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追悼 舟唄を聴く会 2022 2023/01/28 #八代亜紀 #ニッポン放送 #あさぼらけ

2024-01-11 15:29:00 | 連絡
舟唄を聴く会 2022 

2022年12月30日(金) ニッポン放送 上柳昌彦あさぼらけ 八代亜紀さんの「舟唄」を聴く会です。
2023/01/28  #八代亜紀 #ニッポン放送 #あさぼらけ
八代 亜紀(やしろ あき、1950年〈昭和25年〉8月29日[2] - 2023年〈令和5年〉12月30日[5]) 73歳没は、日本の演歌歌手、女優、タレント、画家。熊本県八代郡金剛村(現:八代市)出身[6]。本名は橋本 明代(はしもと あきよ)[1]。
 
〇〇生い立ち
幼少の頃から父親の歌う浪曲を子守唄代わりに聴きながら育つ[7]。
そうした影響もあり、八代は歌好きの子供になり、地元の歌唱コンクールなどにも出場していた。
八代が小学5年生の時、たまたま父親が買ってきたジュリー・ロンドンのレコードを聴き[7]、そのハスキーボイスに魅せられる。
もともと自身もハスキーボイスの持ち主だった八代は、その声に若干のコンプレックスがあったが、ジュリーの声質に勇気づけられ、クラブ歌手になることを意識するようになる。
〇〇15歳で上京してクラブ歌手に
八代市立第六中学校卒業後、数か月ほどの間ではあるが、地元熊本のバス会社九州産業交通(現:九州産業交通ホールディングス)のバスガイドとして勤務していた。
しかし、わずか15歳で父親の反対を押し切り、東京に上京した[8]。
その後、音楽学院に通って基礎を身に着け、3年後銀座のクラブ歌手となり、スタンダードやポップスなどを歌った[9]。
同じクラブで歌っていた歌手に三谷謙(のちの五木ひろし)がいて、三谷から芸能プロダクションを紹介される。
〇〇歌手デビュー
1971年にテイチクより「愛は死んでも」でデビュー。
芸名の“八代亜紀”の姓は出身地の八代(やつしろ)市から採っており、語呂の良さから「やしろ」という読みにした[10]。
本名である明代より呼びやすい2文字アキとし、また漢字の“亜紀”としたのは「アジア(亜細亜)で何世紀も活躍できるように」との願いが込められている[11]。
読売テレビのオーディション番組『全日本歌謡選手権』に出場して10週連続勝ち抜きでグランドチャンピオンとなったことで、徐々にレコードが売れ始める[12]。
1973年に「なみだ恋」が120万枚[13]とヒットした後も「しのび恋」「愛ひとすじ」「おんなの夢」「ともしび」「花水仙」「もう一度逢いたい」「おんな港町」「愛の終着駅」など、女心を歌った歌で次々とヒット曲を連発する。
1979年に新境地を開拓した初の男歌「舟唄」が大ヒットし、1980年に発表した「雨の慕情」で日本レコード大賞を受賞する。
これら2曲は「港町絶唱」と共に阿久悠、浜圭介、竜崎孝路のコンビによる「哀憐三部作」とされ、NHK紅白歌合戦では2年連続大トリを務めた。ほどなくして“演歌の女王”と称されるようになる[14][10]。
上柳 昌彦(うえやなぎ まさひこ、本名:同じ、1957年〈昭和32年〉8月1日[1] - )66歳は、フリーアナウンサーで元ニッポン放送アナウンサー。
ミックスゾーン所属。愛称は「うえちゃん」。
防災パーソナリティ(同局における地震情報のアナウンス担当)指定を受けた一人。
ファッションデザイナーの石津謙介と歌手、タレントのファーストサマーウイカは遠戚にあたる[2][3]
 
 
〇〇プロフィール
大阪府大東市の出身。父親が転勤族であったため少年期は転居を繰り返し、群馬県高崎市(1歳)→兵庫県高砂市(幼稚園)→金沢市(小2)→高砂市(小2)→横浜市神奈川区(小4)→東京都→神奈川県小田原市(中1)→東京(中2)→鎌倉市と転々とした後、東京都に定住した
東京都立新宿高等学校、立教大学法学部卒業[1]。
1981年4月、ニッポン放送にアナウンサーとして入社[4][5]。
若手時代は主に深夜枠の番組を担当。『オールナイトニッポン』(月曜2部)を経て、アマチュアバンドブームの中『HITACHI FAN! FUN! TODAY』『ぽっぷん王国』などの音楽系番組のパーソナリティを歴任し「うえちゃん」の愛称で親しまれる様になる。
1987年にスタートしたヤマハ主催の10代限定の音楽の祭典『ティーンズミュージックフェスティバル』の司会も担当していた。
上柳自身、元々音楽には造詣が深く、若手時代から現在に至るまで親交を深めているミュージシャン・芸能人は数多い。
また自らとスタッフで結成したバンドの歌声をラジオで披露することもあった[4]。
以下略




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