高知市 筆山のさくら
高知県南国市の えんたい壕(戦時中の飛行機の格納庫)その2
高知の南国市の田園地帯に写真のように7個点在していました。終戦後人が住んだり
そのご農産物の保管のために使っていたようですが、今は保存されています。双発機のえんてい壕
が3個ほどありました。
高知の南国市の田園地帯に写真のように7個点在していました。終戦後人が住んだり
そのご農産物の保管のために使っていたようですが、今は保存されています。双発機のえんてい壕
が3個ほどありました。
高知県南国市の えんたい壕(飛行機の格納庫)
掩体壕(えんたいごう。または掩体。正式名称は「飛行機用掩体」)とは、戦時中に航空機を敵の空爆から守るために地元も人々の勤労奉仕で旧日本軍が造った軍用機格納庫のことで、有蓋型(ゆうがい=おおい、または屋根のあること)と無蓋型があった。
戦闘において火器の威力保持、秘匿、援護のために掘った穴である塹壕(ざんごう)の一種である。掩体壕にはW型、中型、小型の3種のほか、航空機の周りに木や竹などを植え、機体に草等を乗せて擬装する事により敵機に発見されないようにした急造の臨時型(隠蔽型)もあり、他の掩体壕に格納できない航空機等を隠した。
W型と中形は鉄筋コンクリート製かまぼこ状型、小形は土製でコの字の無蓋型。
コンクリート製の掩体壕の上部には土が盛られ、さらに芝などを植えてカモフラージュしたことから、上空からは単なる小山のようにしか見えなかった。
コンクリート製掩体は戦闘機の機銃掃射は防げられたが、爆弾の直撃では防御できなかった。
コの字型に土塁を築き内部に草等を被せて航空機を隠していた無蓋型小形は、工期も短く、建造技術も必要ないことから最も多く造られた(敵の爆撃で直撃弾を受けなければある程度の防御できたといわれているが、臨時型の防御力はほとんどなかった)。
徳島航空隊とともに神風特攻隊菊水部隊「白菊隊」が編成された高知県南国市の旧高知海軍航空隊基地周辺(現高知龍馬空港《旧日章飛行場》・高知大学農学部・高知工業高等専門学校)には、現在7基残っている=高知・南国市の掩体壕の説明。
すなわち、1941(昭和16)年1月23日、高知県香美郡三島村に旧日本海軍航空隊の偵察員を養成する目的で海軍航空隊の飛行場を建設することが発表された。
三島村の7割に当る212ヘクタールの土地が接収され、315戸、約1500人の村民が急遽立ち退きをせまられ、村は消滅した。
高知空港史に収められている当時の土地買収調書によると、水田の買収単価は3.3平方メートル当たり平均約5円で、この賠償金では、立ち退き先で同じ面積の田を購入することは不可能だった。
滑走路はコンクリート舗装の長さ1000メートル、幅60メートルが1本、砂利舗装の長さ1000メートル、幅40メートルが2本。西側の前浜地区に誘導路やコンクリート製9基を含む41基(中型15基、小型9基《鉄筋コンクリート》、Ⅳ型17基)の飛行機を格納する掩体壕が建設された(最大の掩体壕は高さ約10メートル、幅45メートル、奥行き22メートル、コンクリートの厚さは少なくとも50センチはある)、滑走路とこれらの掩体を結ぶ誘導路が網の目のようにめぐらされていた。
その経過については、空港の南側フェンス沿いの道路わきに建てられた「開拓記念碑」に詳しく記録されているが、飛行場の建設工事は、周辺の農民、主婦、中学生の「勤労奉仕」、高知刑務所の受刑者、強制連行の朝鮮人らによってすすめられ、1944(昭和19)年3月15日、偵察搭乗員の訓練を主な任務とする高知海軍航空隊が関隊され、士官166名、兵員3600名、機上作業練習機「白菊」」(俗称「赤トンボ」)55機が配置された。
敗戦後、9基あったコンクリートの掩体は、2基こわされ、7基は前浜村に返還、その後、南国市の所有になっていたが、保存状態の良いこれらの掩体を市の文化財(史跡)に指定すべきうという運動がすすめられ、2006(平成18)年2月21日に南国市の文化財(史跡)に指定され、保存されている。
沖縄戦が激しくなると、特別攻撃隊菊水部隊白菊隊が編成され、練習機「白菊」に250キロ爆弾を2個つけ、鹿児島県の鹿屋に移動、沖縄に出撃し、26機、52名が敵艦船に体当り攻撃して戦死した。
神風特攻隊菊水部隊「白菊隊」は、鹿児島県の海軍航空鹿屋(かのや)基地から1945年5月24日の海軍記念日から6月25日にかけ5回出撃が行なわれ、52名が戦死、2名が捕虜になった。
この「白菊」による特攻は、燃料タンクの増設と250キロ爆弾2個を搭載できるように改造された上で、2人ペアで米艦に突入する作戦であった。しかし、改造された「白菊」は、時速180~200キロでしか飛べない新幹線以下の低速であったため、主に夜間に出撃(昼間の出撃では、沖縄に着くまでに米軍機に撃墜される。だが、闇夜の飛行は不可能なので、特攻出撃が可能だったのは満月の前後10日間に限定された)で、しかも単機で米艦に突入する戦術をとらざるを得なかった。
さて、掩体壕として最も大きいのがW型で、幅42メートル、奥行き22メートル、高さ10メートルの規模(大分県宇佐市【宇佐海軍航空隊】の城井1号掩体壕は、幅21.6メートル、奥行き14.5メートル、高さ5.4メートル)。W型は双発機を、中型は戦闘機を格納した(松山に残っているのは中型)。以上南国市のホームページより参照
掩体壕(えんたいごう。または掩体。正式名称は「飛行機用掩体」)とは、戦時中に航空機を敵の空爆から守るために地元も人々の勤労奉仕で旧日本軍が造った軍用機格納庫のことで、有蓋型(ゆうがい=おおい、または屋根のあること)と無蓋型があった。
戦闘において火器の威力保持、秘匿、援護のために掘った穴である塹壕(ざんごう)の一種である。掩体壕にはW型、中型、小型の3種のほか、航空機の周りに木や竹などを植え、機体に草等を乗せて擬装する事により敵機に発見されないようにした急造の臨時型(隠蔽型)もあり、他の掩体壕に格納できない航空機等を隠した。
W型と中形は鉄筋コンクリート製かまぼこ状型、小形は土製でコの字の無蓋型。
コンクリート製の掩体壕の上部には土が盛られ、さらに芝などを植えてカモフラージュしたことから、上空からは単なる小山のようにしか見えなかった。
コンクリート製掩体は戦闘機の機銃掃射は防げられたが、爆弾の直撃では防御できなかった。
コの字型に土塁を築き内部に草等を被せて航空機を隠していた無蓋型小形は、工期も短く、建造技術も必要ないことから最も多く造られた(敵の爆撃で直撃弾を受けなければある程度の防御できたといわれているが、臨時型の防御力はほとんどなかった)。
徳島航空隊とともに神風特攻隊菊水部隊「白菊隊」が編成された高知県南国市の旧高知海軍航空隊基地周辺(現高知龍馬空港《旧日章飛行場》・高知大学農学部・高知工業高等専門学校)には、現在7基残っている=高知・南国市の掩体壕の説明。
すなわち、1941(昭和16)年1月23日、高知県香美郡三島村に旧日本海軍航空隊の偵察員を養成する目的で海軍航空隊の飛行場を建設することが発表された。
三島村の7割に当る212ヘクタールの土地が接収され、315戸、約1500人の村民が急遽立ち退きをせまられ、村は消滅した。
高知空港史に収められている当時の土地買収調書によると、水田の買収単価は3.3平方メートル当たり平均約5円で、この賠償金では、立ち退き先で同じ面積の田を購入することは不可能だった。
滑走路はコンクリート舗装の長さ1000メートル、幅60メートルが1本、砂利舗装の長さ1000メートル、幅40メートルが2本。西側の前浜地区に誘導路やコンクリート製9基を含む41基(中型15基、小型9基《鉄筋コンクリート》、Ⅳ型17基)の飛行機を格納する掩体壕が建設された(最大の掩体壕は高さ約10メートル、幅45メートル、奥行き22メートル、コンクリートの厚さは少なくとも50センチはある)、滑走路とこれらの掩体を結ぶ誘導路が網の目のようにめぐらされていた。
その経過については、空港の南側フェンス沿いの道路わきに建てられた「開拓記念碑」に詳しく記録されているが、飛行場の建設工事は、周辺の農民、主婦、中学生の「勤労奉仕」、高知刑務所の受刑者、強制連行の朝鮮人らによってすすめられ、1944(昭和19)年3月15日、偵察搭乗員の訓練を主な任務とする高知海軍航空隊が関隊され、士官166名、兵員3600名、機上作業練習機「白菊」」(俗称「赤トンボ」)55機が配置された。
敗戦後、9基あったコンクリートの掩体は、2基こわされ、7基は前浜村に返還、その後、南国市の所有になっていたが、保存状態の良いこれらの掩体を市の文化財(史跡)に指定すべきうという運動がすすめられ、2006(平成18)年2月21日に南国市の文化財(史跡)に指定され、保存されている。
沖縄戦が激しくなると、特別攻撃隊菊水部隊白菊隊が編成され、練習機「白菊」に250キロ爆弾を2個つけ、鹿児島県の鹿屋に移動、沖縄に出撃し、26機、52名が敵艦船に体当り攻撃して戦死した。
神風特攻隊菊水部隊「白菊隊」は、鹿児島県の海軍航空鹿屋(かのや)基地から1945年5月24日の海軍記念日から6月25日にかけ5回出撃が行なわれ、52名が戦死、2名が捕虜になった。
この「白菊」による特攻は、燃料タンクの増設と250キロ爆弾2個を搭載できるように改造された上で、2人ペアで米艦に突入する作戦であった。しかし、改造された「白菊」は、時速180~200キロでしか飛べない新幹線以下の低速であったため、主に夜間に出撃(昼間の出撃では、沖縄に着くまでに米軍機に撃墜される。だが、闇夜の飛行は不可能なので、特攻出撃が可能だったのは満月の前後10日間に限定された)で、しかも単機で米艦に突入する戦術をとらざるを得なかった。
さて、掩体壕として最も大きいのがW型で、幅42メートル、奥行き22メートル、高さ10メートルの規模(大分県宇佐市【宇佐海軍航空隊】の城井1号掩体壕は、幅21.6メートル、奥行き14.5メートル、高さ5.4メートル)。W型は双発機を、中型は戦闘機を格納した(松山に残っているのは中型)。以上南国市のホームページより参照