忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

孫がいるときいないとき

2012年10月09日 | 過去記事


娘が23回目の誕生日だった。今度、お祝いも兼ねて「家族4人」で久しぶりにUSJでも行こうかと計画する。孫とトカゲは留守番。連れて行けばいいのに、可哀そう、という声も聞こえてくるが、これは我が家の仕来たり。「大人は大人、子供は子供」が私の持論だ。それに子供も孫も、ちゃんと世間並みには面倒見ているつもりだ。

つまり、少しだけ書くと、小さな子を連れて行くなら、私は遊ばない、ということだ。子供から目を離さないし、子供中心で段取りも組む。交通手段から食事の場所まで考える。要するに「子供が楽しめるかどうか」「安全に遊べるかどうか」を吟味する。これは大人の仕事だ。だから「一緒に遊ぶ」という真似ごとはしても、基本的には引率者として振舞う。外食もそう。小さな子供を連れて行って、わざわざ「座ってなさい」とか「静かにしなさい」とやるなら、私は行かないか、連れて行かないと決めている。子供が可哀そうだ。「じっとしている子供」など気持ち悪いし、たぶん、医者に連れていったほうがいい。それに基本、行儀を教えるための躾なら家ですべき、躾してから社会に触れさせるべき、だ。

例えば、夏に孫を連れてプールに行く。孫が泳いで遊ぶ姿は嬉しいモノだが、私は常に孫をみている。溺れていないか、危険はないか、周囲にヘンなのはいないか。当然、楽しいか?と問われると、それよりも「疲れた」となる。これは保護者としての正直な感想だ。

大人は子供を連れて歩くと、普通は金も時間も労力も使う。同じく本気で「楽しかったね」というなら、それは同じレベルで楽しんでいたからだ。だから私はションベン臭い若い女に興味が無いわけだが、ともかく、中途半端に考えていると「もったいない」ということにもなる。せっかく出掛けたのに子供が体調を崩す、親が怒り過ぎて楽しくなかった、とか。これは親と子供、大人と幼児、どちらも楽しめないことを意味する。もったいない。

だから考え方として「分ける」のである。今日は孫を連れて買い物、となれば、どこに連れて行くのか、何を喰わせるのか、何を買い与えるのか、それこそネットでも何でも使って調べる。その日の目的は「じじ、ばば、ありがとう」と孫から言われることだから、それはそれで達成感もある。「疲れる」けれど「楽しい」ことだ。

小さな子供を育てるときもそう。大きくなるまでめったに「親が楽しむシーン」などない。また、だからといって預けて遊びに行っても、子が気になって楽しくなかろう。これはもう、そういうものなのだから、あきらめて子供に全力で接するしかない。そして、普通の親はそれを「生き甲斐」と呼ぶことになっている。

「こどもこどもって、オレの時間はどうなるんだ!」と旦那が怒るなら、そんなの選んだあんたも子供だったというだけだ。親なんだから、ですべて説明がつくことをわからんなら、それはまだ「親」としての修行が足らんのである。餓鬼なのである。だから小さな子供を連れてラーメン屋に行き、そこで餃子とビールを頼むのである。私は無類の酒好きを自認するが、小さな子供を連れて外食する際、酒を飲むようなみっともない真似はしない。

酷いのは居酒屋に連れて行く。そこで子供が走り回ると「静かにしなさい」とか「他の人に迷惑でしょう」とやる。迷惑なのは親のお前だ。親が酒飲んで話しているのを、なんで子供がそんな時間、黙って座っていなければならないのか、まったく理解不能である。単に「親の都合で振り回しているだけ」のことを威張れるのか、わからないのである。

そしてようやく、子供から手が離れるときが来る。ひとりで外出もするし、留守番もする。それからが「親の時代」だ。いままで、人生のすべてを使って育ててきた自負もある。すべてに優先させて、すべてが「子供のため」という生活を送ってきた誇りがある。いま、娘がやっているのがソレになるが、娘がどれほど「出産の大変さ」とか「子育ての苦労」を妻に話しても、まだまだ甘い、まだやれるはず、と突き放されるのも自明だ。

だから妻とふたりで食事する、となれば、先ず、子供らは連れて行かない。孫も連れて行かない。店も贅沢をする。懸命に仕事をしたあとのメシが美味いように、子育てが終わったあとの贅沢メシは格別だ。金は使ってもなんら気を使う必要はない。留守番している子供を思い出して「なんか悪いね」すら思わない。でも「りーちゃん」は気になる。

妻とふたりならば、回っていない寿司屋に行く。京都と大阪、お気に入りが何件かある。職人さんに子供相手の仕事をさせるわけにはいかない。親が金持ちというだけで、何年も修行した兄さんに「ん~とね、たまご!」とか、阿呆そうな子供が注文するのは見てられない。逆に子や孫がいるなら、絶対に回っている寿司になる。店側も子供相手を自覚しているから、少々、大きな声を出して騒いでも仕方ない。玩具もあるし、キャラクターもいる。あそこは「子供を連れて行く場所」だ。

こういうのは金があるかないか、まったく関係が無い。我が家の場合も私の収入ではなく、矜持の問題、すなわち「我が家のルール」である。だから家族には守らせる。トカゲも仕事が休みだから子守りをさせる。孫と犬は留守番になる。これは決定事項だ。

ところで、家族4人で遊びに行く、のはずいぶんと久しぶりになる。娘が嫁に出てから何度目か、なかなか都合が合わずに延期を繰り返していた。倅も今年20歳になる。だからUSJで遅くまで遊んでもよろしいとなる。「大人4人」だから「バイオハザード」も観られる。今回、それが目的だったりする。私もベッキーのように逃げ回りたい。




娘の誕生日は10月5日。横田めぐみさんと同じだ。我が娘は17歳の終わりに嫁に行ったが、めぐみさんは13歳で北朝鮮に拉致された。今年、48歳になる。胸が潰れる。

ここにも何度か書いた施設の天下り。頭が左に巻いている典型的な阿呆だが、コレが敬老会とかで挨拶をする。戦前、戦中、戦後を生きた人生の先輩らに「15年戦争」とか「平和憲法」を言う。その中で「日本は戦後、たったのひとりも戦死してないんです」とかやる。聞いている相手が無反応なのは、たぶん、認知症の所為だけではないが、私はこれもまあ、戦争で苦労された人らのこと、そう聞いて安堵するなら嘘も方便かと黙っていた。

しかしその後、敬老会も終わり、来賓も帰られたあと、何人かの職員の前で雑談タイム、施設職員にと届けられた差し入れの缶コーヒーが配られた。本日はどうも、御苦労さんで帰ればいいのに、またまた、先ほどの「戦後の日本人戦死者はゼロ」を言った。それは憲法9条のお陰なんですよ、とオチをつけるのがパターンらしい。この時間にベランダでマルボロを一服、と去りかけた私だったが、我々は戦前も戦中も知らない。それに認知症でもない。この老害ジジイ、8月15日の朝礼で懲りてないのか、大概にしとけと腹が立った。

「戦死者はいます」と斬り込むと周囲は黙って私を見た。天下りも一瞬、困った顔をしたがまた笑って「いや、いませんよ、だって戦争を放棄したんですから」と弱々しい反論を試みた。私は大袈裟に溜息を吐き「香川県の金刀比羅宮、こんぴらさんに海上保安庁の掃海殉職者が79名祀られてます。日本の太平洋側、それから沖縄、米軍が撒いた数万個の機雷は誰が除去したと思ってるんです?それから朝鮮戦争のとき、元山上陸作戦というのがありましてね、そのとき、北朝鮮軍がばら撒いたソ連製の機雷の除去を日本の海上保安庁がやらされたんです。そのとき機雷に触れた船が沈んでます。多くが怪我をして1名の日本人が戦死されてます。なに言ってるんですか」と呆れたように言った。

天下りはちょっとムキになったのか「でも、それは戦死じゃないでしょう、殉死ですよ、それは、事故なんだから」と言い返してきた。左巻きのくるくるぱー。浅い浅い。

殉死?殉死ってなんです?

天下りは「殉死というのは、警察官とか消防隊員が事故で・・・・」と言い始めた。

違いますよ、それは殉職。殉死は臣下が主君の後を追ったりすることです、それが殉死。だから司馬遼太郎が「殉死」を書いたんでしょう。明治天皇陛下が崩御されて、その大葬の日に乃木希典が奥さんと一緒に自刃した、あれを殉死というんです。

明らかに「ぐぬぬ」という表情の天下りを無視して、朝鮮戦争は戦争でしょ?戦争当事国のアメリカから依頼されて、海上保安庁から掃海作戦に出た日本人が戦場で死んだ、これ戦死じゃなきゃなんなんです?それに昭和54年、戦死者はちゃんと叙勲を受けています。つまり「戦死」と公認されています。テレビでやらないだけです、と言い捨てた。

それじゃあ、とベランダに向かいかけたが、私はまた足を止めた。

それに拉致被害者はどうなんです――――??戦後の日本が平和憲法のお陰で平和だったのなら、北朝鮮に拉致された被害者はなぜいま、日本にいないンでしょう。それはつまり、家の近所や親類縁者に殺人がなかったからという理由で、日本には殺人事件がないと言っているのと変わりませんね、つまり、日本は平和じゃないし、私やみんながいま、ここで元気に働いているのは偶然です。テレビでやらないだけです。あ、沢村さん(仮名)、今年で48歳ですよね、横田めぐみさんは、あなたと同じ年です。13歳で北朝鮮工作員に拉致されて、そのままです。13歳といえば中学生です。中学生のお子さんがいる人、ここにも結構いますよね、めぐみさんは下校途中に拉致されました、お子さん、毎日、下校されますよね、それから家に帰ってお菓子食べたり、テレビ見たり、勉強したり、親子喧嘩もしますよね、そういう平穏な日常が、ある日突然、それも単なる犯罪者じゃなく、外国の工作員から奪われる、これは平和と言いませんね。

それを平和だと言う人がいます。ここにも「戦後の日本は平和だった」と本気で言う人がいます。テレビでも日本は不景気だとか、財政赤字だとか、このままなら破綻するとか、金の話ばかりで脅しますけど、どのテレビも「日本は平和じゃありません」とは言わないですよね、その理由はみんなが大好き、平和憲法があるから、です。憲法で日本は平和と決めてるから、日本が平和じゃないと困るんです。平和じゃなければ備えないといけないからです。憲法で火事はコレを禁ずる、と書いてあるようなものです。ぼうぼう燃えているのに、これは火事じゃなくて火が燃えているだけですとか、馬鹿みたいでしょう?


そんな天下りが愛読するのが京都新聞。看板コラムの「凡語」に「めぐみさん」のことが書いてあった。10年前の早紀江さんの記者会見を思い出して<メモの字がにじんで仕方なかったのを覚えている>とか。頭が左に巻いていても、子を拉致された母親の気持ちはわかると言いたいのだろうが、コラムは終盤、早紀江さんの言葉を幻冬舎の「めぐみへの遺言」から引いてくる。「国家が動かない。国民の命をなんとも思っていない。そこがいちばん大きな問題なんです」を読ませてから<原発しかり、基地問題しかり>と括る。いくら阿呆な天下りが読者だからとはいえ酷いモノだ。ミソもクソもなんとか、だ。

それから中をめくっていくと、同じ日の新聞、大きなスペースに「平壌宣言10年――北朝鮮との交流、学術分野から」の見出しがある。京都大学から「韓国思想」と「北朝鮮近代史」の教授を引っ張り出して語らせる。

<日本の経済制裁は北朝鮮に実体的なダメージを与えていない>とか<互いに対話、交流が出来るというメッセージを>とやらかす。要するに政治的戦略である経済制裁は止めて、複眼的に北朝鮮をみましょう、学術的交流はできるんだから、と書いている。つまり、日本は昔みたいに北朝鮮に金も技術も出し続けましょう、という意味になる。看板のコラムで泣いてみせ、中身の本音記事で嘲笑う。性根が腐っている。

「韓国思想」の方の教授は、北朝鮮の「哲学者」と意見交換。その感想を<多くの人が自分たちは民主主義で自由があり、自主的に金正恩同志を支えているという意識を持っている>と述べる。この教授につける薬はないだろうが、こんな記事を有り難く読んでいる天下りがあの程度なのも自明の理といえる。朝鮮総連やら民主党やら、こういう連中、金正日が死んだとき、誰も止めなないから「殉死」でもすればよかったのに。



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