アメージング アマデウス

天才少年ウルフィは成長するにつれ、加速度的に能力を開発させて行きました。死後もなお驚異の進化は続いています。

華厳二稿 Ⅴ 紫野

2017-03-18 22:29:43 | 物語
そのⅤ 紫野

 天平八年(736)八月、薬狩りが生駒山中で慣行された。
 阿部親王は小子(皇族)軍と中衛府軍を率いて意気揚々と狩りに挑んだ。
 この一隊には真備の娘由利、梓中将の娘愛菜を始め、十人程の采女と女孺が
加わっていた。薬草を採取するためだ。

 藤原氏は、仲麻呂の指揮する南家と京家の一隊と、弘嗣が指揮する式家と北
家の一隊が参加した。この二隊は、おなじ藤原氏ながら頗る仲が悪かった。狩
りと戦の区別がついていなかった。

「兄じゃ、宮城を出れば、我ら藤原氏の天下じゃ」
 併走する南家の二人、仲麻呂と豊成。
「仲麻呂、あまり無茶をするな」
「なんの、皇族軍と弘嗣隊に一泡吹かせずにおく物か」
 五十騎程の狩衣の武者が二人の後を追っている。
 勢子も猟犬も追い付くのに躍起に成っている。

 弘嗣の率いる式家と北家の目的は単純明快で有った。
 沢山の獲物を狩り、阿部内親王隊に合流して、それを捧げる積もりだった。

 阿部は狩衣ではなく胴巻き等の武具を纏っていた。真備が万一に備えて、憤
る内親王を宥めて付けさせたのだ。
 いやいや付けてみた物の、阿部は気に入ってしまった。念願の戦に出陣した
が如くの気持ちに成って、いやが上にも身体も心も異様に昂揚していた。
「ソレッ!」とばかりに、一鞭、そしてもう一鞭くれて速駆けるが、真備と高
梓と中衛府の隊正(五十人隊長)、礫の五郎の異名を持つ勇者・佐伯五郎の三人
は余裕を持って併走していた。が、三騎は決して阿倍の前には出ない。
 阿部は扇形に矢を並べた平胡(ひらやな)ぐいから矢柄を取り出し、手綱を離
し、矢を口に咥えて弓の弦を鳴らした。
「梓殿、わたくしの梓弓聞こえましたか?」
「確かに、厳かなる音に御座います。将兵は皆勇みに勇みましょうぞ」
 梓弓とは儀式などで使う飾弓の事だ。
 だが、高梓の弓は飾りでは無かった。
 梓は無造作に弓に矢を番えて、虚空に放った。
 日の本一の梓の放った矢は、上空に飛翔していた山鳥を射貫いていた。
「見事じゃ、流石に梓、見たぞ、鮮やかな手並み」
 阿部も将兵も、皆箙を叩いて梓の弓に賞賛を送った。

 阿倍の一隊は、草原に乗り入れた所で馬を止めた。
 前方に原始の森が聳えていた。
 その彼方から、勢子達の鳴り物と猟犬のけたたましい声が響いて来た。獲物
を阿部へと追い立てているのだ。
 眞備と梓が鋭い目で前方に眼を凝らした。
 森から一頭の巨大な猪が姿を現した。
 生駒の主なのか、続々と猪達が続いて森から出て来た。
 森の中から、鹿の角が見え隠れしている、鹿の群れは猪に護られていたの
だ。
 更に狼の群れも姿を現した。今は生駒の住人達は争いを止め、心を一つにし
て狩人達に立ち向かっているのだ。

「内親王、慌てては成りませぬ」
 眞備が阿部に心得を諭した。
「まずは敵の大将を射止めるのです」
「心得た!」
 阿部は矢柄を弓に番えて猪の大将に的を絞って、キリリと引き絞った。
 一斉に弓矢を構える狩衣の将兵達。
 佐伯五郎だけが弓を構えずに礫を握りしめた。

 その時、草原の左手から弘嗣隊が、右手から仲麻呂隊が雪崩れ込んできた。
 狼の群れは二手に分かれて、それぞれに弘嗣隊と仲麻呂隊に立ち向かい、襲
いかかろうとしていた。
 更に、様子を伺っていた鹿達も狼の後を慕った。
「兄じゃ、見たか! 面白くなって来たぞ」と、仲麻呂は豊成に叫ぶが如くに
して、雄叫びを上げた。
 実は、この森の勇者達を阿倍のいる草原に追い立てて来たのは、他ならぬ仲
麻呂隊であった。

 由利と愛菜達の周りを護衛の衛士が固めた。
 幼い愛菜は恐怖に戦いて由利に縋り付いた。
「愛菜、案ずるでない。獣共はここまで辿り付けませぬ」
 由利は脅える愛菜を優しく抱きしめた。

 阿部は引き絞った鏑矢を大将猪に放った。
 ヒュルヒュルと音を立て、弧を描いて大将に向かって行く阿倍の矢は、将兵
達を鼓舞した。
 一斉に、大将に続く猪達に矢を放つ狩人達。
 梓が弓で、五郎が礫を構えて大将猪に的を絞っていた。阿部がし損じた時の
備えだ。
 バタバタと倒れる猪達。だが、大将に放たれた阿倍の鏑矢は尻を掠めて草原
に落ちた。
 慌てて二の矢を番えようと、征矢を手に取る阿部。
 その阿部を眞備が諫めた。
「姫! 慌てては成りませぬ。矢よりは手綱を確りと持ち為され」
「承知した。後は任したぞ、眞備」
 騎馬を飛び降りた眞備は剣を抜いて、阿倍の前に立ちはだかった。
 憤怒の形相で阿部に突進してくる大将猪。
 疾風のように弘嗣が駆け寄り、彼の背中に飛び乗って剣を抜いて翳した。
 梓の矢と、五郎の礫が猪目指して飛んでいった。
 猪の心臓を刺し貫く弘嗣の剣。
 ほぼ同時に、梓の矢と五郎の礫が眉間を襲った。
 ドドッとばかりに地響きを立てて倒れる大将猪、尚も阿部を目指していた
が、立ちはだかっていた眞備の前で動きを止めた。
 流石の森の勇者も、剣と矢と礫の前に、哀れ草むす屍と成り果てた。
 倒れた猪の背から立ち上がった弘嗣が、阿部に剣を翳して叫んだ。
「我らは、内親王の前を阻むものは、何者で有っても必ずや打ち倒して見せます
る」
 阿部も又、剣を翳して弘嗣に応えた。
 仲麻呂と豊成も弘嗣の前に並んで剣を翳した。
「我ら藤原の者どもは皆、内親王をお護りして行きまする」
 声を揃えて強張る二人。
 三人は腰を屈めて阿部に御礼を捧げた。
 仲麻呂が、チラッと阿部を盗み見た。
 この時、仲麻呂の脳裏では、こんな事が掠めていた。「基皇太子(阿倍の弟)
が薨去しなければ、この娘は我妹となっていた筈」
 仲麻呂は暗寧で執念深かった。

 三人に馬を寄せる阿部。
「助成忝く承った。今後は、わたくしでは無く、天皇と朝廷に忠勤を励むが良
い」と、馬上から声を掛けた。

 申の刻、夕七つ(午後三時)を回った時、一行は、臣籍に下った橘諸兄(葛城王)と白壁王が馳走し
て来た、昼食に舌鼓を打っていた。
 阿倍の周りには、獲物の獣と籠に盛られた紫草などの薬草が堆く摘まれてい
た。
 この頃昼食の習慣は無かったが、戦と狩りの時は別だった。
 菓子を頬張る阿部を弘嗣が見詰め、笑いかけていた。
 仲麻呂は睨むが如くに見据えていた。
 大きく溜息を付く阿部。恋の板挟みで自殺した桜児を想い、額田王の歌を詠んでいた。
「あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る」
 読み上げた後、愛菜を見詰めた。
 愛菜は思わず唾を飲み込んだ。内親王の望んでいる詩が浮かんで来ないの
だ。無理も無い、幼い女孺が桜児と額田王をかけた心情など知るよしも無かった。
 見かねた由利が、愛菜の耳元でそっと囁いた。
「はるさらば」
 やっと愛菜の脳裏にその詩が蘇った。
「春さらば かざしにせむと 我が思ひし 桜の花は 散りにけるかも」
 続いて由利が、もう一人の桜児を偲んだ若者の詩を抑揚をかけ、歌うが如く
詠み上げた。
「妹が名に 懸けたる桜花 咲かば常にや 恋ひむいや年のはに」
 こうして、桜児の恋の果ての如く、阿倍の恋も又、散りゆく花と成り果て
た。
   2017年3月5日 Gorou

三界の夢 そのⅩⅦ 敦盛

2017-03-18 14:24:33 | 物語
そのⅩⅦ 敦盛

 夜の帳が降りた頃、芳一の琵琶と平家語りが始まった。祇園精舎の鐘の聲

 琵琶の音を合図に、本能寺は無数の篝火に照らされて夜の闇の中に浮かび上
がった。

♪ 沙羅雙樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす

 笙の調べが、まるで天から降ってきたように境内と舞台と、鑑賞する人々に注
いだ。
 舞台中央の芳一の後ろに、笙を吹く尼御前が姿を現した。
 篳篥の音が地上に降り立ち、平家の公達が現れ、竜笛が天地の境を流離うよ
うに漂っている。
 若武者平敦盛が吹く青葉の音色に促された芳一の琵琶が激情のままに、荒々
しくかき鳴らされた。

♪ 驕れる人も久しからず 唯春の夜の夢の如し

 舞台下手に二人の白拍子が現れ、扇子を開いて、ヒラヒラヒラと、盛りの花
弁を散らせるかの如く、揺らめかせた。
 上手の白拍子も又、扇子をヒラヒラとさせながら芳一の側に寄って傅いた。
 下手の二人もそれに習って傅き、三人声を合わせて芳一の謡を唱和した。
♪ 驕れる人も久しからず、唯春の夜の夢の如し

 芳一は迸る激情のままに琵琶を掻き鳴らし、後方にズラリと並んだ、徳子を
始めとした平家の公達達はが管弦を協奏して琵琶の音色を包み込んだ。

 芳一が見えぬ夜空、宇宙を見上げ、琵琶の音を止めた。
 協奏していた管弦隊もまた、音を止め、境内には静寂だけが漂った。
 三人の白拍子、祇王と祇女と仏が静かに立ち上がり、白鞘から剣を抜き、三
方に散った。
「猛き者もつひには滅びぬ」
 今度は芳一、琵琶を弾かずに、能が如くに吟じた。

 舞台前面の三方向に佇んだ三人の白拍子が剣舞を始めた。
 祇王と祇女が床をトトンと踏み鳴らすと、仏がトンと応えた。
 
 芳一の琵琶と協奏する管弦が静かに哀調の調べを奏で始めた。
 さらに、芳一の琵琶が悲しくも静かに境内を漂った。
 ♪ 偏に風の前の塵に同じ
 
 白拍子達は、風に舞い散る花の如くにクルクルと舞いながら舞台に蹲った。

 近習を従えた信長は眼を皿のようにして見惚れていた。
 実は信長、平家語りを聞いたことが無かった。
 敦盛の段だけが好きで、自らも舞い謡ったのだ。
 信長が小姓の一人に耳を寄せ、口を扇子で隠して囁いた。
「敦盛はいかがしたのじゃ」
「上様、しばしの辛抱を。この後壇ノ浦へと続き、敦盛の段になる手はず」
「であるか」
 信長は満足そうに、二度三度と頷いた。

♪ 思へば、此世は常の住処にあらず
 芳一の平家語りが続いている。
♪(仏)草葉に置く白露
♪(祇王と祇女)水に宿る月より猶あやし

 信長が身を乗り出し、声を立てずに嬌声を上げた。

♪(芳一)金谷に花を詠じ
♪(祇王と祇女)栄花は先立て
♪(仏)無常の風に誘はるゝ
 たたみ掛けるように芳一が謡った。
♪ 南楼の月をもてあそぶ輩も
 芳一、仏、祇王、祇女が声を揃えて謡った。
♪ 月に先立つて、有為の雲に隠れり
 
 信長が膝を立てて扇子を開いた。

♪(芳一)人間五十年

 信長は堪らずに立ち上がって舞い、唱和し始めた。

♪ 化天の内を比ぶれば

 信長も信長の家臣も、芳一も、白拍子も平氏の公達も声を合わせて唱和して
いる。

♪ 夢幻のごとくなり

 信長がトトンと床を二度踏みならした。
 舞台の三人の白拍子がそれぞれ信長に応えた。

 ドンと大きく踏みならす仏。
 トンと祇王、トトンと祇女。

♪ 一度生を受け 滅せぬ物のあるべきか


 明智軍は、久御山(くみやま)の木津川畔で夜食を取っていた。、
 休憩していた分けで無く、黒鍬部隊が木津川に浮き橋を築くのを待っていた
のだ。
「まだか。早くしろ。夜が明けるぞ」
 火が急かした。
「大将、こんな川騎馬なら渡れましょう」
「うむ。渡るか」

 その頃、明智軍は隊毎に集められていた。
「者ども良く聞け。敵は本能寺に有り」
 利三が大音声で呼ばわった。
「我が殿が、仏敵、平氏の信長を討って、土岐源氏の光秀様が征夷大将軍に成
るのだ。この戦を命の限りに励め、子々孫々にまで語り継がせよ」
 と、眼光鋭く一同を見回す。
「怖じけるな、臆病風を吹かした輩はこの利三の槍の錆にしてくれん。よい
か、此より鬨の声を上げる。ウオーッ!」
 将兵は皆利三に応えて雄叫びを上げた。
 鬨の声は明智全軍に伝番していった。

 木津川堤の火が騎馬に一鞭呉れた。
「我に続け!」
 ザンブと木津川に馬を乗り入れる火、三百騎も我先にと続いた。

 赤揃いの騎馬隊が川の中頃に差し掛かった頃、浮き橋が完成した。
 勇んだ明智軍将兵が橋に殺到した。
 火と武田残党が岸に勢揃いした時、また殿軍に成っていた。
「おのれ、者ども遅れを取るな」
 気を取り直した火が、馬に激しく鞭を飛ばした。

 丑三つ時、芳一の寝所に林が忍んで来た。
 芳一に躙りよる林が思わず膝を止めた。芳一が見ていたからだ。
 芳一は眠れずにいたため、林の気配を悟っていた。
「法師様、ここは直に戦場に成りまする、巻き込まれぬ内にお逃がし致しま
す」
 
 林は芳一を抱えるようにして本能寺の外に連れ出し、待たせてあった籠に乗
せ、丹波屋に送り届けた。
 芳一をヨシとヨシコに託した林は、本能寺にとって返した。

「法師様、よくぞご無事で」
 居間で親子の対面が果たされていた。
「お兄様、優しいお兄様、わたくしに眼を下さったお兄様」
「それでは矢張り」
「妹のヨシコで御座います。これからはお兄様の眼となって、ご恩に報いて生
きて参ります」
 妹の言葉で全てを悟る芳一、見えぬ眼乍ら、両の腕で母と妹をしっかりと抱
きしめた。


 本能寺は蟻の出る隙間も無い程、明智の軍勢で取り囲まれていた。
 だが、物音を立てる者は一人としていなかった。
 本能寺は三姉妹によって丸裸に為れており、雑兵の一人一人に至るまで頭に
たたき込まれていた。
 皆、光秀の采配が振られるのを固唾を飲んで待っていた。
「ソレッ」
 光秀が遂に采配を振った。
 一斉に鬨の声を上げて、塀に梯子を掛け、よじ登った将兵が境内に雪崩れ込
んだ。

 時ならぬ鬨の声に、織田の侍は跳ね起き、雨戸を蹴破って面に走り出た。
 なんと、水色桔梗の光秀の旗印で取り囲まれているではないか。
 鉄砲隊の一斉射撃にバタバタと倒れる織田侍。
 一人が信長に報告する為に寝所に走った。

 唯ならぬ気配に、信長は寝具の上に跳ね起きた。
 十人程の近習達が駆け寄ってきた。
「上様、謀反に御座います」
「であるか、して・・・?」
 おっとり刀で駆けつけた侍が叫んだ。
「水色に桔梗の紋」
「であるか。是非も無い」
 信長は単衣の上から永楽銭の柄矢筒を襷に掛け、弓を抱えて寝所を駆け出
た。
 廊下で蒼が控えていた。
「蒼、何をしておる。早く逃げよ、光秀奴が謀反を起こした。明智の兵ならば
女子供に害は及ばさぬ。いいか、達者で暮らせ、生き抜くのじゃぞ」
「承知仕りました」
 左の衽(おくみ)を上に出して単衣を羽織っていた風は、不思議な事が有ると
思っていた。謙信公と同じ言葉を信長が残したからだ。
 蒼は右の掌で懐の小判が縫い付けられた守袋を確りと掴んで、左手で腹を押
さえた。
 蒼は立ち上がり様に単衣を一気に引き裂いた。
 蒼揃いの忍び衣装の風が現れた。
 風は長い髪を結い上げ、額に蒼い鉢金の鉢巻きをキリリと締めた。
 萌葱の林が駆け込んで、風の左に並んだ。
 騎馬の火が襖を蹴破って登場した。
 騎馬から飛び降りた火が、くるりと回転をして、これまた林の左にすっくと
立ち並んだ。
 蒼の風、萌葱の林、真紅の火が勢揃いした。

 信長と近習達は獅子奮迅の活躍をしていた。
 信長の矢は確実に明智の将兵を貫いていたが、多勢に無勢、次第に近習達が
倒されていった。
「上様、最早これまでで御座います」
「であるか」
 信長と四人の近習が寝所に駆け戻った。自害をする為だ。

 寝所に駆け込むと、光秀と光晴が次の間に控えていた。
「日向、でかした。じゃが後が大変じゃぞ」
「お後の事はこの光秀にお任せあれ」
 光秀と光晴は片膝をついて死に行く信長に礼を捧げた。
 矢筒と弓をかなぐり捨てた信長が太刀を手に取った。
「裏切り者」
 四人の近習が一斉に光秀に斬りかかった。が、忽ちの内に光秀と光晴の刀の
錆と成り果てた。
 見届けた信長が太刀を抜いて鞘を捨て、柄を逆手に持った。
 天井から真紅の蝙蝠が飛び降り、信長の足を抱え込んだ。
 堪えきれずにつんのめる信長に、火が罵声を浴びせた。
「自害などさせぬぞ、魔王奴」
 又一羽の萌葱蝙蝠が飛び降り、信長の隙を見付けて手槍で突っ込んだ。
 槍を腹に突き立てられた信長、今度は仰向けに倒れて行った。
 背後に舞い降りた林が、背後から信長の身体を支え、耳元で囁いた。
「上様、蒼に御座います。恐れながら、あなた様のお命は、この風が頂戴致し
ます」
 風は逆手に持った忍刀で信長の喉を掻き切った。
 その時、轟音と共に寝所の天井が落ちてきて、信長もろとも三姉妹を排煙の
中に掻き消した。
 思わず駆け寄ろうとする光晴を光秀が止めた。
「光晴、無用じゃ」
「信長の御首級を掻き出しまする」
「首などどうでも良い」
 光秀の言葉で、光晴は渋々後に続いた。
 光晴とて信長の首など欲しく無かった。が、本音は火が心配だったのだ。
 
 硝煙の本能寺の夜が明けた。
 朝焼けに燃え、粗方燃え尽くされた本能寺で本堂だけが無事な姿を見せてい
た。
 その本堂の屋根に、三本の旗印がはためいていた。
 永楽銭の旗を確りと持って佇む風。
 毘の一文字を染め抜いた旗を掲げる林。
 火は、風林火山の旗を翳していた。
「風よ、我らは向後如何にせむや」
 林と火が風に問うた。
「林よ、あなたは法師殿を支えて生きて行くが良い。火よ、お前は光晴殿をお
守りするが良い」
「姉上は如何いたす所存?」
 林と火がまた姉に問うた。
「わたくしは、甲斐の山奥に隠れ住む積もりです」
 林が謙信の旗印を、火が信玄の旗印を風に渡して屋根から消えた。
 三本の旗を抱えて確りと佇む風、零れそうになる涙を堪える為か、大空を仰
いだ。
 そこには、何処までも紺碧の青空が広がっていた。
三界の夢・完   作・Gorou

華厳二稿 そのⅣ 薬狩り

2017-03-18 13:55:48 | 物語
そのⅣ 薬狩り

 神亀6年(729)、8月5日、甲羅に「天王貴平知百年」と文字の書かれた瑞亀が
見つかり、天平と改元された。
 天平とは、仏になる修行を華にたとえ、その華で仏の位を飾る華厳の世界を
地上に築く事。それが聖武天皇と光明皇后の悲願で有った。
 しかし、百年の平和どころか、激動の時代の幕が上がった。

 養老の遣唐留学生、吉備真備と僧玄昉が帰朝した事で一気に幕が切り落とさ
れた。

 天平七年(七三五)八月二十六日。帰朝留学生従八位下下道朝臣眞備が、唐
礼百三十巻を始めとした暦から鎧をも貫き通す矢、儀礼用の矢に至るまで、唐
から持ち帰った貴重な文献武具などを献上した。
 翌八年には玄昉 に封戸や童子などを与えた。
 
 時の朝廷は人材不足に悩まされていた。期待をかけていた阿倍仲麻呂の帰朝
が玄宗皇帝から許されず、遣唐大使藤原清河(北家)は台風のため遠く南の島
に遭難し、結局この二人は生涯を唐で過ごした。

 聖武天皇は真備と玄昉を重用し、合わせて薬師寺の僧侶良弁を華厳の総本山
・東大寺別当に任命した。この時、薬師寺からは、後の怪僧弓削の道鏡もまた
東大寺に移ってきた。権勢を欲しいままにする藤原氏への牽制と対抗策だっ
た。
 特に真備は、四書五経に精通していただけで無く、諸葛亮孔明の八陣をも極
めていた、当に文武両道の俊英であった。

 野山に出て衆生に仏の道を教えていたお尋ね者の行基は薬師寺の僧侶で有
る。薬師寺の義淵僧正と共に玄奘(三蔵法師)の直弟子道昭に教えを請うた兄弟
弟子であったが、義援は薬師寺と法相宗を継ぎ、行基は土木技術と窮民救済を
継いだ。
 光明子と藤原氏の氏寺興福寺、実は法相宗の総本山であった。
 筆者はこれらの因果関係に何かが潜んでいる可能性が高いと思っている。
 以下余談。奈良の薬師寺に取材した時、当時の管主が、筆者が行基の話を向
けた途端に、好意的だった態度が硬化し、「行基大僧正は薬師寺の僧侶では有
りません」と、言い切りました。
 歴史とは難解な物です、史実と事実と真実が万華鏡の様に広がって、とても
筆者如きには見通せる物では有りません。

「古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先ず其の国を治む」
 真備の礼記の読み下しに阿部内親王が復唱した。
「古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先ず其の国を治む」
「其の国を治めんと欲する者は、先ず其の家を斉ととのふ。 其の家を斉えん
と欲する者は、先ず其の身を修む」
 内親王は正座をして書見台の礼記を懸命に見詰めている。
 正座をしていたのは、真備を師として敬う為だ。
 真備の娘由利は内親王の後ろに控えていたが、声に出さずに復唱していた。
「由利、あなたも声に出して復唱するのです」
 阿倍の言葉で、真備が厳しい視線を浴びせた。私語を慎むように言い渡して
いたからだ。
 由利は父真備の顔色を伺うようにして見詰めた。
 真備が娘に微笑んだ。
「其の国を治めんと欲する者は、先ず其の家を斉ととのふ。 其の家を斉えん
と欲する者は、先ず其の身を修む」
 今度は、二人声を合わせて復唱した。
「後は? 姫皇子、読んで下さい」
「はい、其の身を修めんと欲する者は、先ず其の心を正す」
「はいは入りませぬ。続きを由利、あなたが読みなさい」
 由利は緊張で喉がカラカラになっていた。父真備は彼女が生まれて直ぐ唐に
留学したので、なんとこの時が初対面だった。少し風変わりな父娘の対面であ
ったが、由利は十分に満足していた。
 まさか父の講義を受けられようとは夢にも思わなかったからだ。
「其の心を正さんと欲する者は、先ず其の意を誠にす」
 
 聖武天皇は真備にやがて皇太子になる、阿部内親王の教育を任せ、この国の
将来をも託した。
 真備にとってはやや不本意で有った。二十年にも及ぶ唐の留学で、儒教と軍
略を極めたが、古代の中国政治家の多くが、昼は儒家や法家、夜は老荘の人だ
ったように、彼も又老荘の徒で有った。
 真備は帰朝が適ったならば、故郷の吉備に隠棲する積もりだったが。この国
の危機を知り、強く請われて内親王の教師となり、大学寮の講師をも務めてい
た。さらに、近衛兵と言える中衛府の軍師でも有った。

「真備先生にお願いが御座います」
 講義を終えた時、阿部内親王が真備に頭を下げている。
「何をしているのです。貴女様は内親王で御座います。臣下に頭など下げては
いけませぬ」
「この場には、わたくしと真備先生と由利しかおりませぬ故、師として尊敬の
心をあらわしての事です」
 苦笑する真備、一体何を考えているのか計り知れないと思った。
「して、何でしょうか?」
「わたくしに文だけで無く武の教授もお願いしたいのです」
「姫皇子(ひめみこ)は、やがて皇太子となり、天皇となられお方。しかも女
性であらせられる。武など必要に成りはしませぬ」
「いいえ、だからこそ一通りの武道、馬術、剣術、弓の道を身に付ける必要が
有ると、わたくしはおもいます」
 真備はまたも苦笑為ざるを得なかった。
「内親王(ひめみこ)、それは屁理屈というもの」
「真備」
 阿部は今度は真備と呼び捨てにした。
「教えなさい。理屈抜きにわたくしは武術が好きなのです」
 真備は少し驚いた、正直な上に人間関係の機微を心得ている。
 真備は、この時から阿部内親王を好ましく思った。行く末立派な皇太子に、
そして民の上に立つ、澄んだ心でお仕え出来る天皇(すめらみこと)にお育て
したいとも思った。

 教えてみると、意外に筋が良かった。特に馬術と弓は急速に進歩を遂げた。

 天平八年(736)、生駒郡司から訴えが有った。生駒山中の鹿が増えすぎ、
木の若芽や、若木の皮を食い散らし、放っておけば禿げ山になりかねないと。

 政庁は急遽薬狩りをすることに決定した。
 鹿は神聖な生き物として保護されていて、衆生(民衆)が殺して食べたりし
たら厳重に処罰された。悪くすると死罪になったりしたのだ。
 鹿の数を調整する事を薬狩りと呼んだ。
 鹿の肉は滋養に富み、爪の先からは毛、皮に至るまで役に立つので薬狩りと
言われたのだ。
 また、鹿狩りは公家の特権で庶民には縁が無かった。
 この宮中行事には官女達も参加して紫草などの薬草を摘んだそうだ。

 東(ひむがし)の野に かざろひの立つ見えて かえり見すれば
 月傾きぬ    柿ノ本人麻呂

Gorou