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南日本新聞の「さよなら南薩線」 戦時と戦後 特攻隊基地となった万世飛行場

2014年10月01日 |  #万世 #加世田 #鹿児島 #茨木市議会議員

写真は南さつま市役所、カーブを描いています。

万之瀬川、東シナ海に注いでいます。






 昔、南薩線が走っていました。その歴史を振り返る南日本新聞の「さよなら南薩線」から戦時、戦後の様子がうかがえます。から





 日本の鉄道全盛時代だった昭和十年代は、戦禍続き、暗く苦しい不幸な時代でもあった。同十二年七月七日の蘆溝橋事件がぼっ発、日中戦争に突入した前後から、南薩線の各駅頭でも出征兵士の見送り風景が日常茶飯事になった。

 とくに万世駅は、地元万世だけでなく大浦、笠沙方面の乗り換え駅とあって、ひときわにぎやかな見送りが続いた。「武運長久」の旗を先頭に、かっぽう着に「国防婦人会」と書いたタスキがけの婦人連、学童・生徒たちが、日の丸の小旗を振り「バンザイ」の声がいつまでも続いた。万世町助役だった森利保(七五)は「見送る子どもたちは交代制だった。しかし、戦況悪化すると、敵のスパイがいる、と派手な見送りは軍から禁止された」と証言する。見送る人もなく”マッチ箱列車”に揺られ、荒野やジャングルで無念の死を遂げた兵士もいたことだろう。
 
 軍需物資輸送盛ん

 万世駅は軍事的にも重要な駅だった。万世町長だった吉峯喜八郎(八ニ)は、新川の砂丘地に軍の少年飛行学校を誘致しようと、猛烈な陳情運動をした。これは国策にもあい昭和十八年から飛行場建設が始まった。この工事を請け負ったのが北海道の二業者。朝鮮人労務者百余人はすし詰め貨車で現場入り。万世中西横のバラックの飯場で寝起きしていた。いわゆるタコツボ部屋で「飯場内で発シンチフスがまん延し、十五、六人が死んだ。治療にあたった地元の医者も感染した」と森。「あとから中国・八路軍の捕虜四、五十人もやってきた」と話すのは元県議の松岡健蔵(七四)。

 万世飛行場は吉峯の夢とは逆に特攻基地に。特攻隊員たちは、加世田駅近くの料亭飛竜荘に待機していた。当時、加世田駅の出札係だった加世田市唐仁原、花牟礼ミツ子(五六)は「飛行服に白いマフラーをなびかせ、腰に軍刀を下げた姿は人目を引き、若い女性のあこがれだった」と、ありし日をしのぶ。同基地から飛び立った百九十五人の若者は、南海に消えた。

 一方、薩南中央鉄道も知覧基地への兵員、物資輸送でフル回転した。南薩線の線路は、小型車の運行しか出来なかったが、昭和十九年五月には、軍の特別なはからいで国産のC12型機関車が導入され、伊集院ー加世田間を走った。沿線町村からは松材などの軍需品が貨車輸送された。加世田市川畑はムシロ、カマス作りが盛んだったが、戦時中は軍の増産命令で約二百戸に数量割り当てがあり、連日のように貨車積みされた。南薩鉄道KKは十八年二月一日、経営不振の薩南中央鉄道KKを吸収合併し、同線は知覧線と改名した。合併当時の資本金は二百六十万円。
 
 女駅員が運行

 戦雲急を告げるにつれ、駅員にも容赦なく、”赤紙”が届いた。機関士の有留純夫(七四)も昭和十八年、熊本の連隊に入隊した。当時の月給は五十円。有留の留守中、会社は月給の七割を家族に支払ってくれた。
 男のいなくなった駅で、汽車を動かしたのが、うら若い女子社員たちだった。加世田駅には女子駅員が十人ほどいた。出札係や車掌が主だったが、小さな駅では列車の連結作業をする転てつ手も女性だった。尼崎市在住の迫道子(五五)は、何一つ訓練も受けず、車掌に回された。

 昭和二十年に入ると、南薩でも米軍の空襲が激しくなり、列車運行も必死だった。上日置付近では上り列車が敵機の銃撃にあい宮園車掌が即死、田畑機関手も負傷。ついに犠牲者が出た。

 この前後だったと思う。迫道子たちのC12型上りは、伊集院駅で客を降ろし、下りの発車準備をしていた。その時、急に不気味な空襲警報のサイレンが鳴り出した。迫道子ら乗員は急いで列車を上日置寄りの山陰に避難させ、列車を離れ、草むらに身をひそめた。グラマン機は迫道子らの上を低空飛行、伊集院駅付近を機銃掃射した。迫道子は「何人か犠牲者が出た」と聞いた。

 ある夜、軍旗が川辺駅に着いた。これを出迎えようと、駅には国防婦人会員ら多数の村民が群がっていた。と、空から敵の焼夷(い)弾がさく裂、あたりがパッとま昼のようになった。クモの子を散らすように逃げ出した群集に、「動くな、伏せろ!」と参謀の大声が響き、難をのがれた。

 同じ川辺駅で、女車掌が軍馬を積んだ貨車の切り離し作業をしていた。するとなにかのはずみで列車同士が衝突、ガーンと大きな音をさせた。「何ごとか!」。輸送兵が日本刀で女車掌にきりかかった。駅長の指宿綱太郎(八ニ)は現場にすっ飛び「私が悪かった。きるなら私を」と、輸送兵の前に立ちはだかった。この気迫に、輸送兵はきびすを返した。人的被害はなかったが、加世田、枕崎、知覧、阿多駅なども爆撃を受けた。(敬称略)

 太平洋戦争で日本本土は、機関車九百両、貨車・客車一万四千両を失ったという。南薩線の被害は幸い軽微ですんだものの、戦後は石炭事情の悪化に加え、資材不足で修理もままならなかった。このため、昭和二十一年ごろのダイヤと速度は、大正六年当時に逆戻りしていた。
 石炭不足は深刻で、万世線など間引き運転もちょくちょく。加世田から万世青年学校に通っていた、市史編さん委員の上東三郎(六四)は、駅構内の石炭車を見て、少ない時は「きょうも運休だな」とあきらめ、歩いて通った。

 ”地獄”の引き揚げ

 敗戦から数ヶ月たつと、外地から引き揚げ者や復員兵が疲れ切った体を引きずるように、次々駅頭から吐き出された。「車内からあふれた乗客はデッキ外にぶら下がり、客車の屋根にへばりつく。機関車の上にまで、あふれていた」と、加世田駅出札係だった花牟礼ミツ子(五六)。いわゆる”殺人列車”と比ゆされた光景が、南薩線でもしばらく続いた。

 加世田市唐仁原の松元ヒナ(七一)は旧満州で応召した夫漸(すすむ)を失い、病気の愛児・輝男をおぶって二十一年九月”地獄”をさまよいながら博多に上陸した。「早く故郷の病院へ」、はやる気持ちを抑え、ぐったりなった輝男を背に「殺人列車」に揺られて鹿児島の陸軍病院に駆け込んだ。旧満州からずっと死線をさまよい、「白いマンマが食べたい」とうわごとをいい続けていた輝男は一週間後ついに息を引きとった。その時、松元は不思議に涙ひとつ出なかった。ただ「輝男が、もうこれ以上苦しまずにいいよ」と愛児を抱きしめるだけだった。

 故郷に帰らねば…。松元はわが子のしかばねをネンネコにくるんでおんぶし、西鹿児島から伊集院へ。ここで超満員の南薩線に乗り換えた。背中の輝男はすでに硬直しており、松元は身動きできない。死体を背負っているのを周りの乗客に知られないようにジッとしていると、松元の胸に縫い込んだ「中華民国○○」の引き揚げ番号を見た復員兵らしい若い男が「おいヒッキャゲ(引き揚げ)、すわらんか」とバ声を浴びせた。座ろうにも硬直した子どもの足は曲げられない。じっと耐えるしかなかった。万世駅に着いたとたん、松元に悲しみの涙がどっとあふれた。わが子を失い、半狂乱の松元に母が「これは特攻隊が締めていたものだよ」と紅ダスキを渡し、心をいやしてくれた。

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HK & Les Saltimbanks "On l�・che rien" (Japanese subtitles)あきらめないぞ! (いつの世もあきらめたらおしまい。自民党安倍政権が政治の私物化をもくろみ、国民だれでも逮捕自由自在の「なんでも秘密」法(特定秘密保護法は自由民主党が自由と民主の真逆であるのと一緒で、特定ではなく官僚が秘密と言ったら秘密になる)に反対し続けます。この歌に勇気をもらって頑張ります。)
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