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ガンのため 愛妻との別れ 享年67、 思い出を胸に 生涯、運転免許を持たない意外な理由 話の肖像画 落語家・桂文枝#5/30(木)#喜多由浩

2024-05-30 17:11:10 | 連絡
《愛妻との出会いは、真由美(まゆみ)さんがまだ中学3年生のとき、文枝さん(当時三枝(さんし))が出演していたラジオ『歌え!MBSヤングタウン』だった》
【写真】「新婚さんいらっしゃい!」の司会を卒業することを発表し、感極まる桂文枝さん 

彼女はずっとピアノを習ってましてね、『ヤング…』に出たときはバンドを組み、エレクトーンを弾いていました。
なんか、しゃべり方が面白い、なかなかエエなぁって。
 その後、僕が別の番組(※ラジオ大阪の『ヒットでヒット バチョンといこう!』)に出ることになったとき、(アシスタントについて)ディレクターから「誰かいい人、知りませんか?」と聞かれたので、「アナウンサーじゃないけど女子大生で面白いコおるで」と彼女の名前を挙げたわけです。 
そのころ真由美は、歌のレッスンをキダ・タローさん(※作曲家、タレント、1930~2024年。ニックネームは「浪花(なにわ)のモーツァルト」)から受けてました。
そういう世界(芸能界)を目指していたので、番組にも出ることになって、どんどん人気が上がっていった。
とくに男のコからはがきが来て「声がカワイイ」ってね。
僕としては、こりゃ、あぶない。「ヨソへ盗(と)られたらアカン」と結婚を急いだ。
彼女は大学2年生。
嫌がりましたなぁ。
芸能界を目指してましたしね。
それを無理やり説得して、結婚した。
僕としては当然、大学は辞めると思うてたんですけど、辞めなかった。
だから、卒業までは僕が保護者(苦笑)
 
《結婚は昭和47年3月、新郎は28歳、新婦は19歳だった》 
(妻の)お父さんは自動車の板金修理の自営業、お母さんはお寺の娘さんでした。
結婚を認める条件はただひとつ。
「車の免許を持たないこと」。
それは(事故で)つぶれた車をいっぱい見てきたから、って。
僕は今も免許を持っていません。
 真由美は、何事にも一生懸命で、しっかり者で、芸能界を目指していた割には派手さもない。
僕は身の回りのこと、家のこと、僕の仕事のこと、おカネのこと…ぜーんぶ、真由美に任せきりでした。
 《ときには夫婦げんかも…》
上の子(長男)が小学校に上がったころですかねぇ、僕が週に16本くらいレギュラーがあってメチャクチャ忙しくなったことで、けんかになったことはあります。
真由美はけっこう、頑固なところがあるし、僕もイライラして、お膳をひっくり返してしまった。
それ以来、子供が怖がって僕に、寄り付かなくなったんですけど(苦笑)。
女性問題ですか? 
まぁ、そういうことは家では言わない。
「娘のことも考えてほしい」とだけ(妻から)言われました。
 《令和3年1月、真由美さんは病気で亡くなる。
享年67。
そして翌日には療養中だった母の治子(はるこ)さんが99歳で死去。
2日続けての悲報だった》
真由美はがんが分かって一度は治ったと聞いてたんですが、どこかおかしい。転院させたときはもうかなり(病気が)進んでいて、(余命は)「3カ月」だと宣告されました
亡くなる前の日、僕は落語会がありました。
「危篤」と聞いて病院に駆け付けたんですけど、コロナ禍で面会ができない。僕は看護師さんに無理を頼んで会わせてもらい、真由美と最期の会話をします。
彼女は僕に「私コロナなん?」て聞きました。
病気のことを明かしていなかったからです。
僕は「ちゃうけど、治るから、治るから」と繰り返しました。
その会話は録音して大事に持っています。
もう次の日には話すことができなくなり、亡くなりました。
そして、真由美の通夜をやっているとき、母の訃報を聞いたのです。(聞き手 喜多由浩)

 


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