お正月が近ずき毎年この時期に若宮八幡宮に参拝に行きます、系内にはまだ秋の気配が残り
受験生の絵馬がたくさんかけられていました、
天正14年(1586年)豊臣秀吉に従軍し島津討伐に向かう際、元親は戦勝祈願を行った。この時、軍旗が鳥居の笠木に引っかかって落ちた。衆人はこれを不吉としたが、元親は「敵を笠にかけて討伐する吉兆である」と出陣した。しかし、戸次川の戦いで嫡子信親を失うなど惨敗となった。憤慨した元親は帰国後、この鳥居を不祥のものとして解体し海に流したという。幕末の慶応元年(1865年)に地震があった際に鳥居の基礎が浮き出たという。これは神意であると明治3年(1870年)木製にて鳥居を再建した。老朽化により昭和11年(1936年)に建て替えられた。現在の鳥居は、木製鳥居が老朽化したので昭和55年(1980年)鉄筋コンクリート製にて建て替えられたものである、、と書いてありました、





鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』の記述によれば、源頼朝は平氏を討ち果たした文治元年(1185年)に京都六条にあった祖父源為義邸跡に石清水八幡宮を勧請し六條若宮八幡宮を創建した。この時、土佐国吾川郡一円を六條若宮八幡宮の神領とし、鎮護のために同年12月30日、当地にも若宮八幡宮を分祀したとされている。
戦国時代の永禄3年(1560年)長宗我部元親は初陣に臨み、若宮八幡宮馬場先に陣を構えた。この時に初陣を勝利で飾った。以来、元親は合戦のたびに当社で戦勝祈願を行うようになった。
江戸時代に入り山内氏が土佐藩主となって以後も崇敬され藩主祈願八社の一つとされた


受験生の絵馬がたくさんかけられていました、
天正14年(1586年)豊臣秀吉に従軍し島津討伐に向かう際、元親は戦勝祈願を行った。この時、軍旗が鳥居の笠木に引っかかって落ちた。衆人はこれを不吉としたが、元親は「敵を笠にかけて討伐する吉兆である」と出陣した。しかし、戸次川の戦いで嫡子信親を失うなど惨敗となった。憤慨した元親は帰国後、この鳥居を不祥のものとして解体し海に流したという。幕末の慶応元年(1865年)に地震があった際に鳥居の基礎が浮き出たという。これは神意であると明治3年(1870年)木製にて鳥居を再建した。老朽化により昭和11年(1936年)に建て替えられた。現在の鳥居は、木製鳥居が老朽化したので昭和55年(1980年)鉄筋コンクリート製にて建て替えられたものである、、と書いてありました、





鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』の記述によれば、源頼朝は平氏を討ち果たした文治元年(1185年)に京都六条にあった祖父源為義邸跡に石清水八幡宮を勧請し六條若宮八幡宮を創建した。この時、土佐国吾川郡一円を六條若宮八幡宮の神領とし、鎮護のために同年12月30日、当地にも若宮八幡宮を分祀したとされている。
戦国時代の永禄3年(1560年)長宗我部元親は初陣に臨み、若宮八幡宮馬場先に陣を構えた。この時に初陣を勝利で飾った。以来、元親は合戦のたびに当社で戦勝祈願を行うようになった。
江戸時代に入り山内氏が土佐藩主となって以後も崇敬され藩主祈願八社の一つとされた


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