「今日の晩御飯はいりません」と出掛けて行った倅だったが、帰ってくるなり「おなかすいた」とのことで、なにやらゴソゴソ喰っていた。それから「疲れたぁ」とリビングに倒れ込んだ。ンなこと一切を気にしない妻からはお土産をせびられていた。
倅は大学の「国際交流委員会」みたいなのに所属。支那語も英語もそこそこだし、なんでも嫌がらずにやるから使い勝手がよろしい。その日は歓迎レセプションがあったらしく、多くの外国人と一緒に立食パーティ、適当に料理もあるから「いらない」ということだった。
それでもまあ、パーティの席でがつがつやるわけにもいかない。また、予想以上に料理が少なかったのかもしれないし、妻の遺伝と思しき偏食の倅のことだ、喰えないモノばかり並んでいたかもしれない、と思ったが、どうやらそうではないらしい。
スペイン人が「みんなで飲むように」と置かれたドリンク、2リットルサイズのペットボトルを持ち出し、なんの躊躇いもなくラッパ飲みでやりだす。たぶん、彼らはグラスを知らない。と思えば、テーブルにある料理を「皿ごと」仲間のところに持って行く支那人もいる。さすがは大学生、まだ仲間のところに持って行くだけマシな支那人だ。
他にも勝手にウロウロして威張りながら迷子になるアメリカ人、ドアを探すのが邪魔臭かったのか、ドアを知らないのか、目に入った窓から出入りするどこかの黒人、言い合いしている韓国人とオランダ人などなど。迎え入れる側の日本側、その「委員会」に所属する倅は走り回って、自分が喰うどころではなかった。
せめてキムチでも持参させればよかったと後悔したが、なにかこう「国際社会の縮図」みたいで面白かった。左巻きのくるくるぱーみたいだが、例えば「地球パーティ」を開催する。そこにはいろいろな料理や酒も並ぶ。形式はセルフサービスの立食、いわゆるスタンディング・ビュッフェだ。ただし料理も酒も追加はない。
このままではルール無用の弱肉強食、ピストルでもあればぜんぶ喰うことが出来る。だから条件はいくつかあって、料理や酒はいろいろと並んでいるが、各テーブルは固定される。その近くにある料理は、例えば肉料理ばかりとかサラダばっかりとか、ミネラルウォーターはちょっと向こうのカウンターに、酒はあっち側に、皿がないとかナイフとフォークはあるけどスプーンがないとか、いろいろと困ったことが頻発する。店員はいない。
周りがサラダばっかりのテーブルも、ちょっとくらいは肉を喰いたい。しょうがないから歩いて取りに行くと「おいこら、なにしてるんだ」と凄まれる。肉が欲しいならサラダ持って来んかい、とか言われる。その肉料理に恵まれるテーブルも、あんまりがつがつやると減ってくる。困っていたらグループの誰かが「あっちに肉あったぜ」とか教えてくれる。もちろん取りに行くと、そのテーブルの人が「ちょっとマッテ」とかになる。脅すか殴るか、どうにかして黙らせる。ついでにパンも盗ってきたりする。
近くに何もないテーブルもある。水すらない。でもテーブルの下を探せばフォークが山と出る。料理を喰うには必要だろうと聞いて回る。喜ばれて受け入れられる。そのテーブルにはフリーパス、いつでもおいでと言ってくれる。もちろん、そうじゃないテーブルもある。フォーク?いらないよ、そんなの、ということで手掴みもいる。文化的な多様性だ。
いろんな人がいる。なぜだか最初のポジションがよろしく、また、喰い散らかさずに綺麗に片づけるから、いつまでも整然としたテーブルもある。あるモノとないモノを峻別し、それでどうにかやれないかと、あまりなんでもがつがつするのはみっともないと、まあ、これでいいじゃないかというテーブルもある。
よく見なくてもマナーの悪いのがいる。こちらの料理を勝手に自分のテーブルに持って行き「最初からここにあった」とかやるのもいる。知らぬ間に近寄り、さっと皿ごと奪い盗っていくのもいる。文句を言うと「これはそっちのテーブルが奪ったものだ。返してもらっただけだ」とか真顔で言う。困り果てていると足元がゴソゴソ。まさかと思ってテーブルクロスをめくると、下からケンチャナヨとか言ってる。
そろそろ嫌になってくる。しかしパーティ会場はここだけ。テーブルも固定されている。倅にみたいに溜息ついて家に帰り、ゴソゴソと冷蔵庫を漁るわけにもいかない。
では、どうするか。これはもう、毅然と「マナーを守れ」と言い放つしかない。「ルールを守れ」と諭すしかない。それで無理なら付き合いを考える。つまり、私が言いたいことは、なんでも我慢して「国際交流」などしなくてもよろしい、ということ。文化の違いも結構、少々のお茶目もよろしい。しかし、無理して付き合う必要があるかどうか。というか、そもそも我慢する必要があるのかどうか。それは「国際外交」における優位性となるか。
例えば今年、前厄である私は八坂神社に行った。妻と二人、祇園花月で吉本新喜劇をみてからメシを喰い、それから「祇園さん」に行ったら数人の外国人グループがいた。白人の学生(?)男女だった。悪気はないのだろうが、これがまた行儀悪く、地べたに座って何か喰いながら雑談に興じていた。女は足を剥き出しにしたホットパンツだった。周囲にいる日本人、通り過ぎる参拝客の目など気にもしない。私も一見にして呆れたが、素知らぬ顔をして通り過ぎようとした。しかし、そこで妻が何かの置物に興味を示す。
露天商みたいなところで、いろんな可愛らしい置物があった。妻が動かないので一緒に見ていた。すると、その外人グループのひとりに東洋人がいたらしく、白人の女の子を連れて歩いてきた。女の「かわいい!」は世界共通なのか、その白人女も「オウ」とか言って足を止めた。我ら夫婦の隣に来たから「こんにちは」と言ってみる。女のほうは「コンニチハ」だったが、東洋人の男は「こんにちは」だった。日本の方ですか?―――「そうです」。
私は彼に言ってみた。八坂神社の主祭神はスサノオノミコト。このカミサマは疫神でもあるから、神社内で地べたに座ってモノ喰ってたり、散らかしたり、騒いだりすると、相当ややこしい病気になるかもしれない、と言われている。あんなことしてると、たぶん将来、あの子らの子供は足の病気になって一生苦労する。つまり罰が当たる。「BACHI」と教えなさい。それに国の重要文化財の中、安モン学生の休憩時間みたいな振舞いはよろしくない。今からでもいいから、日本人として、あそこにいる友人らにそれを伝えたほうがいい。
白人女のほうは「???」だったが、日本人の彼は快く「わかりました」ということだった。もちろん、病気になるとか、子供がどうした、は私の創作だが、神社で行儀が悪いのはよろしくない。私は妻に何かひとつ置物を買い与えて納得させ、それから拝殿に向かった。
参拝を済ませ、お守りを頂いて帰ろうとすると、西楼門のところで「彼ら」にまた会った。立ち話をして、もうなにも喰っていなかった。私に気付いた日本人の彼が会釈すると、となりにいた白人女も会釈した。それから女がホットパンツの下を「手で切る真似」をしてから拝むようなポーズをして笑った。リックフレアーの「降参ポーズ」みたいだった。私も笑って手を振って立ち去った。後ろにいた仲間も手を振っていた。なんか和んだ。
たぶん、彼らとは付き合える。しかし、もし、日本人の彼が我ら夫婦をみつけて下を向き、そのとなりの白人女、それから後ろにいた仲間らが中指を立て、白人様に意見した生意気な私に「4文字の言葉」を投げつけてくるのであれば、それを我慢してまで「国際交流」など必要ない。私はもう何も言わないし、拘ったことを後悔もするだろう。
韓国のKBSが海上自衛隊のヘリコプターが竹島上空、韓国側の防空識別圏に「無断侵入」したと伝えた。韓国は戦闘機を出撃、警告すると海自のヘリは逃げてしまいましたスミダ、と報じた。KBSは真面目な顔で<他国の防空識別圏に入る場合、事前の許可を受ける必要がある>と困ったふりをした。日本は手続きもしなかった、と呆れて見せる。
もちろん、これは嘘。ウラジオストク沖、海上自衛隊護衛艦からヘリの発着訓練を行うことも、事前にちゃんと通知していた。空自の管制官が韓国空軍に連絡、問題なし、の回答も得ていた。そら「問題なし」だろう。だって防空識別圏は領空とは違う。事前通告なしで侵入しても国際法上、なんの問題もない。日本からすれば「ややこしい」から一応、それこそ「マナー」として事前に通知したに過ぎない。
すると韓国は、いや違う、間違えた、日本のヘリは「作戦区域」に侵入してきたニダよ、と言い分を変える。韓国の「作戦区域」など誰も知らない。知らないからホントかウソかもわからない。無論、ホントだったとしても日本に非はない。知ったことではない。
日本政府は外務省と防衛省が話し合って「無視しよう」で収まった。単なる言いがかりに過ぎない、相手にできない、という判断をした。<抗議に値する水準ですらない>とのことだが、コレが例えば「日韓スワップ」ならそれでいい。困っている韓国が「韓日関係が大事」として拡大するかどうか、延長するかどうかを論じているが、これは放っておくほうが面白い。借金を申し込むほうが「借りてやったほうがいい」とか「でも、借りないでいれば向こうは困るんじゃ?」とかやっているほどの馬鹿さ加減だからだ。
「日本に頭など下げられるか」というなら放っておくしかない。勝手にすればいいし、韓国経済がどうなろうと、過半以上の日本人には何の関係もない。関係がある日本人でも大きな問題はない。行かなければいいし、手を引けばいいし、相手にしなければいいだけだ。
しかし、この手の嘘話は潰しておくに限る。簡単に言うと「抗議に値する」わけだ。そして、それが外務省の仕事だろう。こういう小さい抗議もしないから、強制連行とか従軍慰安婦の嘘に抗議もできなくなる。「勝手にどうぞ」と言えない嘘を連中は吐く。支那やロシア、アメリカも言うに及ばず、日本に非がある話ならば、連中はその真贋はどうでもよろしい。都合の良い解釈をするし、そして、それは当り前なのだ。
倅はいま、その「国際交流委員会」でのパートナーが、これまた支那人だ。委員会からは「一緒に行動するように」とか、大沢在昌の小説「黒の狩人」みたいになっている。とりあえず、まだ、自宅には連れて来ないし、プライベートで付き合う頻度も少ない。はっきり書くと、そこは倅なりに「警戒している」わけだ。それで最近、ようやく「悪い奴じゃないかも」という評価になった。だから私も「今年、ふたりとも成人だから飲みに連れていってもいい」とか「国際交流」を言う。とくに支那「人」に他意はない。
個人の付き合いでも、それくらいは警戒する。嘘をつくなら付き合いも考える。いい加減な者なら突き放す。最低限の関係性にしか配慮しない。これは普通のことだったりする。
外国人を見たらすぐに「公正と信義に信頼して」飛び付く馬鹿もいる。非礼無礼は見ないふり、馬鹿にされても舐められても、相手は「平和を愛する諸国民」ということで「友好」とか「友愛」しか言わぬ愚か者がいる。それで自分の「安全と生存を保持しようと決意」したわけでもなく、単純に怒らせないこと、ぶつからないことが「最上の付き合い方」だと信じている。
本当は違う。相手は同じ人間だが、文化も歴史も違う相手。ぶつかり合うことからしか芽生えない理解もある。互いに学び合うからこそ認め合える。くだらぬウソを吐いたら「嘘をつくな」と怒るのが友情、それこそ「そんなことじゃ公正と信義に信頼できないじゃないか」と説教すべきなのである。それを<抗議に値する水準ですらない>と放置するのは、相手を見下している証左。外務省エリートの驕った見方だ。
日本国民の声は「抗議しろ」だと思われる。日本政府の外交に「弱腰ですね」は通弊となった。「言うべきことは言わないと」が「町の声」ではないか。つまり、今も昔も日本の良民は差別心が薄い。昔は軍人さんもそうだった。相手を同じだと思っているから、外国人の子供にも「挨拶をしろ」とビンタした。仕事をサボる者にも厳しくやった。親を大事に、きょうだい仲良く、日々に感謝して、天皇陛下を敬いなさいと教えた。つまり、日本人と同じようにした。
潘佩珠は日露戦争に勝った日本に興奮して来日、日本に対してフランスを追い出したい、ベトナムを独立させたいから武器をくれ、力になってくれと泣きついた。一緒に白人を倒しましょう、ということだったが、これを犬養毅に窘められる。自分の国は自分で取り戻しなさい、そのためには人材を育成しなさい、と厳しくやった。潘佩珠はそれでベトナム青年を日本に留学させる。「東遊運動」だ。これが友情、これが「公正と信義」だ。
そして「公正と信義」を互いに得ることができれば「味方」になれる。また、個人でも「付き合いを放棄」するということは、もしかすると、その人物は「敵になる」可能性を否定しない。コレが国の場合は国交断絶、すなわち「敵性国家」ということになる。だから我慢してでも無理に付き合いを解消しないよう気を配る。しかし、敵を敵と認識しないような、つまり「公正と信義」に悖るような平和ボケからは味方も離れる。
左巻きのくるくるぱーは、日本が自己主張をすれば「日本が孤立する」とか抜かすが、これはまったく反対だとわかる。なんでもヘラヘラと受け流しているほうが不気味、且つ、無責任と取られるから、実際はそのほうが孤立する。だから日本の敵性国家は、これからも日本に無理難題をする。
それについて日本が毅然と対応したとき、つまり、先ほどの「地球パーティ」の会場、椅子を蹴りあげて怒鳴り、会場を出て行く。すると周辺のテーブルは慌てふためき、必死で止めようとしてくる。それから落ち着いて座り、大きく溜息を吐いておまえらあのな、と正座させて説教する。それからが本当の「国際交流」になる。
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