タイの生活と日本の生活

タイの蝶の写真と、タイの風俗習慣生活等を紹介できれば、と思っています。日本ではタイの雑貨等を輸入販売しています

物部川河口

2016-12-28 16:09:03 | カメラ
物部川(ものべがわ)は、高知県香美市の白髪山を水源とし、大小の支流34の河川を合わせつつ土佐湾に注ぐ一級河川。高知県中部を流域として、南国市、香南市、香美市をまたぐ流域面積508平方キロの河川であり、山地が流域の約88%を占める[1]。流域内では高知龍馬空港や高知市への国道等が整備されており、交通の要衝となっているほか、高知県最大の穀倉地帯である香長平野を含むため、野菜を中心とする施設園芸や稲作も盛んに行われている[2]。河川延長は幹河71km、支河219kmの290km、流域内人口は約4万人[3]。












白く見えるのはカモメ鳥

パラモーター (ハングライダー)

2016-12-25 17:01:19 | カメラ
パラモーターはハングライダーに扇風機の様な羽を付けて、その風力で飛ぶものです、

この写真は桂浜から2キロぐらい離れたところから、撮影したものです、風のない日にはよく見受けられます、
グライダー
パラグライダー用のものを使用することも可能だが、迎角が最良ではない。そのため、パラモーター専用の機体や、調整によりパラグライダーと共用できるものもある。

エンジンユニット
排気量60ccから250ccのエンジンに、直径90cmから130cmの2枚ないし3枚のプロペラを取り付けたものが多く、更にプロペラの巻き込みを防止するガードと、人が背負う為のハーネスからなる。重さは乾燥重量でおよそ14kgから28kgのものが多いが、フライト中はグライダーに吊られている為に、重さを感じることは無い。価格は70 - 100万円程度。

60cc - 80ccの小型エンジンはクラッチがついているものが多い。

クラッチが付いている事で、アクセルレバーを離すとプロペラが停止し、普通に着陸が可能である。

ある程度アクセルレバーを引くとエンジンと直結になるように設計されているので摩擦は発生していない。

女性や高齢者は小型エンジンをつけている人が多い。










水鳥の天敵来襲

2016-12-24 10:00:16 | カメラ
水鳥の天敵は主に鷹とかミシャゴ等です、この天敵が大空に米粒ぐらいにしか見えないのに

一斉に1箇所に集まる習性があります、トビとかカラスはいっぱい周りを飛んでいますが、

水鳥は何食わぬ態度で、餌を食べています、この写真は偶然オオバンの水鳥の、一斉避難

の瞬間です、大空の米粒ぐらいの鳥を一瞬で見分ける力は、素晴らしいです、








カイツムリ見つけた、

2016-12-19 19:23:44 | カメラ
カイツムリは体長が25センチぐらいで、すぐに潜るので、写真に撮るのが難しいです、

今回も倍率が出ないカメラでう写しましたので、かなりボケています、

距離は50メートルぐらいあり、鳥はやっと確認できるぐらいでした、

全長は25-29cm。翼開長40-45cm。体重130-236g[2]。尾羽は非常に短く、外観からはほぼ判別できない。翼の色彩は一様に黒褐色。嘴は短めでとがり、先端と嘴基部に淡黄色の斑がある。虹彩の色は、日本の亜種は淡黄色で、ヨーロッパの亜種は黒褐色。

夏季には夏羽として頭部から後頸が黒褐色で、頬から側頸が赤褐色の羽毛で覆われる。体上面は暗褐色。また嘴の色彩が黒く、斑が明瞭。冬季には全体として淡色な冬羽となり、頭部から体部にかけての上面は暗褐色で、下面は淡褐色。頬から側頸も黄褐色の羽毛で覆われる。嘴の色彩は暗灰色で、斑が不明瞭。幼鳥は頭部や頸部に黒や白の斑紋が入り、嘴の色彩が赤い。

足は体の後部の尻あたりから生えており、歩くには非常にバランスが悪いが、足を櫂のように使って潜り泳ぐ。














長宗我部元親の銅像

2016-12-13 14:17:20 | カメラ
先日アップした八幡さまの参道近くに長宗我部元親の銅像があります、

長宗我部 元親(ちょうそかべ もとちか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての土佐国の戦国大名。長宗我部氏第21代当主。位階は従五位下で死後に正五位[3]、昭和3年(1928年)には正三位が贈られた。

長宗我部国親の長男で、母は美濃斎藤氏の娘。正室は石谷光政の娘で斎藤利三の異父妹。

土佐国の守護職を兼ねる細川京兆家当主で管領の細川晴元より、京兆家の通字である「元」の一字を受けたため、かつて同じく細川氏より「元」の字を受けた15代当主(長宗我部元親 (南北朝時代))と同名を名乗ることとなった。










四国地図
長宗我部元親は四国を制定して、銅像の下には写真にあるように、四国をわしずかみにしています、





高知市 若宮八幡宮 長宗我部元親

2016-12-11 18:39:09 | カメラ
お正月が近ずき毎年この時期に若宮八幡宮に参拝に行きます、系内にはまだ秋の気配が残り

受験生の絵馬がたくさんかけられていました、


天正14年(1586年)豊臣秀吉に従軍し島津討伐に向かう際、元親は戦勝祈願を行った。この時、軍旗が鳥居の笠木に引っかかって落ちた。衆人はこれを不吉としたが、元親は「敵を笠にかけて討伐する吉兆である」と出陣した。しかし、戸次川の戦いで嫡子信親を失うなど惨敗となった。憤慨した元親は帰国後、この鳥居を不祥のものとして解体し海に流したという。幕末の慶応元年(1865年)に地震があった際に鳥居の基礎が浮き出たという。これは神意であると明治3年(1870年)木製にて鳥居を再建した。老朽化により昭和11年(1936年)に建て替えられた。現在の鳥居は、木製鳥居が老朽化したので昭和55年(1980年)鉄筋コンクリート製にて建て替えられたものである、、と書いてありました、










鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』の記述によれば、源頼朝は平氏を討ち果たした文治元年(1185年)に京都六条にあった祖父源為義邸跡に石清水八幡宮を勧請し六條若宮八幡宮を創建した。この時、土佐国吾川郡一円を六條若宮八幡宮の神領とし、鎮護のために同年12月30日、当地にも若宮八幡宮を分祀したとされている。

戦国時代の永禄3年(1560年)長宗我部元親は初陣に臨み、若宮八幡宮馬場先に陣を構えた。この時に初陣を勝利で飾った。以来、元親は合戦のたびに当社で戦勝祈願を行うようになった。

江戸時代に入り山内氏が土佐藩主となって以後も崇敬され藩主祈願八社の一つとされた