平和とくらし  #茨木市議会議員 #山下けいきの日々是好日

平和憲法が私の原点。鹿児島の吹上浜、桜島が原風景。毎週阪急3駅、JR2駅の5駅をのぼりを背負ってアピールランしています。

「クソクラエ節」と「私達の望むものは」から

2006年05月16日 |  #玉島 #平田 #阪急東 #茨木市議会議員
ある日政府のオエラ方 新聞記者に発表した
正義と自由を守るため 戦争せにゃあきまへんのやワ
ウソこくなこの野郎
こきやがったなこの野郎
おまはんらがもうけるために ワテラを殺すのけ
「クソクラエ節」から

私達の望むものは生きる苦しみではなく
私達の望むものは生きる喜びなのだ
私達の望むものは社会のための私ではなく
私達の望むものは私達のための社会なのだ
私達の望むものは与えられるではなく
私達の望むものは奪い取ることなのだ
私達の望むものは社会のための私ではなく
私達の望むものは私達のための社会なのだ
「私達の望むものは」から

 いずれも岡林信康の作詞/作曲である。私たちが高校時代から大学にかけてフォークとは反体制であり、社会風刺があたりまえの時代であった。大学闘争、70年安保闘争といった時代の風を受けて、私たちは生きていた。「さとうきび畑」を歌った森山良子が「この広い野原いっぱい」から始まる一連の甘い恋のフォークを歌うのはケシカランと批判される風潮さえあったのである。

 大学に入った71年の頃は社共共闘による革新自治体が全国に誕生し社会変革に希望が持てる時代だった。ただ権力はどんな体制であっても腐敗するものであり、それは社会主義も例外ではない。その意味で永久革命は必要だ。どんな体制になっても、「人より楽をしていい目をしたい」連中は尽きぬもので、そいつらへは野党的立場をとるぞと構えていた二十歳の頃。

 憲法改悪反対もまだゆとりがあり、時代の歯車を逆にまわす連中に対しても、いつかは巻き返すことが出来ると確信していた。そう思えたのはやはり社会党があり、中選挙区制だったからだろう。だから社会党の変節や小選挙区制の導入に心ある党員は闘ってきたし、今もそれに対する怒りは続いている。もちろん現実を見ながら日々選択することは当然のことであるが・・・。

 一人で共謀罪反対のビラをJR茨木駅でまいたが、携帯メールに夢中で見向きもしない若者を見ながらつい自分たちの恵まれた時代に感謝したくなった。ビラの受け取りは思ったよりいい。知った人も多かったし、「高槻でもやっていましたよ」「がんばってください」の声もかけてもらった。

 シーツが適時打で阪神がサヨナラ勝ち。私は野球に詳しくないが、阪神が勝つとうれしい人間の一人ではある。写真はヤフースポーツより


 

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