天平と呼ばれた時代、
時の聖武天皇に二人の内親王、阿部と井上がおりました。
今も昔も奈良盆地の夏は蒸し暑い。
暑気払いにと、皇太子と姉は東宮御所の中庭にある瓢箪池の中州の四阿(あずまや)で、薄衣一枚の姿で涼みながら唐の伝奇小説を読んでいた。
女性で初めての皇太子の名を阿部と言い、姉の名を井上と言った。
井上は伊勢の斎宮に任じられていたが、何かと理由をつけて皇居に里帰りし
て、妹と遊んでいた。
二人は腹違いだったが、それはとても仲の良い姉妹でした。
姉の母は県橘広刀自で、妹の母は後年皇后となる、藤原三女光明子でした。
天平と呼ばれた時代を象徴する、名の如く光り輝く女性でした。
藤三女とは、藤原不比等の三女を誇りにしてか、良くこの署名を使ったから
そう呼ばれたりしたのです。
当時の政治は、皇族派の長屋王と公卿派の不比等の四人の息子との綱引き状
態でした。
阿倍の母・光明子の母は県犬養橘美千代ですから、井上の唐家とは姻戚関係
にありました。そのせいもあって、家格がかけ離れていても幼い時から共に遊
んでいました。
「お姉様は何をお読みになっているの?」
「祝英台よ。わたくしはこんな恋をしてこんな風に同じお墓に入って、生まれ
変わっても番の蝶になりたい」
腹這いになっていた井上が半身を起こして阿部を見詰めた。
「皇太子、あなたは?」
「木蘭。・・・ああ、わたくしも木蘭のように男装の将軍になって、蝦夷を討
伐したい」 皇太子と言っても女性ですから適う筈の無い夢のまた夢でした。
「ああ熱い!」
皇太子は朱の欄干に凭れて大きく背伸びをして、その後。
「百合」と、側に侍っていた真備の娘を呼びました。
片膝をついて畏まっていた百合が、顔を上げて皇太子に視線を寄せました。
「池に水を」
「畏まりました」
百合は立ち上がって、架け橋を伝って岸の中衛府屯所に走って行きます。
水が引かれてはいるが、池の所々の水溜まりに鯉などの魚が群れて飛び跳ね
ていた。
二人は弟の皇太子だった基が誕生日を待たずに崩御した事で運命が大きく変
わりました。
井上の弟に安積親王がいたが、家格の問題で立太子を見送られ、し女ながら
も阿部が皇太子を継いだのです。
もし、基が長生きをしていたら。阿部は藤原氏の誰か、聖武の推す藤原南家
武智麻呂の長男豊成、母・光明子の推す次男仲麻呂に降嫁していた筈でした。
力関係から言ったら仲麻呂だったに違いありません。聖武は、今時の言い方を
したら尻に惹かれていたのからです。
阿部は二人を好きでしたが、恋などと呼べる代物では有りません。彼女は夫
にするなら、式家の大将軍宇合の長男弘嗣が好ましいと思っておりました、阿
部に岡惚れしていた弘嗣ならば東夷征討に連れて行って呉れるかも? と夢想
していました。
井上には意中の公卿がいました、天智天皇の孫白壁王です。
白壁王ならば家格の低い井上でも嫁げる可能性は大でしたが、もしかしたら
伊勢の斎宮に任命されていたかも知れない阿部の代わりに斎宮に任命されてし
まいました。
井上が度々平城皇居に里帰りをしていたのは、白壁王との逢瀬を期待してい
たからでした。
話が難解になって来たようなので、少々の解説をお許し下さい。
この時代、王(女王)と名乗れたのは、天智・天武天皇の孫だけでした。時
の聖武天皇が天武系だったため、天智系は肩身の狭い思いをさせられていまし
た。
因みに、現代の天皇家は天平時代に虐げられた天智系です。
2017年1月20日 Gorou
時の聖武天皇に二人の内親王、阿部と井上がおりました。
今も昔も奈良盆地の夏は蒸し暑い。
暑気払いにと、皇太子と姉は東宮御所の中庭にある瓢箪池の中州の四阿(あずまや)で、薄衣一枚の姿で涼みながら唐の伝奇小説を読んでいた。
女性で初めての皇太子の名を阿部と言い、姉の名を井上と言った。
井上は伊勢の斎宮に任じられていたが、何かと理由をつけて皇居に里帰りし
て、妹と遊んでいた。
二人は腹違いだったが、それはとても仲の良い姉妹でした。
姉の母は県橘広刀自で、妹の母は後年皇后となる、藤原三女光明子でした。
天平と呼ばれた時代を象徴する、名の如く光り輝く女性でした。
藤三女とは、藤原不比等の三女を誇りにしてか、良くこの署名を使ったから
そう呼ばれたりしたのです。
当時の政治は、皇族派の長屋王と公卿派の不比等の四人の息子との綱引き状
態でした。
阿倍の母・光明子の母は県犬養橘美千代ですから、井上の唐家とは姻戚関係
にありました。そのせいもあって、家格がかけ離れていても幼い時から共に遊
んでいました。
「お姉様は何をお読みになっているの?」
「祝英台よ。わたくしはこんな恋をしてこんな風に同じお墓に入って、生まれ
変わっても番の蝶になりたい」
腹這いになっていた井上が半身を起こして阿部を見詰めた。
「皇太子、あなたは?」
「木蘭。・・・ああ、わたくしも木蘭のように男装の将軍になって、蝦夷を討
伐したい」 皇太子と言っても女性ですから適う筈の無い夢のまた夢でした。
「ああ熱い!」
皇太子は朱の欄干に凭れて大きく背伸びをして、その後。
「百合」と、側に侍っていた真備の娘を呼びました。
片膝をついて畏まっていた百合が、顔を上げて皇太子に視線を寄せました。
「池に水を」
「畏まりました」
百合は立ち上がって、架け橋を伝って岸の中衛府屯所に走って行きます。
水が引かれてはいるが、池の所々の水溜まりに鯉などの魚が群れて飛び跳ね
ていた。
二人は弟の皇太子だった基が誕生日を待たずに崩御した事で運命が大きく変
わりました。
井上の弟に安積親王がいたが、家格の問題で立太子を見送られ、し女ながら
も阿部が皇太子を継いだのです。
もし、基が長生きをしていたら。阿部は藤原氏の誰か、聖武の推す藤原南家
武智麻呂の長男豊成、母・光明子の推す次男仲麻呂に降嫁していた筈でした。
力関係から言ったら仲麻呂だったに違いありません。聖武は、今時の言い方を
したら尻に惹かれていたのからです。
阿部は二人を好きでしたが、恋などと呼べる代物では有りません。彼女は夫
にするなら、式家の大将軍宇合の長男弘嗣が好ましいと思っておりました、阿
部に岡惚れしていた弘嗣ならば東夷征討に連れて行って呉れるかも? と夢想
していました。
井上には意中の公卿がいました、天智天皇の孫白壁王です。
白壁王ならば家格の低い井上でも嫁げる可能性は大でしたが、もしかしたら
伊勢の斎宮に任命されていたかも知れない阿部の代わりに斎宮に任命されてし
まいました。
井上が度々平城皇居に里帰りをしていたのは、白壁王との逢瀬を期待してい
たからでした。
話が難解になって来たようなので、少々の解説をお許し下さい。
この時代、王(女王)と名乗れたのは、天智・天武天皇の孫だけでした。時
の聖武天皇が天武系だったため、天智系は肩身の狭い思いをさせられていまし
た。
因みに、現代の天皇家は天平時代に虐げられた天智系です。
2017年1月20日 Gorou