八 野良犬たちのクリスマスイブ
九月になるとローカルから中山に競馬が帰ってきた。その初日、そして二日目と、珍しく大敗を喫し、競馬場で私はスッカラカンに成った。下総中山までのオケラ街道をとぼとぼと歩く私、ポケットには百円玉と十円玉が数枚ずつしか入っていなかった。あんまり惨めなので、見栄を張って最後の贅沢をしてみた。屋台の烏賊焼きを買って食べながら歩いた。
残っているのは十円玉が数枚だけだ、電車賃も無いのだが、意外にも晴れ晴れとした気持ちになれたから不思議だ。
電話ボックスを見つけて片端から電話を掛けたが、誰も捕まらない。
もはや歩いて帰るしか方法がない。まあ明日の朝くらいには帰り着けるに違いない、仕方が無いから歩こうと思いながら、一縷の望みをかけてポケットをまさぐると、外れ馬券に紛れてあの紙ナプキンが出てきた。
幸いにも笑美子は部屋にいた。
「デートしよう」
「いまから?」
「総武線の下総中山って駅分かるかい?」
「ええ、分かるけど、・・・何時?」
「もう来ている。だから何時でもOK、出来るだけ早い方が有り難いけどね。退屈でしょうがない」
笑美子は意外と感のいい娘で、それだけで全てを理解したようだ。
一時間程で笑美子が来た。
「やあ、元気そうだね」
「電話、有り難う」
何だか恥ずかしくもあり、無性に照れくさかった。
小銭を借りて一人で帰るつもりだったが、笑美子は逃がして呉れなかった。自分のアパートの在る荻窪までの切符を二枚買い、その切符を私に渡さずに改札を入るのだ。仕方がないから後に従った。
電車の中で、笑美子は喋り続けた。新しいOL生活の事、最近見た映画の事、テレビの事、自分の部屋の事。ピタリと身体を寄せて、耳元で喋り、一人で喜んで笑う、笑って私に抱きつくようにして絡みつくのだ。
顔から火が出るほど恥ずかしかったのを覚えている。初老の紳士が舌打ちをして私たちから離れていったし、チラチラと盗み見る老夫婦もいた。
駅に着くと、
「ラーメンでも食べる?」
と、笑美子。
「ラーメンより笑美子の手料理の方が良い」
正直に言った私の言葉が、偉く笑美子の気に入ったようだ。
「本当! うんと美味しいのをつくるネ!」
八百屋と肉屋によってから笑美子のアパートに帰った。綺麗に片付いているし、ちゃんとしたキッチンもついていた。
缶ビールを飲みながら晩飯の出来上がるのを待った。ラーメン屋に誘ったくせにちゃんと二人分の米が研いで有った。初めから自慢の手料理を馳走するつもりだったのだ。笑美子は優しく、本当にいい娘だ。一緒にいると心が和むし、誰をも明るく包んで呉れるのだ。
笑美子の手料理はこの上なく美味だった。どんな達人の懐石よりも遙に旨かった。この時の私が、それだけ愛情に飢えていた証かも知れない。
晩飯の後、笑美子がおずおずと私の前に封筒を差し出した。
「今、これしか無いけど、使って」
黙って封筒を開けて見ると、万札が五枚入っていた。私の給料が三万円足らずの時代だったから、充分すぎるほどの大金だと言える。
チラッと札を数え、封筒に戻して再び卓袱台に置いた。私が何時までも黙っているので、
「気を悪くした? 怒っているの?」
笑美子が気を揉んで、何を勘違いしたのか、通帳を持ってきて私に見せようとする。
「こう見えても、私、ちょっとした御金持ちなの。・・・ほら」
とばかりに通帳を開く。こんな娘が男に騙されるのだろう。笑美子のような娘がいるから、ヒモなどという男の亜種が出てくるのだ。
笑美子のような娘が男を駄目にしてしまう、とも思えた。
私はほんの電車賃を借りるだけの積もりで電話しただけだ。それもこうやって笑美子の部屋に上がり込んでいる以上、金を借りる理由などまったく無い。明日になれば銀行が開く、コツコツと貯め込んだ泡銭がタップリとは言わないまでも、かなりの額の資金を眠らせていたのだ。私なりに、どう言って断れば角が立たず、笑美子を傷つけずに済むのか思案していただけなのだ。
「お願い、使って、本当にこれだから」
と私を拝んで微笑む笑美子。その笑顔に負けて気が変わった。いきなりのスランプに戸惑っていたのだ。麻雀に負けて競馬でスッカラカンになる。こんなに負けるのなんて初めての経験だった。なんだかこの笑美子の心の籠もった金を種銭にすれば、つきが戻るような気がしてきたのだ。
「じゃあ、暫く借りるね」
嬉しそうに微笑む笑美子。立ち上がってキッチンから洗面道具を二組持ってきて、
「お風呂に行こ」
と誘った。私がこの部屋に泊まるのを信じて疑わないのだ。その時、私の脳裏に新宿あたりで復讐戦をしようかという誘惑がフッと浮かんだが、必死に堪えた。笑美子の弾けるような肉体にも充分すぎるほどの未練が沸いていたのだ。この後に及んでも、それが愛だなどと考えも及ばない、私は冷めた心を持つ、哀れな男だったのだ。
次の日、ベッドで目を覚ました時、すでに午後の三時を回っていた。私の腕を枕に笑美子がまだ眠っていた。会社を休んだのだ。夕べから私たちはお互いを飽くこともなく求め続けて夜を明かし、日が高くなってからようやく眠ったのだ。
この日、私は笑美子のアパートから店に通った。
「ちゃんと帰ってきてネ」
と抱きついては甘えて口を吸ってくる笑美子。その時、私は笑美子と暮らす事を決意した。だが、適わぬ夢だった。
店で麻雀に誘われて、余りといえば早速の無断外泊。次の日は六本木のハウスで徹マン。水曜日に再び店の連中に付き合い、木曜日は新宿、金曜日は渋谷、土曜日は、昼は競馬で夜はまたまた店の連中、日曜日は勿論競馬、夜から六本木のレートの高いハウスで打った。 私が予感したように、笑美子の種銭が良かったのか、猛烈についてきたのだ、ついた以上休むのが勿体ないのでギャンブルを続ける。まともに寝たりして、ツキが落ちるのを怖れたのだ。
笑美子の元に帰ったのがなんと月曜日の朝方だった。
「こんなの嫌、ちゃんと愛して!」
激しく泣きじゃくる笑美子に閉口した。少し煩わしく感じ始めてきた。
とにかく平謝りに謝って、ようやく宥める事が出来た。麻雀は週に一度、競馬場に行くのは土曜日だけ、こんな約束をする羽目になった。不渡り確実な約束手形のようなものだ。
私のような男に守れる筈が無い。誰でも信用するが、信頼するのは嫌いだ。孤独に強く、何ヶ月でも誰とも口を聞かなくても平気だ。己の性格をそんな風に思いこんでいた。そんな私に特定の女など愛せる分けが無い。
結局十日に一度位しか帰らなかった。それもほとんど笑美子が出勤した後で、帰宅する前に私の方が店に出る。だから、まともに顔を合わせるのが、せいぜい月に一度か二度だった。
こんな同棲に若い娘が絶えられる分けがない。秋が深まる頃、口も聞いて貰えなくなった。その上、笑美子は決して笑わぬ娘になってしまった。笑顔が似合う明るい娘から、私は永遠に笑顔を奪ってしまったのだ。随分酷い仕打ちをしたものだ。少しだけ努力をして、ちょっとだけ素直な気持ちになれば、笑美子の愛も、笑美子への愛も、勝ち得たかも知れない。笑美子も私もそれなりの幸せを味わう事が出来た筈なのだ。
それでも笑美子の誕生日だけは覚えていた。忘れもしない十二月二十四日のクリスマスイブ、心ばかりのケーキを買って、その日はちゃんと帰宅した。
アパートの前の電話ボックスで、若いサラリーマンが電話をしていた。スラリとした長身に濃紺の三つ揃えを粋に着こなし、モデルにしたいようないい男だ。が、街路灯のせいか、顔が病的な程青白く、陰鬱な雰囲気を滲ませていた。
軽快に階段を登って部屋の前に立った。
小銭入れにもポケットにも鍵が見つからなかった。どこかに落としたのかも知れない。灯りがついているから笑美子がいる筈だ。
仕方がないので呼び鈴を押した。
反応が無いので又押した。
暫くして、ドア越しに笑美子の声が聞こえてきた。
「お願いですから帰って下さい。・・・これ以上私に付き纏わないで下さい」
おやおや、こんなに嫌われてしまったのかと驚いた。私の最大の取り柄は、こと女の事に関しては、すこぶる諦めが早い事だ。この時も、いち早く笑美子への未練を捨てた。が、せめてケーキだけでもと思い、もう一度ベルを押した。
「いい加減にして、警察を呼びますヨ!」
幾ら何でもそうまで言う事はないと、少し腹を立てた。
だけど何か少し様子が変だ。いつの間にか、ボックスのサラリーマンが私の横に立って、焦点の定まらない病的な眼で恨めしそうに睨んでいる。
鬱陶しいほどに陰湿な男だった。
「鍵をなくした。無理に上がり込む積もりなんかないから開けて呉れないかなあ」
と呼びかけると、ようやく微かにドアが開いた。用心深く隙間から様子を窺っている笑美子。私を認めた後もなお、ちゃんとドアを開けない、チェーンを掛けたまま、迷っているようだ。私の横の男に怯えているのかも知れない。
「オイ、あっちに行けよ!」
怒鳴ると、じりじりと下がって身構える男。
カンフーでもない、空手でもない、妙な構えだ。
「あっちに行けって言ってるだろ!」
いきなり突き飛ばしたら、男はすっ飛ぶようにして逃げていった。
ようやくドアが開いた。余程恐かったのだろう、笑美子は顔をくしゃくしゃにして泣いていた。
「メリークリスマス」
そう言ってケーキを掲げて見せた。
戸惑いながら私を見つめる笑美子、怯えに震えていたその顔が怒りに代わるのに、さほど時間がかからなかった。
なぜ素直に「誕生日おめでとう、ハッピーバースデー、エミコ」と言えなかったのか、まるで分からない。
笑美子の気持ちはもう修復不可能だ。
妙な事から変な事になったものだ。瓢箪から駒、なんて諺が有るが、こういうのをなんと言えばいいのだろう。嘘から出た真、やや近いかも知れない。とんでもないクリスマスイブになってしまったのだけは確かだ。
笑美子は私のケーキを取り上げると、道路に向かって投げつけた。彼女がクリスマスケーキだと勘違いした誕生祝いのケーキを、救いようのない闇へと葬り去ったのだ。
合い鍵も無くした事だし、ここらが潮時かも知れない。悟った様な気持ちで借りていたままになっていた五万円を笑美子に返した。
素直に受け取った笑美子。だが、私の目の前で全部燃やしてしまった。
アパート前の電柱の下で野良犬の親子が笑美子のケーキを貪っていた。私が近づくと母犬が牙を剥いて威嚇する。壊れた箱から色とりどりのローソクが顔を出していた。
笑美子の為に買ったケーキが野良犬たちのクリスマスを祝っているのが、なぜか風流でもあり、悲しくもあった。
ヒューッと音を立てて礫が私の遙か頭上に飛んできた。あの男が遠くから投げてきたのだ。
無視をして駅に向かって歩いた。
又飛んできた。なんてしつこい奴なんだ。あんな変質者に付け狙われたら頭が変になっても不思議は無い。まして、元の素は私に責任が有り、笑美子のヒステリーを詰る権利など私に無い。
角を曲がり物陰に身を隠した。
男がやって来た。私を捜して遠くを見ている。
油断を見透かし、男に飛びかかって、めったやたらに殴りつけて蹴り倒した。少しも気が晴れなかった。なんの事はない、真に傷ついたのは私の方だった。
2016年12月1日 Gorou
九月になるとローカルから中山に競馬が帰ってきた。その初日、そして二日目と、珍しく大敗を喫し、競馬場で私はスッカラカンに成った。下総中山までのオケラ街道をとぼとぼと歩く私、ポケットには百円玉と十円玉が数枚ずつしか入っていなかった。あんまり惨めなので、見栄を張って最後の贅沢をしてみた。屋台の烏賊焼きを買って食べながら歩いた。
残っているのは十円玉が数枚だけだ、電車賃も無いのだが、意外にも晴れ晴れとした気持ちになれたから不思議だ。
電話ボックスを見つけて片端から電話を掛けたが、誰も捕まらない。
もはや歩いて帰るしか方法がない。まあ明日の朝くらいには帰り着けるに違いない、仕方が無いから歩こうと思いながら、一縷の望みをかけてポケットをまさぐると、外れ馬券に紛れてあの紙ナプキンが出てきた。
幸いにも笑美子は部屋にいた。
「デートしよう」
「いまから?」
「総武線の下総中山って駅分かるかい?」
「ええ、分かるけど、・・・何時?」
「もう来ている。だから何時でもOK、出来るだけ早い方が有り難いけどね。退屈でしょうがない」
笑美子は意外と感のいい娘で、それだけで全てを理解したようだ。
一時間程で笑美子が来た。
「やあ、元気そうだね」
「電話、有り難う」
何だか恥ずかしくもあり、無性に照れくさかった。
小銭を借りて一人で帰るつもりだったが、笑美子は逃がして呉れなかった。自分のアパートの在る荻窪までの切符を二枚買い、その切符を私に渡さずに改札を入るのだ。仕方がないから後に従った。
電車の中で、笑美子は喋り続けた。新しいOL生活の事、最近見た映画の事、テレビの事、自分の部屋の事。ピタリと身体を寄せて、耳元で喋り、一人で喜んで笑う、笑って私に抱きつくようにして絡みつくのだ。
顔から火が出るほど恥ずかしかったのを覚えている。初老の紳士が舌打ちをして私たちから離れていったし、チラチラと盗み見る老夫婦もいた。
駅に着くと、
「ラーメンでも食べる?」
と、笑美子。
「ラーメンより笑美子の手料理の方が良い」
正直に言った私の言葉が、偉く笑美子の気に入ったようだ。
「本当! うんと美味しいのをつくるネ!」
八百屋と肉屋によってから笑美子のアパートに帰った。綺麗に片付いているし、ちゃんとしたキッチンもついていた。
缶ビールを飲みながら晩飯の出来上がるのを待った。ラーメン屋に誘ったくせにちゃんと二人分の米が研いで有った。初めから自慢の手料理を馳走するつもりだったのだ。笑美子は優しく、本当にいい娘だ。一緒にいると心が和むし、誰をも明るく包んで呉れるのだ。
笑美子の手料理はこの上なく美味だった。どんな達人の懐石よりも遙に旨かった。この時の私が、それだけ愛情に飢えていた証かも知れない。
晩飯の後、笑美子がおずおずと私の前に封筒を差し出した。
「今、これしか無いけど、使って」
黙って封筒を開けて見ると、万札が五枚入っていた。私の給料が三万円足らずの時代だったから、充分すぎるほどの大金だと言える。
チラッと札を数え、封筒に戻して再び卓袱台に置いた。私が何時までも黙っているので、
「気を悪くした? 怒っているの?」
笑美子が気を揉んで、何を勘違いしたのか、通帳を持ってきて私に見せようとする。
「こう見えても、私、ちょっとした御金持ちなの。・・・ほら」
とばかりに通帳を開く。こんな娘が男に騙されるのだろう。笑美子のような娘がいるから、ヒモなどという男の亜種が出てくるのだ。
笑美子のような娘が男を駄目にしてしまう、とも思えた。
私はほんの電車賃を借りるだけの積もりで電話しただけだ。それもこうやって笑美子の部屋に上がり込んでいる以上、金を借りる理由などまったく無い。明日になれば銀行が開く、コツコツと貯め込んだ泡銭がタップリとは言わないまでも、かなりの額の資金を眠らせていたのだ。私なりに、どう言って断れば角が立たず、笑美子を傷つけずに済むのか思案していただけなのだ。
「お願い、使って、本当にこれだから」
と私を拝んで微笑む笑美子。その笑顔に負けて気が変わった。いきなりのスランプに戸惑っていたのだ。麻雀に負けて競馬でスッカラカンになる。こんなに負けるのなんて初めての経験だった。なんだかこの笑美子の心の籠もった金を種銭にすれば、つきが戻るような気がしてきたのだ。
「じゃあ、暫く借りるね」
嬉しそうに微笑む笑美子。立ち上がってキッチンから洗面道具を二組持ってきて、
「お風呂に行こ」
と誘った。私がこの部屋に泊まるのを信じて疑わないのだ。その時、私の脳裏に新宿あたりで復讐戦をしようかという誘惑がフッと浮かんだが、必死に堪えた。笑美子の弾けるような肉体にも充分すぎるほどの未練が沸いていたのだ。この後に及んでも、それが愛だなどと考えも及ばない、私は冷めた心を持つ、哀れな男だったのだ。
次の日、ベッドで目を覚ました時、すでに午後の三時を回っていた。私の腕を枕に笑美子がまだ眠っていた。会社を休んだのだ。夕べから私たちはお互いを飽くこともなく求め続けて夜を明かし、日が高くなってからようやく眠ったのだ。
この日、私は笑美子のアパートから店に通った。
「ちゃんと帰ってきてネ」
と抱きついては甘えて口を吸ってくる笑美子。その時、私は笑美子と暮らす事を決意した。だが、適わぬ夢だった。
店で麻雀に誘われて、余りといえば早速の無断外泊。次の日は六本木のハウスで徹マン。水曜日に再び店の連中に付き合い、木曜日は新宿、金曜日は渋谷、土曜日は、昼は競馬で夜はまたまた店の連中、日曜日は勿論競馬、夜から六本木のレートの高いハウスで打った。 私が予感したように、笑美子の種銭が良かったのか、猛烈についてきたのだ、ついた以上休むのが勿体ないのでギャンブルを続ける。まともに寝たりして、ツキが落ちるのを怖れたのだ。
笑美子の元に帰ったのがなんと月曜日の朝方だった。
「こんなの嫌、ちゃんと愛して!」
激しく泣きじゃくる笑美子に閉口した。少し煩わしく感じ始めてきた。
とにかく平謝りに謝って、ようやく宥める事が出来た。麻雀は週に一度、競馬場に行くのは土曜日だけ、こんな約束をする羽目になった。不渡り確実な約束手形のようなものだ。
私のような男に守れる筈が無い。誰でも信用するが、信頼するのは嫌いだ。孤独に強く、何ヶ月でも誰とも口を聞かなくても平気だ。己の性格をそんな風に思いこんでいた。そんな私に特定の女など愛せる分けが無い。
結局十日に一度位しか帰らなかった。それもほとんど笑美子が出勤した後で、帰宅する前に私の方が店に出る。だから、まともに顔を合わせるのが、せいぜい月に一度か二度だった。
こんな同棲に若い娘が絶えられる分けがない。秋が深まる頃、口も聞いて貰えなくなった。その上、笑美子は決して笑わぬ娘になってしまった。笑顔が似合う明るい娘から、私は永遠に笑顔を奪ってしまったのだ。随分酷い仕打ちをしたものだ。少しだけ努力をして、ちょっとだけ素直な気持ちになれば、笑美子の愛も、笑美子への愛も、勝ち得たかも知れない。笑美子も私もそれなりの幸せを味わう事が出来た筈なのだ。
それでも笑美子の誕生日だけは覚えていた。忘れもしない十二月二十四日のクリスマスイブ、心ばかりのケーキを買って、その日はちゃんと帰宅した。
アパートの前の電話ボックスで、若いサラリーマンが電話をしていた。スラリとした長身に濃紺の三つ揃えを粋に着こなし、モデルにしたいようないい男だ。が、街路灯のせいか、顔が病的な程青白く、陰鬱な雰囲気を滲ませていた。
軽快に階段を登って部屋の前に立った。
小銭入れにもポケットにも鍵が見つからなかった。どこかに落としたのかも知れない。灯りがついているから笑美子がいる筈だ。
仕方がないので呼び鈴を押した。
反応が無いので又押した。
暫くして、ドア越しに笑美子の声が聞こえてきた。
「お願いですから帰って下さい。・・・これ以上私に付き纏わないで下さい」
おやおや、こんなに嫌われてしまったのかと驚いた。私の最大の取り柄は、こと女の事に関しては、すこぶる諦めが早い事だ。この時も、いち早く笑美子への未練を捨てた。が、せめてケーキだけでもと思い、もう一度ベルを押した。
「いい加減にして、警察を呼びますヨ!」
幾ら何でもそうまで言う事はないと、少し腹を立てた。
だけど何か少し様子が変だ。いつの間にか、ボックスのサラリーマンが私の横に立って、焦点の定まらない病的な眼で恨めしそうに睨んでいる。
鬱陶しいほどに陰湿な男だった。
「鍵をなくした。無理に上がり込む積もりなんかないから開けて呉れないかなあ」
と呼びかけると、ようやく微かにドアが開いた。用心深く隙間から様子を窺っている笑美子。私を認めた後もなお、ちゃんとドアを開けない、チェーンを掛けたまま、迷っているようだ。私の横の男に怯えているのかも知れない。
「オイ、あっちに行けよ!」
怒鳴ると、じりじりと下がって身構える男。
カンフーでもない、空手でもない、妙な構えだ。
「あっちに行けって言ってるだろ!」
いきなり突き飛ばしたら、男はすっ飛ぶようにして逃げていった。
ようやくドアが開いた。余程恐かったのだろう、笑美子は顔をくしゃくしゃにして泣いていた。
「メリークリスマス」
そう言ってケーキを掲げて見せた。
戸惑いながら私を見つめる笑美子、怯えに震えていたその顔が怒りに代わるのに、さほど時間がかからなかった。
なぜ素直に「誕生日おめでとう、ハッピーバースデー、エミコ」と言えなかったのか、まるで分からない。
笑美子の気持ちはもう修復不可能だ。
妙な事から変な事になったものだ。瓢箪から駒、なんて諺が有るが、こういうのをなんと言えばいいのだろう。嘘から出た真、やや近いかも知れない。とんでもないクリスマスイブになってしまったのだけは確かだ。
笑美子は私のケーキを取り上げると、道路に向かって投げつけた。彼女がクリスマスケーキだと勘違いした誕生祝いのケーキを、救いようのない闇へと葬り去ったのだ。
合い鍵も無くした事だし、ここらが潮時かも知れない。悟った様な気持ちで借りていたままになっていた五万円を笑美子に返した。
素直に受け取った笑美子。だが、私の目の前で全部燃やしてしまった。
アパート前の電柱の下で野良犬の親子が笑美子のケーキを貪っていた。私が近づくと母犬が牙を剥いて威嚇する。壊れた箱から色とりどりのローソクが顔を出していた。
笑美子の為に買ったケーキが野良犬たちのクリスマスを祝っているのが、なぜか風流でもあり、悲しくもあった。
ヒューッと音を立てて礫が私の遙か頭上に飛んできた。あの男が遠くから投げてきたのだ。
無視をして駅に向かって歩いた。
又飛んできた。なんてしつこい奴なんだ。あんな変質者に付け狙われたら頭が変になっても不思議は無い。まして、元の素は私に責任が有り、笑美子のヒステリーを詰る権利など私に無い。
角を曲がり物陰に身を隠した。
男がやって来た。私を捜して遠くを見ている。
油断を見透かし、男に飛びかかって、めったやたらに殴りつけて蹴り倒した。少しも気が晴れなかった。なんの事はない、真に傷ついたのは私の方だった。
2016年12月1日 Gorou
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