〇家族
- 父親:マニュエル=アシル・ドビュッシー(Manuel-Achille Debussy, 1836年 - 1910年)モンルージュ(パリの南郊)で生まれ、陶器商を経営していた。
- 母親:ヴィクトリーヌ・マヌリ・ドビュッシー(Victorine Manoury Debussy, 1836年 - 1915年)車大工の父親と料理人の母親との間に生まれる。
- 伯母:クレマンティーヌ・ドビュッシー(Clémentine Debussy, 1835年 - 1874年)マニュエル=アシルの姉。クロードが洗礼の際、代母として名付けを担当した。
- 第1弟:エマニュエル・ドビュッシー(Emmanuel Debussy, 1867年 - 1937年)
- 第2弟:アルフレッド・ドビュッシー(Alfred Debussy, 1870年 - ?)
- 第3弟:ウジェーヌ=オクターヴ・ドビュッシー(Eugène-Octave Debussy, 1873年 - 1877年)末弟だが髄膜炎のため4歳で夭逝。
- 第1妹:アデール・ドビュッシー(Adèle Debussy, 1863年 - 1952年)弟妹の中では長く生きた人物。
- 1番目の妻:リリー・テクシエ (Lily Texier)
- 2番目の妻:エンマ・バルダック(Emma Baldac, 1862年 - 1934年)元々は銀行家バルダックの妻だった。息子のラウル、娘のエレーヌ(愛称ドリー)がいる。エレーヌはフォーレに溺愛され、一説にはフォーレとエンマの子であるともいわれた。フォーレは『ドリー組曲』を作曲している。
- 娘:クロード=エンマ・ドビュッシー(Claude-Emma Debussy, 1905年 - 1919年)愛称シュシュ。父親の死の翌年に14歳で夭折。クロード=エンマが父親の死に際して異父の兄ラウルに宛てた手紙がドビュッシー博物館に展示されている。
3人の弟については資料の少なさゆえに詳細は不明であるが、妹アデールは2つの世界大戦を生き抜いた唯一の人物である。
サンジェルマン=アン=レーのドビュッシー博物館には、現代に至るまでのドビュッシー家の家系図が展示されている
〇人物
気難しい性格で、内向的かつ非社交的であった。
音楽院に入学してからは伝統を破壊しかねない言動(不平不満や文句)をしていたため、ギローなど担当教師らを困らせていた。
また、女性関係においてのトラブルも絶えなかった。
元々18歳より弁護士の人妻マリー=ブランシュ・ヴァニエ夫人 (Marie-Blanche Vasnier) と8年間の情事のあと別れ、
1889年から (Rue Gustave Doré) にて同棲を続けていたガブリエル・デュポン(愛称ギャビー)とは、自殺未遂騒動の末に1898年に破局を迎えた。
同じ頃、ソプラノ歌手のテレーズ・ロジェ (Thérèse Roger) とも情通している。
翌年にはギャビーの友人であるマリ・ロザリー・テクシエ(愛称リリー)と結婚するが、
1904年頃から、教え子の母親、銀行家の人妻であるエンマ・バルダックと不倫関係になり、リリーはコンコルド広場で胸を銃で撃ち自殺未遂となり、離婚する(1905年)。この事件がもとで、ドビュッシーはすでに彼の子を身ごもっていたエンマとともに一時イギリスに逃避行することとなり、友人の多くを失うこととなる。
長女クロード=エンマ(愛称シュシュ)の出産に際しパリに戻り、エンマと同棲した(1908年に結婚)。シュシュはドビュッシーに溺愛され、『子供の領分』を献呈された。
同じ印象派の作曲家とされることが多いモーリス・ラヴェルは、父親がドビュッシーとかつて交友関係にあった[7]。1898年にラヴェルが2台ピアノのための『耳で聞く風景』で作曲家としてのデビューを果たした時には、ドビュッシーはその中の1曲「ハバネラ」(1895年作曲。後に『スペイン狂詩曲』第3曲に編入)に関心を持ち、ラヴェルに自筆譜の写しを貸してくれるよう頼み、ラヴェルの方でも『ペレアスとメリザンド』に対して、自らが所属するグループ「アパッシュ」のメンバーとともに積極的に支持するなど、両者は互いの作品を評価し合い、親密な交友が続いた。
だが1904年初演の『版画』の第2曲「グラナダの夕暮れ」を聴いたラヴェルは、前述の自作「ハバネラ」と類似しているとしてドビュッシーに反発。以後両者の関係は疎遠となった。
しかし、20世紀初頭の作品である『水の戯れ』や弦楽四重奏曲などの作品ではドビュッシーの影響が見受けられ[8]、本人もドビュッシーの管弦楽曲をピアノ曲へと編曲し、またはピアノ曲を管弦楽曲へと編曲している。
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