タイの生活と日本の生活

タイの蝶の写真と、タイの風俗習慣生活等を紹介できれば、と思っています。日本ではタイの雑貨等を輸入販売しています

香宗我部 親泰(こうそかべ ちかやす)の墓と宝鏡寺その1

2014-07-30 08:45:56 | Weblog
香宗我部 親泰(こうそかべ ちかやす)の墓と宝鏡寺

寺伝によりますと香宗我部親泰(1543年~1593年、長宗我部元親(1539~1599年)の弟で(香宗我部親秀の養子)が曹洞宗(禅宗の一派)瑞応寺(土佐郡江ノ口村・現高知市)の末寺として開山。現在は寺域の西南に観音堂があります。

『長宗我部地検帳』には「寺中二段五代二歩、堂床三十代(約600m2)」とあります。寺跡は南北2段になっており、南には後世並べたと考えられる五輪塔14基とその部分の石塔(卵塔含む)が並んでいます。

北の一段高い所に親泰の五輪塔、同秀政、同政氏らの石塔や板碑が並んでいます。
なお、東隣にあった境内社の祇園社は、今香宗川右岸堤防道路西側に八坂神社として祭られています。











香南市野市町の香宗我部城跡

2014-07-29 08:31:55 | 蛙をたべる
香南市野市町の香宗我部城跡

香宗我部城(こうそかべ・高知県香南市野市町土居)は、香宗川下流の西岸にある。南の土佐湾まで2、5km、香長平野の東部に位置する平城で、城というより城館というほうがふさわしい(『日本城郭大系』)。
建久四年(1193)宗我部、深淵両郷の地頭職に補され中原秋家の嗣子として、この地に下った「太郎秋通」を初代として、400年間栄えた土佐の名族・香宗我部氏居城の跡(『現地案内板』)。
一方、長岡郡宗部郷(現・南国市)には秦能俊が入部したが、中原・秦両氏はそれぞれ地名に郡名を冠して香宗我部・長宗我部氏を称することとなったという(『日本城郭大系』)。
戦国期、長宗我部国親の勢力が急速に高まって香宗我部領内をうかがわんとする形勢となり、東部の安芸氏の圧迫もあって、香宗我部親秀は国親の三男親泰を養子とし、長宗我部との連合を計画した。親泰は永禄初年(1558)香宗我部家を継いだ(『日本城郭大系』)。
城跡は水田に囲まれ、本丸跡に八幡社が鎮座し、僅かに土塁が残るのみである。















高知県香南市子供の森にある、レッドウッド(世界一高くなる木)

2014-07-28 08:20:02 | Weblog
高知県香南市子供の森にある、レッドウッドという木があります、
アメリカより寄贈されたものではじめてみました、写真の中央の
2本がよくみえまがその周りの木もレッドウッドです。
アメリカでは大きい木は1000年もので、100メートルにも
なるそうです。

カリフォルニア州最北端の海岸沿いにある国立公園で、526k㎡  東京ドームの1万1200倍)の広大な公園内には、セコイアの一種であるレッドウッドの巨木が集まった欝蒼とした森が広がっています。その巨木は、樹齢1000年以上、高さは100mに達するものもあり、まるで自分が小人になったような錯覚に陥ってしまいます。この静かな森の中をのんびりと進めば、エルクやハゲタカなどの野生動物達にも出会えるかもしれません。

レッドウッドの巨木は、耐久性がありながら加工がしやすい良質な材木として重宝され、19世紀半ば大量に伐採されてしまいました。特にゴールドラッシュ移住者の住居用に多量の木材を必要としたことで、レッドウッドの森の面積は、ゴールドラッシュ後に激減。現在残っている森は、かつての20分の1の広さとなってしまいました。世界的にも貴重な森を保護するため、1980年、レッドウッド国立州立公園は世界遺産に登録され、現在もかつての森の姿を取り戻すべく、植林作業が地道に続けられています。

公園内の見どころは、このレッドウッドの森と海岸沿いの眺め。海岸沿いのコースタル・ドライブを走ると、断崖絶壁の上から太平洋が見下ろせます。レッドウッドの観察ポイントでは、レディ・バード・ジョンソン・グローブやスタウト・グローブがおすすめです。また、ゴールドブルックスビーチやフェルンキャニオン周辺で見られる外界から閉ざされたエメラルドグリーンの渓谷は忘れられない旅の思い出になるでしょう。そして、南へ向かって50km ほど曲がりくねった道が続くアベニューオブジャイアンツの景観は言葉に出来ないほどです。







香南市の姫倉城跡-姫倉月見山

2014-07-27 09:03:02 | Weblog
香南市の姫倉城跡-姫倉月見山
現在は「高知県立月見山こどもの森」になっています。城跡らしいものはまったくといってよいほどありません。
国道55号線を安芸市のほうに行くとヤシーパークがあり、少しいくと左側に小山があります、ここが子供の森です。
この中に城跡がありますが、少々見つけにくいです。
この城跡は安芸国虎(高知県の東部)の前衛基地で、永禄十二年(1569)元親が国虎に和睦を申し入れたが聞き入れられず姫倉城を攻撃。城主・姫倉豊前守は200騎を引き連れ何度も打て出ては寄せ手を敗走させるが、数多の寄せ手に叶わず、安芸へ落ちる途中、元親に降伏する。矢流れ決戦には元親の参謀として参戦。戸次川の戦いで戦死。末裔不明。


高知県香南市の安政地震の碑

2014-07-26 08:02:21 | 蛙をたべる
高知県香南市の安政地震の碑
安政元年(1854)11月4日辰刻(午前8時)、地震が発生したが、岸本浦の地曳網が流されたり、夜須浜で潮の変調が感じられる程度であった。翌5日七ツ時(午後4時)に大地震が起こり、午後5時頃には1番波、2番波が来た。その引き潮は矢を射るごとくであった。午後6時過ぎには3番波、4番波が到来し、午後7時には大地震が起こり、最大の5番波がやってきて、流家が出た。(「大変記」による)赤岡の町中の人は山に上がり、6、7日も山にこもっていた。5日は夜明けまでに34度も地震があった。(「浜田文書」による)
















高知県香南市の若一王子宮その2

2014-07-25 08:33:38 | Weblog
高知県香南市の若一王子宮その2
社伝によると、応永2年(1395年)にこの地の豪族が、現在の若一王子宮から徳王寺権現(紀州熊野新宮)をこの浅上王子宮に勧請してきたといわれている。

 祭神は天照大神。江戸時代の正徳元年(1711年)には、山内規重の長男で土佐藩の八代藩主となった豊敷が当社を産土神(うぶすなかみ)と定めて熱心に参拝し、自分が参りに行けない時でも代参を派遣していたといわれている。





















高知県香南市の若一王子宮その2

2014-07-25 08:33:38 | Weblog
高知県香南市の若一王子宮その2
社伝によると、応永2年(1395年)にこの地の豪族が、現在の若一王子宮から徳王寺権現(紀州熊野新宮)をこの浅上王子宮に勧請してきたといわれている。

 祭神は天照大神。江戸時代の正徳元年(1711年)には、山内規重の長男で土佐藩の八代藩主となった豊敷が当社を産土神(うぶすなかみ)と定めて熱心に参拝し、自分が参りに行けない時でも代参を派遣していたといわれている。





















高知県香南市の若一王子宮その2

2014-07-25 08:33:38 | Weblog
高知県香南市の若一王子宮その2
社伝によると、応永2年(1395年)にこの地の豪族が、現在の若一王子宮から徳王寺権現(紀州熊野新宮)をこの浅上王子宮に勧請してきたといわれている。

 祭神は天照大神。江戸時代の正徳元年(1711年)には、山内規重の長男で土佐藩の八代藩主となった豊敷が当社を産土神(うぶすなかみ)と定めて熱心に参拝し、自分が参りに行けない時でも代参を派遣していたといわれている。





















高知県香南市の若一王子宮その2

2014-07-25 08:33:38 | Weblog
高知県香南市の若一王子宮その2
社伝によると、応永2年(1395年)にこの地の豪族が、現在の若一王子宮から徳王寺権現(紀州熊野新宮)をこの浅上王子宮に勧請してきたといわれている。

 祭神は天照大神。江戸時代の正徳元年(1711年)には、山内規重の長男で土佐藩の八代藩主となった豊敷が当社を産土神(うぶすなかみ)と定めて熱心に参拝し、自分が参りに行けない時でも代参を派遣していたといわれている。