題の解決にいたらないこと」とか「常に現状より悪い状況を想定して、そうなっていないことに満足し、上を見ようとしないこと」になる。意味を知れば管直人だけではなく、鳩山由紀夫の顔も浮かぶ。2009年からの3年と少し、民主党政権の連中はこんなのばっかりだった。何も考えていない能天気なお気楽アタマのくせに怒ったふりをしたり、悩んでいるふりをしたり、考えているふりをしたりした。大した考えでもないから現実には通用しなかった。「震災でガソリンが足りない」には「学校のプールに溜めたらどうか」のレベルだった。電力が足りない、に対しては「料金を2倍にすればどうだろう」。

だからマニフェストも散々。副総理だったイオンは<誰が見てもやれないことを、いつまでもやれると言うのは無責任だ>と民主党議員に向かって叫んだ。精神錯乱とはこのことだが、これもイオン岡田が小難しい顔をしながら中身は能天気だとわかる。楽観主義者でなければ、とても人前に出て来れない。野に下ったいま、国会では相変わらず「民主党の残党」はエラそうにやるが、これも「直面した問題の中に含まれる良い部分だけを見て自己満足し」に他ならない。典型的な「ポリアンナ症候群」の症状だ。しかも末期だ。

日本はいま、ちゃんと危機感をもったトップが戻ってきた。悲観的な事実を解決して、国民がまた楽観的に暮らせるように、と必死だ。周囲の楽観主義者は悲観的なことばかりで足を引っ張るが、それも2009年の夏から「現実」をイヤというほど見せられた有権者には届かない。だからいま、元の泥船から悲観的になって逃げ出すネズミが絶えない。外に逃げればなんとかなる、と未だに思っている。実に楽観的(阿呆)だと思いませんか。




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