そのⅣ 薬狩り
神亀6年(729)、8月5日、甲羅に「天王貴平知百年」と文字の書かれた瑞亀が
見つかり、天平と改元された。
天平とは、仏になる修行を華にたとえ、その華で仏の位を飾る華厳の世界を
地上に築く事。それが聖武天皇と光明皇后の悲願で有った。
しかし、百年の平和どころか、激動の時代の幕が上がった。
養老の遣唐留学生、吉備真備と僧玄昉が帰朝した事で一気に幕が切り落とさ
れた。
天平七年(七三五)八月二十六日。帰朝留学生従八位下下道朝臣眞備が、唐
礼百三十巻を始めとした暦から鎧をも貫き通す矢、儀礼用の矢に至るまで、唐
から持ち帰った貴重な文献武具などを献上した。
翌八年には玄昉 に封戸や童子などを与えた。
時の朝廷は人材不足に悩まされていた。期待をかけていた阿倍仲麻呂の帰朝
が玄宗皇帝から許されず、遣唐大使藤原清河(北家)は台風のため遠く南の島
に遭難し、結局この二人は生涯を唐で過ごした。
聖武天皇は真備と玄昉を重用し、合わせて薬師寺の僧侶良弁を華厳の総本山
・東大寺別当に任命した。この時、薬師寺からは、後の怪僧弓削の道鏡もまた
東大寺に移ってきた。権勢を欲しいままにする藤原氏への牽制と対抗策だっ
た。
特に真備は、四書五経に精通していただけで無く、諸葛亮孔明の八陣をも極
めていた、当に文武両道の俊英であった。
「古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先ず其の国を治む」
真備の礼記の読み下しに阿部内親王が復唱した。
「古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先ず其の国を治む」
「其の国を治めんと欲する者は、先ず其の家を斉ととのふ。 其の家を斉えん
と欲する者は、先ず其の身を修む」
内親王は正座をして書見台の礼記を懸命に見詰めている。
正座をしていたのは、真備を師として敬う為だ。
真備の娘由利は内親王の後ろに控えていたが、声に出さずに復唱していた。
「由利、あなたも声に出して復唱するのです」
阿倍の言葉で、真備が厳しい視線を浴びせた。私語を慎むように言い渡して
いたからだ。
由利は父真備の顔色を伺うようにして見詰めた。
真備が娘に微笑んだ。
「其の国を治めんと欲する者は、先ず其の家を斉ととのふ。 其の家を斉えん
と欲する者は、先ず其の身を修む」
今度は、二人声を合わせて復唱した。
「後は? 姫皇子、読んで下さい」
「はい、其の身を修めんと欲する者は、先ず其の心を正す」
「はいは入りませぬ。続きを由利、あなたが読みなさい」
由利は緊張で喉がカラカラになっていた。父真備は彼女が生まれて直ぐ唐に
留学したので、なんとこの時が初対面だった。少し風変わりな父娘の対面であ
ったが、由利は十分に満足していた。
まさか父の講義を受けられようとは夢にも思わなかったからだ。
「其の心を正さんと欲する者は、先ず其の意を誠にす」
聖武天皇は真備にやがて皇太子になる、阿部内親王の教育を任せ、この国の
将来をも託した。
真備にとってはやや不本意で有った。二十年にも及ぶ唐の留学で、儒教と軍
略を極めたが、古代の中国政治家の多くが、昼は儒家や法家、夜は老荘の人だ
ったように、彼も又老荘の徒で有った。
真備は帰朝が適ったならば、故郷の吉備に隠棲する積もりだったが。この国
の危機を知り、強く請われて内親王の教師となり、大学寮の講師をも務めてい
た。さらに、近衛兵と言える中衛府の軍師でも有った。
「真備先生にお願いが御座います」
講義を終えた時、阿部内親王が真備に頭を下げている。
「何をしているのです。貴女様は内親王で御座います。臣下に頭など下げては
いけませぬ」
「この場には、わたくしと真備先生と由利しかおりませぬ故、師として尊敬の
心をあらわしての事です」
苦笑する真備、一体何を考えているのか計り知れないと思った。
「して、何でしょうか?」
「わたくしに文だけで無く武の教授もお願いしたいのです」
「姫皇子(ひめみこ)は、やがて皇太子となり、天皇となられお方。しかも女
性であらせられる。武など必要に成りはしませぬ」
「いいえ、だからこそ一通りの武道、馬術、剣術、弓の道を身に付ける必要が
有ると、わたくしはおもいます」
真備はまたも苦笑為ざるを得なかった。
「内親王(ひめみこ)、それは屁理屈というもの」
「真備」
阿部は今度は真備と呼び捨てにした。
「教えなさい。理屈抜きにわたくしは武術が好きなのです」
真備は少し驚いた、正直な上に人間関係の機微を心得ている。
真備は、この時から阿部内親王を好ましく思った。行く末立派な皇太子に、
そして民の上に立つ、澄んだ心でお仕え出来る天皇(すめらみこと)にお育て
したいとも思った。
教えてみると、意外に筋が良かった。特に馬術と弓は急速に進歩を遂げた。
天平八年(736)、生駒郡司から訴えが有った。生駒山中の鹿が増えすぎ、
木の若芽や、若木の皮を食い散らし、放っておけば禿げ山になりかねないと。
政庁は急遽薬狩りをすることに決定した。
鹿は神聖な生き物として保護されていて、衆生(民衆)が殺して食べたりし
たら厳重に処罰された。悪くすると死罪になったりしたのだ。
鹿の数を調整する事を薬狩りと呼んだ。
鹿の肉は滋養に富み、爪の先からは毛、皮に至るまで役に立つので薬狩りと
言われたのだ。
また、鹿狩りは公家の特権で庶民には縁が無かった。
この宮中行事には官女達も参加して紫草などの薬草を摘んだそうだ。
東(ひむがし)の野に 炎(かざろい)の立つ見えて かえり見すれば
月傾きぬ 柿ノ本人麻呂
平成29年3月15日(水) Gorou
神亀6年(729)、8月5日、甲羅に「天王貴平知百年」と文字の書かれた瑞亀が
見つかり、天平と改元された。
天平とは、仏になる修行を華にたとえ、その華で仏の位を飾る華厳の世界を
地上に築く事。それが聖武天皇と光明皇后の悲願で有った。
しかし、百年の平和どころか、激動の時代の幕が上がった。
養老の遣唐留学生、吉備真備と僧玄昉が帰朝した事で一気に幕が切り落とさ
れた。
天平七年(七三五)八月二十六日。帰朝留学生従八位下下道朝臣眞備が、唐
礼百三十巻を始めとした暦から鎧をも貫き通す矢、儀礼用の矢に至るまで、唐
から持ち帰った貴重な文献武具などを献上した。
翌八年には玄昉 に封戸や童子などを与えた。
時の朝廷は人材不足に悩まされていた。期待をかけていた阿倍仲麻呂の帰朝
が玄宗皇帝から許されず、遣唐大使藤原清河(北家)は台風のため遠く南の島
に遭難し、結局この二人は生涯を唐で過ごした。
聖武天皇は真備と玄昉を重用し、合わせて薬師寺の僧侶良弁を華厳の総本山
・東大寺別当に任命した。この時、薬師寺からは、後の怪僧弓削の道鏡もまた
東大寺に移ってきた。権勢を欲しいままにする藤原氏への牽制と対抗策だっ
た。
特に真備は、四書五経に精通していただけで無く、諸葛亮孔明の八陣をも極
めていた、当に文武両道の俊英であった。
「古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先ず其の国を治む」
真備の礼記の読み下しに阿部内親王が復唱した。
「古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先ず其の国を治む」
「其の国を治めんと欲する者は、先ず其の家を斉ととのふ。 其の家を斉えん
と欲する者は、先ず其の身を修む」
内親王は正座をして書見台の礼記を懸命に見詰めている。
正座をしていたのは、真備を師として敬う為だ。
真備の娘由利は内親王の後ろに控えていたが、声に出さずに復唱していた。
「由利、あなたも声に出して復唱するのです」
阿倍の言葉で、真備が厳しい視線を浴びせた。私語を慎むように言い渡して
いたからだ。
由利は父真備の顔色を伺うようにして見詰めた。
真備が娘に微笑んだ。
「其の国を治めんと欲する者は、先ず其の家を斉ととのふ。 其の家を斉えん
と欲する者は、先ず其の身を修む」
今度は、二人声を合わせて復唱した。
「後は? 姫皇子、読んで下さい」
「はい、其の身を修めんと欲する者は、先ず其の心を正す」
「はいは入りませぬ。続きを由利、あなたが読みなさい」
由利は緊張で喉がカラカラになっていた。父真備は彼女が生まれて直ぐ唐に
留学したので、なんとこの時が初対面だった。少し風変わりな父娘の対面であ
ったが、由利は十分に満足していた。
まさか父の講義を受けられようとは夢にも思わなかったからだ。
「其の心を正さんと欲する者は、先ず其の意を誠にす」
聖武天皇は真備にやがて皇太子になる、阿部内親王の教育を任せ、この国の
将来をも託した。
真備にとってはやや不本意で有った。二十年にも及ぶ唐の留学で、儒教と軍
略を極めたが、古代の中国政治家の多くが、昼は儒家や法家、夜は老荘の人だ
ったように、彼も又老荘の徒で有った。
真備は帰朝が適ったならば、故郷の吉備に隠棲する積もりだったが。この国
の危機を知り、強く請われて内親王の教師となり、大学寮の講師をも務めてい
た。さらに、近衛兵と言える中衛府の軍師でも有った。
「真備先生にお願いが御座います」
講義を終えた時、阿部内親王が真備に頭を下げている。
「何をしているのです。貴女様は内親王で御座います。臣下に頭など下げては
いけませぬ」
「この場には、わたくしと真備先生と由利しかおりませぬ故、師として尊敬の
心をあらわしての事です」
苦笑する真備、一体何を考えているのか計り知れないと思った。
「して、何でしょうか?」
「わたくしに文だけで無く武の教授もお願いしたいのです」
「姫皇子(ひめみこ)は、やがて皇太子となり、天皇となられお方。しかも女
性であらせられる。武など必要に成りはしませぬ」
「いいえ、だからこそ一通りの武道、馬術、剣術、弓の道を身に付ける必要が
有ると、わたくしはおもいます」
真備はまたも苦笑為ざるを得なかった。
「内親王(ひめみこ)、それは屁理屈というもの」
「真備」
阿部は今度は真備と呼び捨てにした。
「教えなさい。理屈抜きにわたくしは武術が好きなのです」
真備は少し驚いた、正直な上に人間関係の機微を心得ている。
真備は、この時から阿部内親王を好ましく思った。行く末立派な皇太子に、
そして民の上に立つ、澄んだ心でお仕え出来る天皇(すめらみこと)にお育て
したいとも思った。
教えてみると、意外に筋が良かった。特に馬術と弓は急速に進歩を遂げた。
天平八年(736)、生駒郡司から訴えが有った。生駒山中の鹿が増えすぎ、
木の若芽や、若木の皮を食い散らし、放っておけば禿げ山になりかねないと。
政庁は急遽薬狩りをすることに決定した。
鹿は神聖な生き物として保護されていて、衆生(民衆)が殺して食べたりし
たら厳重に処罰された。悪くすると死罪になったりしたのだ。
鹿の数を調整する事を薬狩りと呼んだ。
鹿の肉は滋養に富み、爪の先からは毛、皮に至るまで役に立つので薬狩りと
言われたのだ。
また、鹿狩りは公家の特権で庶民には縁が無かった。
この宮中行事には官女達も参加して紫草などの薬草を摘んだそうだ。
東(ひむがし)の野に 炎(かざろい)の立つ見えて かえり見すれば
月傾きぬ 柿ノ本人麻呂
平成29年3月15日(水) Gorou