黒澤 明(くろさわ あきら、1910年3月23日 - 1998年9月6日、88歳没)は、日本の映画監督、脚本家。第二次世界大戦後の日本映画を代表する映画監督であり、国際的にも有名で影響力のある映画監督の一人とみなされている[1][2]。ダイナミックな映像表現、劇的な物語構成、ヒューマニズムを基調とした主題で知られる[1]。生涯で30本の監督作品を発表したが、そのうち16本で俳優の三船敏郎とコンビを組んだ。
青年時代は画家を志望していたが、1936年にP.C.L.映画製作所(1937年に東宝に合併)に入社し、山本嘉次郎監督の助監督や脚本家を務めたのち、1943年に『姿三四郎』で監督デビューした。『醉いどれ天使』(1948年)と『野良犬』(1949年)で日本映画の旗手として注目されたあと、『羅生門』(1950年)でヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞し、日本映画が国際的に認知されるきっかけを作った。その後『生きる』(1952年)、『七人の侍』(1954年)、『用心棒』(1961年)などが高い評価を受け、海外では黒澤作品のリメイクが作られた。1970年代以降は国内で製作資金を調達するのが難しくなるが、海外資本で『デルス・ウザーラ』(1975年)、『影武者』(1980年)、『乱』(1985年)、『夢』(1990年)を作り、国内外で多くの映画賞を受けた。1985年に映画人初の文化勲章を受章し、1990年にはアカデミー名誉賞を受賞した。没後、映画監督初の国民栄誉賞が贈られた。
生い立ち[編集]
1910年3月23日、東京府荏原郡大井町(現東京都品川区東大井三丁目)の父が勤めていた荏原中学校の職員社宅に、父・勇と母・シマの4男4女の末っ子として生まれた[3][4]。兄姉は茂代、昌康、忠康(既に夭折)、春代、種代、百代、丙午である[5]。シマは大阪の商家の出身だった[6]。
:::中略:::
1998年9月6日午後0時45分、東京都世田谷区成城の自宅で脳卒中により死去した[90][93]。88歳没。
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