忘憂之物

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             渋沢栄一

漫画家の中沢啓治さん死去 「はだしのゲン」作者

2012年12月26日 | 過去記事




漫画家の中沢啓治さん死去 「はだしのゲン」作者

< 自分の被爆体験を元にした漫画「はだしのゲン」で知られ、原爆の恐ろしさを伝え続けた漫画家・中沢啓治(なかざわ・けいじ)さんが19日、肺がんのため広島市内の病院で死去した。73歳だった。21日に家族葬を執り行った。


 広島市出身。6歳の時、爆心地から1.3キロの同市内の国民学校前で被爆。父と姉、弟を失い、直後に生まれた妹もまもなく亡くなった。中学卒業後、漫画家を志して上京。1963年のデビュー当初は原爆体験を秘していたが、66年の母の死への憤りをきっかけに、初めて原爆を題材にした作品「黒い雨にうたれて」を68年に発表した。

 73年に、週刊少年ジャンプ(集英社)に連載を始めた自伝的作品「はだしのゲン」は、絵本なども含めて1千万部を超すベストセラーになり、18カ国語に翻訳された。今年度からは、広島市の平和教育の教材に使われている>








「にんげんをかえせ」の峠三吉は爆心地から3キロの広島市翠町で被曝。その後、詩を書いて自費出版、原爆詩人と呼ばれた日本共産党員だった。「にんげんをかえせ」(正式タイトルは“序”)は有名になり、広島平和記念公園内にも石碑がある。

峠三吉は朝鮮戦争時、支那共産党に原子爆弾を使用するかも、というニュースを知り、アメリカ人にも理解しやすいように「全文ひらがな」で「にんげんをかえせ」を書き、朝鮮半島が休戦となる1953年に36歳で亡くなった。原爆症で死んだのではなく、死因は気管支拡張症。子供のころからの持病だった。

栗原貞子も有名だ。「生ましめんかな」は名作とされて「原爆詩」の代表作にもなる。原爆投下の夜、地下壕で産気づく女性に重症の産婆が「私が生ませましょう」という「おはなし」だ。血塗れの産婆は自らの命を引き換えに赤子を取り上げる。生まれてくる命と消えてゆく命、嗚呼、なんとも悲惨な物語よ、哀号!ということで、無事に赤子は生まれるも<かくてあかつきを待たず産婆は血まみれのまま死んだ>とのことだった。これは「事実に基づいた」とか「本当にあった原爆の話」となって日教組も喜んで取り上げていた。

聞かされた小中学生は泣くが、安心せよ。実のところ産婆は死んでいない。ちゃんとその後、このとき取り上げた赤ん坊と再会も果たしている。しかし、このハッピーエンドでは悲しみが薄れるから、産婆は<血まみれのまま>死んだ方が都合よろしい。

また「詩」というのは特有の形式や決まり事を用いることで言葉に別の意味を持たせたりする。隠喩、直喩、換喩などという技法を用いて感情に直接、ダイレクトに訴えかけたりもする。「俳句」とか「短歌」と同じだが、基本的には「経験」やら「体験」、あるいは「実在するもの(こと)」を想い巡らせ、それを深く掘り下げたり広げてみたりする。それを多くの人の心に響く言葉で表現するから多くの人の情緒に影響する。あくまでも「現実」をイメージするから共感できる。「実物」があるから膨らませることが出来る。

正岡子規が「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」と詠めば、そこに法隆寺はあったのだし、柿を喰ったら鐘が鳴ったのかもしれない。松尾芭蕉が「古池や蛙飛びこむ水の音」と詠んでも、蛙は昔からいるし、飛び込んだ古池は芭蕉庵の傍の池、つまり、ちゃんとあった。「奥の細道」も想像ではなく、弟子の曾良とちゃんと歩いた。

近代歌集「サラダ記念日」も7月6日に「この味がいいね」と25年前の俵万智に誰かが言ったんだろう。もし「この味はダメだね」なら誰も共感しなかった。280万部も売れなかった。つまり、丸々嘘を書いていいのは小説だ。

栗原貞子も爆心地から4キロの場所で被曝したが、他に病気もなかったから92歳まで元気に生きた。死因は老衰。大往生というやつだが、本人が被爆者であり、まさに正真正銘の体験者が「詩」というジャンルで反核、反戦をやる。真実味は増す。影響力抜群だ。

それだけならまだしも、その原因とやらを日本とか御皇室にもっていく。栗原もそうだった。この原爆詩人は<天皇絶対主義の恐怖は母斑のように肉体にしみついている>と言い、そのことをして<日本人にとっての原罪である>とまで言い切った。落としたアメリカの非道を追求するだけなら共感も可能だが、それを誤ったままの左巻き史観で無茶をやるからどうにもならない。

「はだしのゲン」の中沢啓治もそうだ。中沢は<天皇や軍部はポツダム宣言を無視し、その結果、広島・長崎で多くの人が亡くなった>と理解する。大嫌いなはずのGHQの洗脳教育そのまま、丸ごと飲み込んでしまったのが原因だ。皮肉なモノだ。

中沢の「天皇嫌い」は作品と同じく有名で、先帝陛下が広島に行幸された際も<人間の神経をもたない冷血人間>とまで腐すに至っている。「はだしのゲン」の読者が、なぜそこまで嫌うのか問うと<天皇の名によってアジアで2000万人、日本では300万人も殺された、私は天皇が憎い>と答え、支那朝鮮に対しては植民地支配を恥ずかしく思い、慰安婦やら南京大虐殺を丸飲み、日本人として申し訳なく思うと何度も繰り返した。すなわち、重症化したステレオタイプのアレだったが、それでもまあ「黒い雨」にうたれながらも72歳まで御苦労さまだった。死因は肺がんだったとか。



戦争に負けた、というだけのことで、自分の生まれ育った国を蛇蠍の如く嫌う。世界には他にも戦争に負けた国がごまんとあるのに、いろんな実例を客観的に比べることもしない。ほんの数十年前の時代背景、国際状況も勘案しない。腐っても占領軍だったGHQの嘘を疑いもしない。日教組やらNHKを丸ごと信じ、朝日新聞の論調を怪しんだりもしない。

ただ「日本は悪かった」「戦争は悲惨」と書けば良かった。周囲はちゃんとチヤホヤしてくれた。「はだしのゲン」にしても「反戦漫画」だったから、当時の少年ジャンプ編集長・長野規が紙面を提供した。人気投票はずっと下位だった。だから長野が栄転すれば連載を切られている。これを単行本にしたのは朝日新聞。「たかが漫画」という世間に対しては大江健三郎を使った。広く売り歩いたのは共産党の集金システムだった「生協」だ。

それから共産党の機関紙「文化評論」に連載、続いて日教組の「教育評論」が引き受ける。1980年代の学校図書館で唯一、子供が読める漫画になった。だから「みんながしっている」ということになった。なんとなく「名作なんだろう」で済ませるのが無難となった。

原爆を落とされた理由は「日本が戦争をしたから」になる。少なくとも子供らはそう教えられる。ナチスドイツと組んで世界を脅かし、日本は平和に暮らすアジア諸国民を蹂躙した。軍部は国民を騙し、原爆詩人が言う「天皇絶対主義」に逆らえず、無謀な戦争を止めなかったから、致し方なくアメリカは原子爆弾を投下した。それに奴隷狩りも大虐殺もやった。原爆を投下されても、空襲で都市を焼かれても文句は言えない、と子供らは信じた。

だから「事実」はどうでもよろしい。適当でよろしい。些細な間違いはケンチャナヨになる。例えば「はだしのゲン」にはアインシュタインが出てくる。原爆の製造や実験に立ち会う。もちろん、事実は違う。アインシュタインは原子爆弾の製造に関与していない。しかし、子供が読むならアインシュタインはわかりやすい。レオ・シラードに勧められて、アメリカ大統領あての手紙に署名しただけ、とかは子供の興味をそそらない。

リトルボーイは落下傘で落ちてきている。落下傘で落ちてきたのは測定器だが、子供らにはどうでもいいことだ。有名な登場人物の一人、朝鮮人の「朴さん」は日本の植民地にされた朝鮮半島から強制連行、無理矢理に働かされたり、戦場に送られたりして、たくさんの朝鮮人が苦しめられている、とか平然と嘘を言う。それをゲンのお父さんが「差別じゃ」とか怒る。この「お父さん」は中沢の父親がモデル。名字の「中岡」は近江屋事件で坂本竜馬と共に襲われた中岡慎太郎から。中岡慎太郎は京都護国神社にもいるが、靖国神社にも祀られている。反省平和を願った父親、怒ってるんじゃないか。

中沢は引退した際に<核兵器廃絶をこの目で確かめるまで、芸術家として頑張りたい>と遺した。夢は叶わなかったわけだが、叶うわけもなかった。サッチャーは核兵器廃絶を「狂気の沙汰」と言った。冷戦で米ソが軍事衝突しなかったのは核兵器があったから、と世界の常識を言った。原爆投下がなくても、アメリカは都市空爆で何十万人も殺した。沖縄には「鉄の暴風」と呼ばれる艦砲射撃、空爆をしてから上陸して、ガマの中に隠れる沖縄市民を焼き殺した。別に「大量破壊兵器」などなくても、戦争になれば多くの人間は殺せる。

相手に軍事行動を起こさせないよう、世界の国々はそれを上回る軍事力でバランスを計る。それを前提にして外交を展開させる。左巻きのくるくるぱーは意図的に、あるいは無意識ながらも、それを壊そうとする。それから核兵器のない日本に向かって言う。日本にだけ武器兵器を無くせと言う。すなわち、要すれば、世界で核兵器を持ってよいのは支那だけだ、と言っている。意図的に騒ぐのは工作員だとわかる。

「世界平和」とか「戦争反対」は詩を読まなくてもわかる。漫画で嘘を書いて子供らを騙さなくても大丈夫だ。それよりも怖いのは「平和を護る気概」を失うことだ。それを「護る価値」を教えないことだ。今日の平和を明日に繋げる努力を放棄することである。子供らには常識として、それらを教え込まねばならない。ゲンというか、少年時代の中沢が助かったのは広島市立神崎小学校、当時の国民学校の壁が熱線を防いだからだった。彼はその御蔭で終生、反日プロパガンダをやってこれた。

焼け焦げた教室、ガラスの一片も残らぬ窓、土まで燃えた学校に疎開先から机と椅子を運び込み、松葉杖の教師が真っ黒な顔の「生き残った日本人の子供」に教えたのは憲法9条なんかでは決してなかった。「平和」なんぞ、とっくの昔から教えていた。ゲンも通った神崎小学校は創立100周年を越える。その校歌の歌詞(3番)はこうだった。


波寄せ返す瀬戸の海 久遠の平和ひとすじに 祈るまことのたのもしや 仰ぐ神崎小学校


軍靴の足音は聞こえない。支那朝鮮人を殺せとか、大和民族は世界を征服するとか、阿呆らしいことも歌っていない。当時の日本人も中沢が心配せずとも、今と変わらぬ、平和を愛する大人しい民族、国民だった。だからこそ、中沢が先帝陛下に対して<人間の神経をもたない冷血人間>と腐しても、日本人の子供らは「はだしのゲン」を図書室で読んだ。そして朝日新聞やら日教組だけではなく、多くの普通の日本人がいま、哀悼の意を表するのである。




1 コメント

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心が痛む (ゆり)
2013-06-16 23:36:52
裸足のゲンはジャンプに掲載されていたあまりの体験漫画でアニメ映画化二回ドラマ化二回に分けて戦争の悲しさお腹のすく毎日ひどい暑さ原爆のせいで今も忘れてはいけない裸足のゲンの話は今の子供たち大人にも中沢先生がそんな残念でなりません
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