そのⅨ 長篠
長篠城は交通の要衝にあり、寒狭川と大野川が合流する場所に突き出した断
崖絶壁上の天然の要塞であった。
信玄は野田城を落とした直後から度々喀血した。
このため、信玄は長篠城において療養していたが、近習・一門衆の合議にて
4月初旬に甲斐に撤退することと決まった。
粛々と甲斐に引き返す武田の軍勢に常の覇気が無かった。お山が病に倒れ、
明日をも知れぬ重傷。との噂が掛け巡っていたからだ。
一人の騎馬武者が、遙か彼方で夕焼け目掛けて疾走する信玄(影武者)とお
側衆の幌武者を見付けて、鬨の声を挙げた。
鬨の声が全軍に伝染して行く。
「お山はお元気だぞーッ!」
「髑髏館で出直しなさる!」
「エイエイオー!」
十騎程の騎馬武者が、堪らず信玄の影とともに早駆けた。
その頃、鎧を脱いだ近習衆と医者と風に守られた一台の籠が裏街道を急いで
いた。その籠は三州街道上の信濃国駒場宿に入った。
思えば、「遠州・三河・美濃・尾張へ発向して、存命の間に天下を取つて都
に旗をたて、仏法・王法・神道・諸侍の作法を定め、政をただしく執行はんと
の、信玄の望み是なり」と、上洛軍を興し。
俳諧書犬筑波集で「都より甲斐への国へは程遠し。おいそぎあれや日は武田
殿」という句が記されている。
4月12日、信玄は風を病床に呼んだ。
半身を興しながら信玄が何か言おうとしている。
「お山は動いてはなりませぬ」
風はやまい人を優しく床に寝かしつけた。
三姉妹は、決して信玄をお屋形様とは呼ばなかった。今も病と風林火山の山
との掛詞だ。
「わしの夢を知っておるか?」
「京に御旗を立てる事でございましょう」
「もう一つ有った」
「もう一つで御座いますか?」
「わしの跡目は勝頼が継ぐ事は決めてある。が、あの者では心許ないでな、わ
しはそなたに男子を生ませかった」
「それでは、お抱き遊ばせば宜しう御座いましたものを」
「わしは、気に染まぬ者を手籠めにする程女に不自由はしておらぬ」
風は袖で口を隠して笑った。
「それはまた、お行儀が宜しう御座いますな」
「可笑しいか?」
「はい、可笑しう御座います」
信玄も快活に笑った、笑いすぎて咳き込んだ。
信玄の背中をさする風。
咳が収まると、信玄は真顔になった。
「勝頼では、そなた達三姉妹を使いこなせまい。わしが死んだら、意のままに
せよ。重臣たちには言うてある」
「勝頼様に仕えよとは命じないのですか?」
「風よ、山が崩れた甲斐に風と林と火の居場所は無い。・・・そうよな、風を
使いこなせるのは、わしの他には謙信公しかいないかも知れん」
思わず顔を伏せる風。謙信公の名が信玄から出たので顔を赤らめていたから
だ。
「そうだ、もう一人思いついたぞ」
「どなたで御座います?」
「小童、痴れ者、歌舞いた阿呆、魔王、色々な名で呼ばれる信長じゃ」
「残念では御座いますが、信長風情に仕える風では有りませぬ」
「ハ・ハ・ハ、戯れ言じゃ、許せ」
信玄は、風の二の腕を掴み、優しく掌までを撫でていく。
「大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流」
信玄は辞世の句を詠んだ後、風にこう言った。
「此の世は世相に任せるものだ。見せ掛けで生きるな。本音で生きよ」
「はい、お屋形様の仰せの通り、本音で生き抜きます」
「初めてお屋形様と呼んでくれたのう」
「はい」
風の頬を一筋の涙が伝った。
その涙を優しく拭う信玄。
「風よ、勝頼と重臣(おとな)共を呼べ」
「はい、畏まりました」
風が退席して間もなく、勝頼と山形を初めとした重臣達が入ってきた。
「勝頼、信玄の葬儀は出しては成らぬぞ。三年の間は、国を富ませ、兵を鍛え
るて忍ぶのだ、良いか、外征は成らぬぞ、今のお前では甲斐を滅ぼすのが落ち
じゃ。何事も重臣共との合議で決めよ」
そう言うと、信玄は傍らの山形に顔を向けて微笑んだ。
「山形、京の瀬田に風林火山の旗をはためかせたかったのう」
「なんの、我らが勝頼様を街道一の御大将に育てたてまつり、京に御旗を立て
て見せまする」
「夢じゃ、美しい夢じゃ」
風林火山の、動かない山、武田信玄が崩御した。
果たして天下の行方はいかがなるのであろうか?!
2017年2月11日 Gorou
長篠城は交通の要衝にあり、寒狭川と大野川が合流する場所に突き出した断
崖絶壁上の天然の要塞であった。
信玄は野田城を落とした直後から度々喀血した。
このため、信玄は長篠城において療養していたが、近習・一門衆の合議にて
4月初旬に甲斐に撤退することと決まった。
粛々と甲斐に引き返す武田の軍勢に常の覇気が無かった。お山が病に倒れ、
明日をも知れぬ重傷。との噂が掛け巡っていたからだ。
一人の騎馬武者が、遙か彼方で夕焼け目掛けて疾走する信玄(影武者)とお
側衆の幌武者を見付けて、鬨の声を挙げた。
鬨の声が全軍に伝染して行く。
「お山はお元気だぞーッ!」
「髑髏館で出直しなさる!」
「エイエイオー!」
十騎程の騎馬武者が、堪らず信玄の影とともに早駆けた。
その頃、鎧を脱いだ近習衆と医者と風に守られた一台の籠が裏街道を急いで
いた。その籠は三州街道上の信濃国駒場宿に入った。
思えば、「遠州・三河・美濃・尾張へ発向して、存命の間に天下を取つて都
に旗をたて、仏法・王法・神道・諸侍の作法を定め、政をただしく執行はんと
の、信玄の望み是なり」と、上洛軍を興し。
俳諧書犬筑波集で「都より甲斐への国へは程遠し。おいそぎあれや日は武田
殿」という句が記されている。
4月12日、信玄は風を病床に呼んだ。
半身を興しながら信玄が何か言おうとしている。
「お山は動いてはなりませぬ」
風はやまい人を優しく床に寝かしつけた。
三姉妹は、決して信玄をお屋形様とは呼ばなかった。今も病と風林火山の山
との掛詞だ。
「わしの夢を知っておるか?」
「京に御旗を立てる事でございましょう」
「もう一つ有った」
「もう一つで御座いますか?」
「わしの跡目は勝頼が継ぐ事は決めてある。が、あの者では心許ないでな、わ
しはそなたに男子を生ませかった」
「それでは、お抱き遊ばせば宜しう御座いましたものを」
「わしは、気に染まぬ者を手籠めにする程女に不自由はしておらぬ」
風は袖で口を隠して笑った。
「それはまた、お行儀が宜しう御座いますな」
「可笑しいか?」
「はい、可笑しう御座います」
信玄も快活に笑った、笑いすぎて咳き込んだ。
信玄の背中をさする風。
咳が収まると、信玄は真顔になった。
「勝頼では、そなた達三姉妹を使いこなせまい。わしが死んだら、意のままに
せよ。重臣たちには言うてある」
「勝頼様に仕えよとは命じないのですか?」
「風よ、山が崩れた甲斐に風と林と火の居場所は無い。・・・そうよな、風を
使いこなせるのは、わしの他には謙信公しかいないかも知れん」
思わず顔を伏せる風。謙信公の名が信玄から出たので顔を赤らめていたから
だ。
「そうだ、もう一人思いついたぞ」
「どなたで御座います?」
「小童、痴れ者、歌舞いた阿呆、魔王、色々な名で呼ばれる信長じゃ」
「残念では御座いますが、信長風情に仕える風では有りませぬ」
「ハ・ハ・ハ、戯れ言じゃ、許せ」
信玄は、風の二の腕を掴み、優しく掌までを撫でていく。
「大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流」
信玄は辞世の句を詠んだ後、風にこう言った。
「此の世は世相に任せるものだ。見せ掛けで生きるな。本音で生きよ」
「はい、お屋形様の仰せの通り、本音で生き抜きます」
「初めてお屋形様と呼んでくれたのう」
「はい」
風の頬を一筋の涙が伝った。
その涙を優しく拭う信玄。
「風よ、勝頼と重臣(おとな)共を呼べ」
「はい、畏まりました」
風が退席して間もなく、勝頼と山形を初めとした重臣達が入ってきた。
「勝頼、信玄の葬儀は出しては成らぬぞ。三年の間は、国を富ませ、兵を鍛え
るて忍ぶのだ、良いか、外征は成らぬぞ、今のお前では甲斐を滅ぼすのが落ち
じゃ。何事も重臣共との合議で決めよ」
そう言うと、信玄は傍らの山形に顔を向けて微笑んだ。
「山形、京の瀬田に風林火山の旗をはためかせたかったのう」
「なんの、我らが勝頼様を街道一の御大将に育てたてまつり、京に御旗を立て
て見せまする」
「夢じゃ、美しい夢じゃ」
風林火山の、動かない山、武田信玄が崩御した。
果たして天下の行方はいかがなるのであろうか?!
2017年2月11日 Gorou