知らぬ間に倅が17歳になっていた。せぶんちーんである。
コレは自慢だが、成績表なんかはもうすごい(※我が家比)。備考欄には担任の先生が「申し分ない成績です。我が校始まって以来の優秀な生徒です。生活態度も模範的でクラブ活動も懸命に取り組んでいます。」とか書いてある。
むぅ~~~気に入らん。明らかに調子に乗っている。人生そんなに甘くない。申し分はあるはずなのだ。こんなメークインみたいな顔しやがって、涼しい顔して勉強なんぞしてるんじゃない。なんでだ?なぜにこんな良い子に育ってしまったのか。私が間違っていたのだろうか。どこで、どの曲がり角を真っ直ぐに来てしまったのだろう。
私が17歳の時、髪型はパンチパーマだった。成績どころか、もう、学校も辞めていた。近所のスナックで水割りを飲んでカラオケで遊んでいた。近隣のラブホテルを制覇するのが生きがいだった。一升酒を飲んで盗んだバイクで走りだしたら交差点で警察に捕まった。スナックで暴れて警察に捕まったり、駅前でケンカして警察に捕まったりした。チンピラと友達になって朝まで飲んだり、よくわからない姉ちゃんとどっか行ったりした。
倅が心配である。そんな「良い子ちゃん」が通じるほど世の中甘くないのである。女がいるようだが、冷やかすと照れやがるのである。アナコンダみたいなてぃんこしやがって、もっと、不純異性交遊とかに燃え上がらんかい。子供の権利条約はどした。個性が大事だと学校で教えてもらったはずだ。ったく日教組はなにをしとるのか。
http://sankei.jp.msn.com/region/kanto/saitama/090910/stm0909101930011-n1.htm
<モンスターペアレント!金属バット持って中学校へ 容疑の両親逮捕>
うぉ!私の中の「メタボリックぺアレンツ」が騒ぎだす。私も金属バット持って学校に行き、超高校級の剛速球をレフトスタンドに叩きこみたい。女子マネージャーにきゃぁーきゃぁー言われたい。学業とスポーツを両立させたいのである。
「2」へ
■2009/09/10 (木) 親バカ日記。2
<朝霞署の調べでは、2人は4月28日午後1時45分ごろ、長女が通う和光市立大和中の体育館脇で、生活指導担当の男性教諭(57)に金属バットを見せながら「殴ってやる。街宣車でお前の家に行く」などと脅し、男性教諭の襟首をつかんで突き飛ばした疑いが持たれている。>
私も街宣車乗りたいのである。店の周りを囲まれたことはあるが、乗ったことがないのである。もういっそ買うか?黒く塗ってピンクの文字で「虹の会」とか書いたら「口だけ保守」とか言われないのか。よぉっし、ビビらせてやるぞ。でも、虹の会の会員は「恥ずかしい」とか「阿呆臭い」と言って、きっと一緒に乗ってくれないのである。襟首つかんで突き飛ばされるのである。会長の「前蹴り」とか喰らうのである。暴力反対なのである!
<朝霞署によると、長女は4月中旬、この教諭に服装の乱れや、金髪に染めていたことを注意されていた。2人は「超仲のいい家族で、娘が注意されてカッとなった」と供述しているという。>
供述で「超仲のいい」なんてカッコイイのである。そら、その御子息は立派なDQNに成長されるのである。気合で羞恥心をぶち壊しているから、餓鬼の金髪もなんともないのである。実にすばらしい。個性の爆発、個別性の金狼なのである。上田馬の助なのである。
「友達家族は阿呆家族」
はい。もう一度、
「阿呆家族は友達家族」
「超仲がいい家族」だから<娘が注意されてカッとなった>のである!私なんか、倅が注意されたら「ズキューン!!」となることにするのである!もしくは「メメタァ!!」となることうけあい。あるいは「グジュルグジュル!!」であるのであるのである!
ええい!!
金髪小僧は全員、バリカンで丸坊主にしる!!
んで、仕方がないからという理由で全剃りにして眉毛も剃れ。というか、この阿呆親は、己の餓鬼がヤクザと揉めても金属バット持って事務所に殴りこめ。嗚呼、もう、餓鬼くらいちゃんと躾して外に出せ、ったく阿呆親が。ものすごイライラする。それは決してダイエットのために「晩飯減らしているから」ではないのである。せめて倅の偏差値くらいまでに血糖値を下げたいと思う今日この頃、誰か、私にこっそり酒と食べ物をください。
「3」へ
■2009/09/10 (木) 親バカ日記。3
ところで、この阿呆親は「超」がつくほど(自分らで言うほど)「仲がいい」から腹が立ったということなのだろう。つまり、理由はともかく、教師から注意されて傷ついた(ホントはムカついただけだろうが・・・)その娘を守るつもりでの行動だと言うつもりであろう。
注意であろうが、なんであろうが、自分らの家族に対する「攻撃」は許さないという意思表示のつもりもあっただろう。
さて、ここにも何度か書いたが、もう一度書いておきたいことがある。それは「信用」と「信頼」の差異についてだ。要するにこれがわからんから、このような阿呆な行動を取るのである。
私も「子の親」である。「妻の旦那」である。「犬の飼い主」でもある。それらは「家族」と称する共同体となる。護り抜くのは父親である私だ。この金属バットぺアレンツもそのくらいはわかると思う。だからこそ「カッとなって」学校に乗り込んで警察の厄介になるのだ。
また、例えば、
私は妻を常に「信頼」しているが「信用」はしていないときがある。
それは「夜道を一人で歩くこと」などに対する「信用」のことだ。暴漢が現れた際、きっと妻なら上手く逃げ切れるだろう・・・などという「信用」はしていない。もっと言えば、我妻ならば「危険を察知して薄暗い道は避けるだろう」という「信用」すらしていない。妻のことだ。恐怖を鼻歌で消し去りながらも、早く帰宅できる道を行くかもしれない。だから、私は40過ぎた妻が「夜中にひとりで出かけること」を許さない。父親の権利と義務を前面に押し出して「ダメだ」と一喝する。旦那の威厳にかけて絶対に許さない。
「4」へ
■2009/09/10 (木) 親バカ日記。4
しかしながら、我妻がフラフラと「出会い系」などに登録して男遊びするとか、ホスト通いなどから借金を重ねるなどの阿呆な行為は断じてしないと「信頼」している。
また、倅に対しては「信頼度」が落ちる。それはまだ「幼く」て「未熟」だからだ。当然、口数は増える。注意指導も、躾も含めて、それなりの「量」となろう。あんなに勉強している姿を見ても、「ちゃんと勉強しているか?」と問われるのはそういうことだ。
若くて未成熟な精神は不安定であると、悪かろうが真面目だろうが、その程度は人生の先輩として知り尽しているはずだ。「我が来た道」であるからこそ予測し、思い浮かべ、倅と比しては膨大と言っていい経験から、ついぞ口を出すのである。
要するに「信頼の度合い」の問題だ。しかし、誰でも「信頼されてない」と感ずれば不愉快になる。そして、だからこそ反抗期は跳ね返るのである。すなわち、
「僕を信頼してないのか?」
となるわけだ。言われて腹が立つメカニズムが理解できる。
でも、こういう状況ならばどうだろう?
地上10階建てのビルから縄梯子を使って降りる倅に、「大丈夫か?ちゃんと掴んで力を入れて握るんだ。下を見ずにゆっくりと下りるんだ。」とやった場合、言われた方がレスキュー隊のプロでない限り、不安ながらも「うん。大丈夫。ちゃんと降りられるよ。」と返すだろう。本人が明確に「自信がないこと」ならば、そこで「大きなお世話だ!」という反応は出ない。「信じて頼られる」わけだから、返答としては「(心配してくれて)ありがとう」となる。
「5」へ
■2009/09/10 (木) 親バカ日記。5
更に、モノに例えよう。
「100円ライター」はガスが無くなると火がつかない。しかしながら、100円出して買ったライターはタバコを何本か吸う程度の火は必ずつく。これが「信じて用いる」、つまり「信用」だ。
そして、このライターはガスが無くとも、タバコが吸いたいときには必ずついてくれる!ついてくれるはず!とすれば、それは「信じて頼る」、すなわち「信頼」なのである。
無論、そんなライターはない。だから「モノ」には「信頼」という言葉は使わない。
「信頼」=「人」
「信用」=「物」
先ず、こういうことになろうかと思う。つまるところ「信頼」とは「相手に委ねること」に他ならない。自分の力が及ばない部分、あるいは「相手を頼るしかない状況(環境)」のことである。
「家族を護る」という観点からなれば「親が護れない状況にある場合」のことである。「親が詳細な状況を把握できない場合」と換言してもいい。
妻は「友達と旅行に行きたい」と言う。もちろん、私も鬼ではない。条件を満たせば行っていいと許可してある。ちなみにその条件とは、
「本気で襲いかかる私を素手で倒すことができたら」
である。100キロを超す成人男性を素手でノックアウトできる女性ならば、少々の危険は回避できるだろうという判断からだ。哺乳類として最弱と言ってもいい我が妻が、勝手気ままに旅行してよいという「信用を得る」ためには、妻はそれらを証明せねばならない。だから私は一応、体を鍛えねばならない。万が一ということもある(笑)。
また、「物」に対する「信頼」とは、往々にしてその「メーカー」などに対してである。例えばこうだ。「支那製のテレビ」も電源を入れれば、おそらく画面に何か映るだろう。でも、それは電化製品としての「テレビ」の「信用」である。しかし、日本製のほうが高画質で長持ちして~~~などの評価は、日本のメーカーに対する「信頼」となる。
つまり、「モノ自体」に対する「信頼」とは、その根本から成り立たないのである。そこに「信頼」が成立するには、その前提として必ず「人」が存在しなければならない。
「6」へ
■2009/09/10 (木) 親バカ日記。6
と、ここで、金属バットぺアレンツに話を戻す。
先ず、断言するが、この「超」がつくほど仲良しらしい家族は、互いのことを「信頼」できていない。子は親を、親は子を「信頼」していないのである。更に言うと、「この程度の親ども」では、その前提条件すら満たさないからである。
なぜならば、「(安易な)個性の尊重」からは「信頼関係を構築するだけの土壌」ができないからだ。
何らかの基準を守り、規定に則した社会生活、社会活動を果たしつつ、具体的な目標(生活を安定させるなど)を(共同して)実現させることから「信頼感」は育まれるものだ。
親はその姿を「見せ続ける」こと、子は「見続ける」ことによって相互的に培われるもの、「味方である」という認識と共に「正しく導かねばならぬ」という責任が重く圧し掛かってなければならないものが「信頼関係」なのではないだろうか。
この親が金属バットを持って学校に殴り込むのは、その「居心地の良い」関係、もしくは、およそ「家族というものの理想的な」関係を維持させるために、それこそ「超」がつくほど身勝手な理屈を持って相手を断罪するからである。
つまり、単純化された「敵か味方か」という基準しかなく、はっきりいえば「こちらに非があるかどうかは無問題」という「超個性(超個人主義)」の弊害なのである。そして、言うまでもなく、その非社会的な行為は社会から認められない。「親が子のために起こした行動」であっても警察の厄介なる所以である。
また、この金属バットどもは、我が子の金髪頭を肯定する際、「個性の尊重」やら「個人の自由」という程度の理屈しか持ち合わせていないだろう。要するに「人に迷惑さえかけねば」という前提ならば、なにをやっても咎められる覚えはないという、朝日新聞などの戦後日本の反日左派が大好きな「(個人主義とは断じて違う)勝手気まま主義」なのである。
公立校という公共的な空間でさえ「個性」が優先されるべきと信じて疑わないから、このような愚にもつかない行動をいい大人がとってしまうことになる。実に恥ずべき愚行なのに、朝日新聞などが「個性が大事。自由が大事。」と確信犯的に喧伝した結果、こいつらは「子供のためにやった。カッとなった。」と胸を張りやがるわけだ。
「7」へ
■2009/09/10 (木) 親バカ日記。7
これは悲劇的な「成果」なのである。
親馬鹿という誹りを受ける覚悟で言うと、我が倅はコンビニの前に座らない。金髪にもしない。バイクに二人乗りで公道を走らない。窃盗(万引き)もしないし恐喝(カツアゲ)もしない。
それらは「言って聞かせる」ことも大事だが、それよりもその「意味を説く」ほうがよい。しかし、もっと良いのは、自分自身が「そう生きる」ことだ。そう「続ける」ことなのである。
言葉はフォローでしかない。でも、生き様は説得力そのものだ。そして、その相互関係こそが「信頼関係」となる。互いに「信じて頼れる存在」となれる。
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しかし、まあ、コレは皮肉だが、この金属バットどもはまだマシかもしれない。いや、まだ「家族」という共同体が破壊されつくされていないと言ったほうがいいかもしれん。
例え我が子が間違えていようとも、我が子を否定する教師に金属バットで襲いかかろうとするなど、まだ「親としての自覚」があるのかもしれない。
日本の国は馬鹿にされて怒るどころか、やってもいないことを「やったやった!謝れ、金出せ!」と言われて否定もしないどころか、不当に国民を拉致されても、領土を奪われても、金属バットも持ち出さない。怒りを顕にすることもない。日米同盟という明らかな「信用」を、日本国憲法9条などというものの「信頼」に頼り呆けているのであるから、腐れ左派政治屋は、この金属バットどもよりも血が通っていないことになる。
国防を「信頼」に委ねるなど、そんな政治家は「信用」ができないのである。
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