〇経歴
横山 大観(よこやま たいかん、正字体:大觀、1868年(慶応4年 / 明治元年) - 1958年(昭和33年)2月26日、89歳)は、日本の美術家、日本画家。本名、横山 秀麿(よこやま ひでまろ)(生年月日については記録により小異がある。くわしくは後述。)
常陸国水戸(現在の茨城県水戸市下市)出身。
近代日本画壇の巨匠であり、今日「朦朧体(もうろうたい)」と呼ばれる、線描を抑えた独特の没線描法を確立した。帝国美術院会員。第1回文化勲章受章。死後、正三位勲一等旭日大綬章を追贈された。茨城県名誉県民。東京都台東区名誉区民。
1868年(慶応4年 / 明治元年)、水戸藩士・酒井捨彦の長男として生まれる。東京府立一中、および私立の東京英語学校の学齢時代から絵画に興味を抱き、洋画家・渡辺文三郎に鉛筆画を学ぶ。
1888年(明治21年)、母方の縁戚である横山家の養子となる。
東京美術学校を受験することに決めると急遽、結城正明、狩野芳崖などに教えを受ける(その期間は2、3か月程度だったと言われる)。また、受験の際は受験者数300人中、 200人が鉛筆画での受験をし、しかも彼らは有名な師に何年も教わってきたと聞くや、試験の直前に鉛筆画から毛筆画への試験の変更を申請。見事に東京美術学校へと合格した。
1889年(明治22年)、東京美術学校に第1期生として入学。岡倉天心、橋本雅邦らに学ぶ。同期生には下村観山、西郷孤月、第2期生には菱田春草などがいる。
美術学校を卒業後、京都に移って仏画の研究を始め、同時に京都市立美術工芸学校予備科教員となった。またこの頃より雅号「大観」を使い始めるようになった。1896年(明治29年)、同職を辞すと、母校・東京美術学校の助教授に就任した。しかし2年後に当時校長だった岡倉天心への排斥運動が起こり、天心が失脚。天心を師と仰ぐ大観はこれに従って助教授職を辞し、同年の日本美術院創設に参加した。
美術院の活動の中で、大観は春草と共に西洋画の画法を取り入れた新たな画風の研究を重ね、やがて線描を大胆に抑えた没線描法の絵画を次々に発表する。しかしその先進的な画風は当時の画壇の守旧派から猛烈な批判を浴びた。現在ではその画風を的確に表す言葉とされる「朦朧体」という呼称も、当初は「勢いに欠ける、曖昧でぼんやりとした画風」という意味で、批判的に使用された言葉であった。
保守的風潮の強い国内での活動が行き詰まりを見せ始めたため、大観は春草と共に海外に渡った。
インドのカルカッタや、アメリカのニューヨーク、ボストンで相次いで展覧会を開き、高い評価を得た。その後ヨーロッパに渡り、ロンドン、ベルリン、パリでも展覧会を開き、ここでも高い評価を受ける。
この欧米での高評価を受けて、日本国内でもその画風が評価され始めた。1907年(明治40年)には、この年より始まった文部省美術展覧会(文展)の審査員に就任。欧米外遊での経験から、西洋画の鮮やかな色彩が琳派との共通性がある事を見出し、大正時代における琳派ブームを牽引した。1913年(大正2年)には、守旧派に押されて活動が途絶えていた日本美術院を、下村観山、木村武山等と共に再興した。
戦後の1951年(昭和26年)に日本美術院会員を辞任、同年に文化功労者となった。
大観は1958年(昭和33年)2月26日、東京都台東区にある自宅にて89歳で永眠した。大観の永年に渡る日本美術発展への貢献により正三位に叙せられ、勲一等旭日大綬章を贈られた。なお、大観の脳は現在もアルコール漬けにされた状態で、東京大学医学部に保管されている。
〇エピソード
大観は大変な酒好きとして知られ、人生後半の50年は飯をほとんど口にせず(たまに食べる時も一粒二粒と数えるほど)、酒と肴(少量の野菜)だけで済ませていたという。飲んでいた酒は広島の「醉心」で、これは昭和初期に広島・三原の醉心山根本店の三代目社長・山根薫と知り合った大観が互いに意気投合し、「一生の飲み分を約束」した山根より無償で大観に送られていたものだった。しかし山根は年に四斗樽で何本も注文が来るので驚いたという。代金のかわりとして大観は毎年1枚ずつ自分の絵を無償で送り、結果、
醉心酒造に「大観記念館」ができることとなった[3]。もっとも、最初から酒好きだったわけではない。若い頃は猪口2 - 3杯で真っ赤になってしまう下戸だった。しかし大観の師の天心は日に2升ともいわれる酒豪であり、「酒の一升くらい飲めずにどうする」と大観を叱咤したため、飲んでは吐きながら訓練した結果であった。
- なお1955年(昭和30年)頃までは毎日約1升もの酒を飲んでいたものの、晩年は酒量も減り、1957年(昭和32年)頃になると1日に4合飲むのがやっとだったという。最晩年の1958年(昭和33年)になると1日に5勺(1合の半分)しか酒を飲めなくなっていた。
- 鯨飲はしていたもののアルコール中毒にはならず、大病もせずに90年近い寿命を全うした。
〇略歴
1881年(明治14年):東京府中学(現在の都立日比谷高校)に入学。優秀な成績で卒業するが、諸事情により「東大予備門試験」では入学資格を消失。致し方なく、当時は進学予備校として知られていた私立の東京英語学校(現在の日本学園高校)に入学。受験英語に勤しみ、その後の大観の海外での生活で大きな力を発揮する。- 1903年(明治36年):妻・文子死去。インドを訪問し、釈迦の実像を描こうとした。天心の勧めるものであったが、天心は日本画の原点をインドと考えたのではないかという説もある。
- 1904年(明治37年):天心の勧めでニューヨーク。へ
- 1905年(明治38年):ロンドンへ。長女死去のため帰国。
- 1906年(明治39年):遠藤直子と再婚。天心が住んでいた茨城県の五浦へ転居。五浦での活動、つまり「日本美術院絵画部」は、天心、大観、春草、観山、武山の5名。
- 1928年(昭和3年):イタリアの最高指導者ベニート・ムッソリーニに『立葵』が献呈された。
- 1931年(昭和6年)6月30日:帝室技芸員[9]
- 1938年(昭和13年):ドイツ総統アドルフ・ヒトラーに献呈するため作品『旭日霊峰』を完成させる。
- 1954年(昭和29年):茨城県名誉県民となる。
- 1958年(昭和33年):死去[10]。
- https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E5%A4%A7%E8%A6%B3
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