元和元年(1615年)、播州姫路に生まれる。
祖父・野中良平の妻は山内一豊の妹合(ごう)で、父・良明は5000石を領していた。藩主・一豊は、良明に対して幡多郡中村2万9千石を与えると約束していたが、一豊の死後に反故にされたために浪人となっていた。兼山の母は大阪の商家の娘で、父の死後、兼山は母とともに土佐に帰った。
13歳のとき、土佐藩の小倉少介に見込まれて、父の従兄弟で奉行職の野中直継の娘・市の入婿となった。15歳で元服し、良継と名乗った。
寛永13年(1636年)、養父の直継が病死すると野中家を継いで奉行になった。藩主・忠義は、兼山に藩政改革を命じることになる。まず兼山は、堤防の建設、平野部の開拓で米の増産を進め、森林資源の有効活用を行い藩の財源に充てる。また、乱伐を避けるために輪伐制なども導入していた。築港も推し進め、藩内製品の諸国での販売を広める。また、身分にとらわれず郷士などを藩政改革にあてた。藩外からも植物、魚類などを輸入し藩内での育成につとめるなどした。また、捕鯨、陶器、養蜂などの技術者の移入も進め殖産興業を進め専売制の強化なども行った。これらの結果、藩財政は好転を進めていくことになる。
一方で過酷な年貢の取り立てや華美贅沢の禁止などで領民に不満は溜り、逃亡する領民も出てきた。また、郷士の役職への取り立てなどは上士の反発を買い対立を深めていった。
明暦2年(1656年)、藩主忠義が隠居し、3代藩主に忠豊が付く。寛文3年(1663年)、兼山の施政に不満を持つ孕石元政、生駒木工などが家老深尾出羽を通じて忠豊に弾劾状を提出。兼山は失脚し、宿毛に幽閉され、その年に死去した。なお、報復は過酷で男系が絶えるまで一族の幽閉は続き、解かれたのは兼山死去の40年後であった。
祖父・野中良平の妻は山内一豊の妹合(ごう)で、父・良明は5000石を領していた。藩主・一豊は、良明に対して幡多郡中村2万9千石を与えると約束していたが、一豊の死後に反故にされたために浪人となっていた。兼山の母は大阪の商家の娘で、父の死後、兼山は母とともに土佐に帰った。
13歳のとき、土佐藩の小倉少介に見込まれて、父の従兄弟で奉行職の野中直継の娘・市の入婿となった。15歳で元服し、良継と名乗った。
寛永13年(1636年)、養父の直継が病死すると野中家を継いで奉行になった。藩主・忠義は、兼山に藩政改革を命じることになる。まず兼山は、堤防の建設、平野部の開拓で米の増産を進め、森林資源の有効活用を行い藩の財源に充てる。また、乱伐を避けるために輪伐制なども導入していた。築港も推し進め、藩内製品の諸国での販売を広める。また、身分にとらわれず郷士などを藩政改革にあてた。藩外からも植物、魚類などを輸入し藩内での育成につとめるなどした。また、捕鯨、陶器、養蜂などの技術者の移入も進め殖産興業を進め専売制の強化なども行った。これらの結果、藩財政は好転を進めていくことになる。
一方で過酷な年貢の取り立てや華美贅沢の禁止などで領民に不満は溜り、逃亡する領民も出てきた。また、郷士の役職への取り立てなどは上士の反発を買い対立を深めていった。
明暦2年(1656年)、藩主忠義が隠居し、3代藩主に忠豊が付く。寛文3年(1663年)、兼山の施政に不満を持つ孕石元政、生駒木工などが家老深尾出羽を通じて忠豊に弾劾状を提出。兼山は失脚し、宿毛に幽閉され、その年に死去した。なお、報復は過酷で男系が絶えるまで一族の幽閉は続き、解かれたのは兼山死去の40年後であった。