8、姉川 あね川合戦の事
そのような中、越前より朝倉孫三郎景健率いる八千の援軍が到着し、小谷城の城東に位置する大依山①に陣を張った。待ちわびた援兵の来着を知った浅井長政は、城を出て朝倉勢との合流を果たした。
朝倉勢八千に五千の浅井勢が加わり、都合一万三千の軍勢となった浅井・朝倉勢は、6月27日払暁大依山の陣を払って行動を開始した。
朝倉勢八千に五千の浅井勢が加わり、都合一万三千の軍勢となった浅井・朝倉勢は、6月27日払暁大依山の陣を払って行動を開始した。
陣を捨てて退却するものとも考えられたが、事実は相違した。出撃のための陣払いであった。
28日未明、浅井・朝倉勢は姉川手前の野村・三田村の郷に移り、二手に分かれて軍勢を立て備えた。
これに対し織田・徳川連合軍②は、西の三田村口に位置した朝倉勢には徳川家康が向かい、東の野村口に展開した浅井勢には信長公直率の将士と美濃三人衆が相対した。
卯の刻(午前6時)、織田・徳川軍は敵勢ひしめく丑寅の方角へ向かって一斉に駆け出した。
卯の刻(午前6時)、織田・徳川軍は敵勢ひしめく丑寅の方角へ向かって一斉に駆け出した。
敵勢も姉川を越えて突撃し、ここに姉川合戦の火蓋が切られた。
戦闘は双方が押しつ押されつの大乱戦となり、戦場には黒煙と土埃が巻き立ち、鍔が割れ槍が交差する音がこだました。
そして後世に語り継がれるであろう数々の武功が生まれ、そのたびに名のある武者が命を落としていった。
数刻にわたる激闘は、最後に織田・徳川軍が浅井勢を追い崩して終わった③。
浅井勢は青木所右衛門に討ち取られた真柄十郎左衛門や竹中久作に討ち取られた遠藤喜右衛門をはじめ、前波新八・黒坂備中・浅井雅楽助ら他国まで名の聞こえた将の多くを失った。この戦で織田勢が討ち取った首の数は、面立ったものだけでも千百余にのぼった。
織田勢は退却してゆく浅井勢を追撃して小谷までの五十町を駆け抜け、小谷では山麓へ火を放った。
しかし小谷城そのものは切り立った高山の上に立つ難攻の城であったため、信長公は城攻めまでは無理と見て追撃をそこで打ち切り、横山城の攻囲にまわった。横山城はひとたまりもなく開城した。
信長公は横山城の城番に木下藤吉郎を入れ、
信長公は横山城の城番に木下藤吉郎を入れ、
みずからは7月1日磯野丹波守員昌の籠る佐和山城の攻略に向かった。
佐和山では四方に鹿垣をめぐらし、城東の百々屋敷に砦を構えて丹羽長秀を置き、北に市橋長利・南に水野信元・西の彦根山に河尻秀隆の各将を配置して諸口を封鎖し、四方より攻撃させた。
7月6日④、信長公は数騎の馬廻のみを引き連れて京へ入り、公方様へ戦勝の報告をおこなった。
京には数日滞在して戦勝参賀の使者の応対などをし、8日に岐阜へ帰還を果たした。
①現滋賀県浅井町内 ②徳川家康は24日に来援して織田軍と合流 ③合戦の内容については、織田勢が劣勢だったためか『信長公記』はあまり詳しく触れていない。 ④正しくは7月4日
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます