忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

ガチコメ的「いつもニコニコ」

2008年05月28日 | 過去記事
■2008/05/27 (火) ガチコメ的「いつもニコニコ」1

「僕には数百万円の貯金があって、とあるホストクラブの共同経営者になれと誘われている。」とほざいていた餓鬼のロッカーの中から「消費者金融」の明細が出てきた。限度額いっぱいまで利用していた。北新地を歩けば「顔パスで飲める店が10数店舗ある」と豪語していたチンピラは、休憩時間に缶コーヒーを買う金すら持っていなかった。

「家族と過ごす時間が欲しい」と言っていた中年社員の公休日はいつもパチンコ屋だったし、「自分の時間が欲しいんです!」と言って残業せずに帰る若き社員は、女をキャバクラに働かせてパチプロになった。「他にやりたいことがある!」と言って辞めて行った、私と同年代の社員は「出会い系」にはまって携帯電話をいくつも持ち歩いている。

若い女を囲っていると自慢げなおっさんも、財布に何百万も入れて豪遊していたあいつも、みんなどこかへ行った。高級車に乗り、クラブの女を連れてゴルフや旅行三昧だった中年幹部は、周囲から「独身貴族(笑)」と呼ばれて照れくさそうにしていたが、私に内部不正を暴かれて消えてなくなった。みんな小さくなって消えていく・・・・

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昨日、まぁた、なんばグランド花月に「真・漫才」とやらを観に行った。私の大好きな「ティーアップ」という漫才師が出ていた。偶然だろうか、多くの若手が「同じネタ」だったのに対し、「ティーアップ」は新ネタであった。

出来栄えもさすがだったが、それと同時に(ネタだけではなく)面白い内容だった。

「芸人は見栄を張らないとイカンで?」

そういって連続のショートコントにはいるパターン。「高級な寿司屋」にての食べ方をネタに「見栄の張り方」を面白おかしく演じていた。横にいる妻は「平成ノブシコブシ」がつまらなかったらしく「この人たち、早く帰ってほしい。」という、どうしようもない要求を私にしていたが、「ティーアップ」に関しては前田のほう(ボケのほう)のガリガリ具合が面白いらしく、黙って見ていた。前田が「タマゴばっかり頼む」のは、ちょっと笑っていた。さすがは「ティーアップ」、私の妻をも笑わせるとは・・・

「芸人は金がなくとも、持ってるフリせなアカンねん!」

そらそうなんだが・・・・ところで、なぜか?

「2」へ

■2008/05/27 (火) ガチコメ的「いつもニコニコ」2

私なりの解釈であると断っておくが・・・

それは「夢」だからである。「芸能人」という職業とは「非現実的」を売りにしているからである。そして、「売れなければ終わり」というシビアな世界、「落ち目」であれば、誰も相手にしないという厳しい現実と共にある世界であるからだ。「金がある=売れている」ということであり、それは「旬」を意味する。そして地力をも意味することになる。

それと「看板」というわかりやすい価値観もあろう。「金がある=安売りはしていない」という証にもなる。己自身が「看板」となる芸能人だからこそ、その「看板の値打ち」は死活問題と直結している。華やかなステージのあとには、素人が想像できない気苦労があるのだろう。昨日、いちばん爆笑を得ていた「えんにち」という漫才コンビも、妻の買い物に付き合っていたとき見かけたが、恐ろしく地味な青年であった。

舞台の上で派手なチンピラの衣装を着ていた彼は、「アイパーの華奢な青年」となって駅まで走って帰っていた。NGKでの舞台が終わった後、我々はタコ焼きでも食べながら買い物していればいいが、彼らはそのまま次の舞台か稽古に明け暮れるのだろう。

まあ、がんがれ「えんにち」。あ、でも、あんまり「チンピラキャラ」が立つと、あとがしんどいぞ?基本、大阪人はヤンキーキャラが嫌いだしな。それと「ディズニーネタ」は面白いが、好き嫌いが激しいと思われる。客を選んだほうが良い。それに・・・おっと、続きが聞きたければ布施に来て、一杯奢れ。(笑)。

「3」へ

■2008/05/27 (火) ガチコメ的「いつもニコニコ」3

さて――――

だから、つまり、冒頭の「普通の会社員」ながらに見栄を張る奴らが、どれほど勘違いクンであるかがわかる。持ってなければ持ってないが通じる世界でありながら、いや、持っているほうが不自然であってもだ、つまらん「見栄」のために人生を狂わせることが、しばしばあるようだ。

http://www.asahi.com/international/jinmin/TKY200805270244.html
<サラリーマンの4割が「カード地獄」>

ひと昔前は「ローン地獄」といったらしい。今は「カード地獄」。あなたのライフスタイルに合わせた地獄をどうぞという今日この頃、やっぱり、ダイナースのブラックカードはいりません。いつもニコニコ現金払い。毎度ありがとうございます。ちよたろです。

で、支那においても「カード地獄」とやらが蔓延しているらしいな。

<大手人材サイト「智聯招聘網」がこのほど行ったサラリーマン約6千人を対象としたクレジットカードの使用状況調査によると、約4割が「カード地獄」に陥っており、度重なるカード利用により給料日が借金返済日になっているという。「新聞晨報」が伝えた。>

例えは悪いが、まさに「犬の畜生腹」とか「サルの自慰行為」というか、自制がきかなくなるという観点からなる「嘲弄する言葉」としては「阿呆のクレジットカード」も付け加えたくなる。「その場限り」の優位性に拘る阿呆そのものであろう。そして、情けないことに、これに民族は関係ないみたいだ(当たり前だがww)。

この事例が支那だからといって、日本人がそれを笑えないということは周知であろう。私の周囲にもわんさか、それはもう、サラ金に売り飛ばすくらいいる。「金利」というものが、どれくらいなのかも知らずに借りるなど、阿呆の極み。鵜飼いの「鵜」よりも阿呆である。

「4」へ

■2008/05/27 (火) ガチコメ的「いつもニコニコ」4

ちなみに、私が「クレジットカード」というものを使用し始めたのは、ごく最近である。

実に便利に使っている。仕事で急に誘われてもOK。多額の現金を持ち歩かなくて済むカードが、とても便利であることは知っていた。一括支払ならば金利もつかないし、よく知らんがポイントもたまるんだろう?それに未だに「モノ」を買ったことはない。あ、そうだ、そういえば、ガチコメタンクは妻と相談して結局半分ほどをローンにしたのだが、いくらくらいする車を買うか決めていなかったから、その時、妻の財布には「車が買えるくらい」の現金が入っていた。当初、「ローン嫌い」な私たち夫婦はキャッシュで買おうとしていたのだ。「あ、車、買いに行こうか?」という感じであった(笑)。

今、よく使うのはガソリン代と通販で本を買うときくらいか。もちろん、飲みに出かけて使うときもあるが、たいてい翌月には気を失うことになる(笑)。

基本は現金主義である。もっと言うと「消費」に関しては現金至上主義であるのだ。私は主任になるかどうかのころ、もう、(以前と比して)ずいぶん生活的には楽になっていたと思うが、それでもカードは持たなかった。妻は作っていたが、私は持ちたくなかった。

なぜか?

使ってしまうから

に決まっている。何故、そのような「誘惑」をワザワザ己に向けねばならんのか。それはどういう修行なのか(笑)?「使いたくなるようにしてある」と知れているではないか。

繰り返すが、仕事ではなく私的な消費ならば「現金至上主義」をお勧めする。本当に「付き合い」というものがあり、それが仕事に通じているならば、それは「仕事」であると胸を張ってカードでも何でも使うがいい。それは「投資」であり、「必要経費」であろう。

しかし、人間、それも男は阿呆だから、そんなに自制がきかない。何年も男をやっていたから気づいている。「私的な欲求」に多額の金を使いたくなる夜もある(ニヤリ)。

「5」へ

■2008/05/27 (火) ガチコメ的「いつもニコニコ」5

そこに、だ。

「見栄」という虚勢が合わされば、男でも女でも狂うことになろう。ギャンブルで大負けしたあの感じだ。全身が火照って頭が呆けるあの感じ。金銭感覚が麻痺し始めるあの感じ。私は「そういう商売」をしているから、とてもよくわかる。ふふん♪

「感覚が麻痺する」ということは、だ。例えば「痛覚」が麻痺すればどんな憂い目に遭うか想像するに難しくなかろう。致命傷になってもヘラヘラできることは「すごく」ない。聞こえない音が聞こえたり、見えないモノが見えたりしても困るだろう。金銭感覚も、なるほど「感覚」というからには「痛い」と感じるセンサーは必須なのである。

高い買い物をしたり、ギャンブルで損をしたりすれば「あいたたた・・・」となって然るべき。それを「痛くないぉ~~~!!」と威張っても詮無い話である。いずれ目が覚めたとき、嫌でも現実に痛みを感じるとき、それは致命傷を越している可能性もある。

<複数枚のカードをもつ白さんはある時、持っているカードが使えなくなったが、某化粧品メーカーのセールを見ると、矢も楯もたまらず新しいカードを作った。今では毎月の給料のほぼ全額をローンの元本と利息の返済に充てている。>

我が社のボンクラどもも、少し前にまとめて弁護士に紹介したが、給与が全て支払いに回って「やる気」が出るはずもない。余裕ができるはずもない。アクティブにモノを考えることなどできはしない。

それこそ、日本がどうとか、国会がどうだとか、税金がなんだとか、福祉がどうしたなど関係ない。それよりも、今、ポケットに入っている小銭がいくらあるのかが気になる生活、いや、人生を送っていて「一廉の大人」になれるはずもないではないか。

「6」へ

■2008/05/27 (火) ガチコメ的「いつもニコニコ」6

あえて言う。

ブラックだのプラチナだのという前に、クレジットカードの所有資格を厳しく問え。年収や年齢、その他、社会的信用度で区切れ。金のない餓鬼に持たせるんぢゃない。

支払い能力を厳しくチェックせよ。審査を厳重にせよ。カード持ってるだけで「すげぇ!」と餓鬼に言わせるのだ。貧乏な餓鬼は不便で結構。金のある大人に便利なシステムを作れ。

借金させてまで購買意欲を駆り立て、それで潤う社会など、それを経済的需用と呼ぶ世の中などアメリカをみるまでもなく、遅かれ早かれ崩壊すると知れている。

「身の丈を知る」という言葉がある。「足るを知る」ともいう。

「見栄」という偽装が己を壊す。大切なものを奪う。膨大な金利を上乗せして返さねばならんのは「金」だけではない。取り戻さねばならないモノは「借用書」だけではない。

それは「信用」であり、「信頼」であり、己の「活力」である。

ここにも何度も書いたが、金とは所詮は道具なのである。

この「道具」の使い方、使いどころ、メンテナンス、保管場所、適正・健全・効率・・・学ばねばならんことである。「金」という道具は便利過ぎて、ありふれているから、知っているようで知らないのだ。だから、とりあえず、「持っている奴」が威張るww

しかし、その「意義」を知らぬ阿呆をよく見ると、「バケツ」をたくさん持って威張っている奴と変わらない。もし、そんな奴がいたら言うだろう。

「そんなに、バケツばっかり、どうするの?」

「金」の利便性に惑わされる。それは魅力となり、魔力ともなる。しかし、人生において、それよりも「普遍的な価値」を見つけたとき、それは「バケツ」と同じ、人類が発明した偉大な「道具のひとつ」に過ぎないと気づくことができる。

「バケツ」が欲しくて人を殺す奴がいないように、必要もないのに「バケツ」を借りて返せずに崩壊する奴がいないように、たかが「道具」と気づく。

そして、親から教えてもらった通り、

「道具」は大切に使わねばならんということだ。

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