出光石油協定に見る1950年代のイランと日本のエネルギー外交
ケイワン アブドリ 2018 年 5 巻 p. 152-160
https://www.jstage.jst.go.jp/article/merev/5/0/5_Vol.5_152/_html/-char/ja
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ところで日本でイランの油田開発に最も早く関心を示したのも出光興産である。出光は1958年にNIOCの油田開発入札に応札したが、
アメリカのインディペンデント系石油会社AMOCOに敗北した。このことは同年に日本を訪問したモハンマドレザー・パフラヴィー国王と
岸信介首相の会談でも話題になった9。油田開発に関して1960年代後半になるとイラン側から日本に働きかけをし、1969年に来日したザーヘディー外相が
佐藤栄作首相との会談で「イラン皇帝自ら」の希望として日本による石油開発の参入を求めた10。
そして2年後に日本企業連合による油田(「ロレスターン鉱区」)の開発が合意された。
このプロジェクトは結局不発に終わってしまったものの、その後両国の経済協力の象徴ともなった石油化学プロジェクト(「イラン・ジャパン石油化学(IJPC)」)がこの開発権利の付与条件として出発したのである11。
今回翻訳した書簡は、日本政府が初めてイランに対して積極的にエネルギー外交を展開した時期の一つの史料である。本史料からも読み取れるように、当時日本政府はイランから長期的に石油を調達するための体制づくりに意欲を示し、積極的なプランを提示した。他方で出光との協定の問題を巡っては、同時期のイラン政府内の資料などを参考にすると、少なくともNIOCの一部の幹部も日本のエネルギー市場のポテンシャルを理解していたことが理解される。しかしイランの政策決定者たちは、日本経済に対する認識の不足や国際石油市場の構造、国際情勢などが相まって、日本の提案に応じることができなかった。結局両国はこの機会を逃し、両国が密接な経済関係を築く第一歩はこれから10年も遅れることになった。
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