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THE人物伝 アイザック・ニュートン 概要、生い立ち、トリニティ・カレッジ入学

2022-02-26 08:53:25 | 連絡
〇概要
アイザック・ニュートン[1](英: (Sir) Isaac Newton、ユリウス暦:1642年12月25日 - 1727年3月20日、グレゴリオ暦:1643年1月4日 - 1727年3月31日。84歳没)は、イングランドの自然哲学者・数学者・物理学者・天文学者・神学者。
主な業績としてニュートン力学の確立や微積分法の発見がある。
1717年に造幣局長としてニュートン比価および兌換率を定めた。
ナポレオン戦争による兌換停止を経て、1821年5月イングランド銀行はニュートン兌換率により兌換を再開した。
〇生い立ち
同名のアイザック・ニュートンを父、ハナ・アスキューを母として、ユリウス暦1642年12月25日(クリスマス)にイングランドの東海岸に位置するリンカンシャーの小都市グランサムから南方に10キロほど離れた一寒村ウールスソープ=バイ=カールスターワース(英語版)(Woolsthorpe-by-Colsterworth)の祖父宅(母方)において生まれたが、その誕生の直前に父親は他界していた[7]。未熟児として生まれたといい、産婆は「この子は長生きすまい」と言ったという[7]。なお、アイザックという名は、旧約聖書 の創世記に登場する太祖の一人イサクに由来する。
父親は、身分としてはヨーマン(=独立自由農民)と貴族との中間的な位置づけの身分(村の郷士のようなもの)で農園を営み、37歳のときに近郊の農家の娘(=アイザックの母、ハナ・アスキュー)と結婚したが、アイザックが生まれる3か月前に死去した(のちにニュートンの義父となったバーナバス・スミスは、この父アイザックが「粗野な変人であった」と述べたという。
ただし父方の一家は当時のイングランドで勃興しつつあった知識階級に属する者が多く、薬剤師、医師、牧師などを輩出している)。
実母はアイザックが3歳のときに近隣の牧師のバーナバス・スミスと再婚してアイザックの元を離れ、アイザックは祖母に養育されることになった。
アイザックは物心のつかない年齢で両親の愛を知らない子となった[7]。
母親が再婚した理由のひとつは息子の養育費を得ることもあった[7]。母親はスミスとの間に3人の子を産むことになる。
息子のアイザックは母のこの選択に反発し、「放火して家ごと焼き殺す」などと殺害する旨を明かして恫喝した(この一時の激情に駆られた発言を悔いて、後年は実母と付かず離れずの関係を保ち面倒を見た)。
親は息子アイザックの才能に気付いていなかったが、親類がそれに気がついてくれたこともあり、1655年に彼はグランサムのグラマースクールに入学することになった。
学校は自宅から7マイルも離れていたので、母の知り会いの薬剤師のクラーク家に下宿した[7]。ニュートンはこの家庭で、薬学関係の蔵書に出会い、それに興味を持つようになった[7]。また、クラーク家の養女ストーリーとは親友となった(ニュートンはこのストーリーと18歳で婚約することになり、のちに至るまで親密な交際と金銭的な援助を続けることになる。しかし、ニュートンは法的には結婚はせず、終生独身のままであった)。
グラマースクール時代もニュートンは自省的な生活を送り、薬草の収集、水車、日時計、水時計の製作などを行っていた。また、体が小さく内向的で目立たぬ子だったため、友人たちのからかいの的であったが、あるとき自分をいじめた少年と喧嘩をして勝ったことをきっかけに、自分に対する自信を持つようになったとされる[8] [9]。
学校に通うようになって2年がたち14歳になったときに、母の再婚相手のスミスが死去し、母は再婚相手との間にできた3人の子どもとともにウールスソープの家へと戻ってきた。
母は、亡くなった元の夫が遺した農園を営むことを考え、父親のようにアイザックが農業(百姓仕事)を行うことを期待し、その仕事を手伝ってもらおうとグランサム・スクールを退学させた。母親は勉学よりは農業のほうが大切と考えていたらしいという。ところがニュートンは農作業をほったらかしたまま、前の下宿先のクラーク家に行っては化学書を読んだり水車づくりに熱中した[7]。そのため、母は彼が百姓向きではないと思い、将来のことを親類や友人らに相談し、ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジで学ばせるほうがよいという助言を聞き入れた。そして、ニュートンは2年後には学校へと復学することになり、そこでトリニティカレッジの受験の準備として聖書、算術、ラテン語、古代史、初等幾何などを学んだ[7]。
〇トリニティ・カレッジ入学
1661年に叔父であるウィリアム・アスキューが学んでいたトリニティ・カレッジに入学した[10]。入学当初は「サブサイザー(sub-sizar)」として仮に受け入れられ、1か月後に「サイザー(sizar)」として正式に受け入れられた。これは講師の小間使いとして食事を運んだり使い走りをする代わりに、授業料や食費を免除されるという身分であった[7]。
大多数の学生は「コモナー(commoner)」という自費で学費を払う者たちで、自分がサイザーという身分であったことや、自分の家柄のこともあり、同級生と打ち解けなかったという[7]。
当時、大学での講義のカリキュラム編成は、スコラ哲学に基づいて行われており、つまり主としてアリストテレスの学説に基づいていたが、ニュートンは当時としては比較的新しい数学書・自然哲学書のほうを好んだ。たとえば、数学分野では、エウクレイデスの『原論』、デカルトの『幾何学(en:La Géométrie)』ラテン語版第2版、ウィリアム・オートレッドの『数学の鍵(Clavis Mathematicae)』、ジョン・ウォリスの『無限算術(The Arithmetic of Infinitesimals[11])』などであり、自然哲学分野ではケプラーの『屈折光学(Dioptrice)』、ウォルター・チャールトン(英語版)の原子論哲学の入門書などを読んだのである。
ここでニュートンは、良き師であるアイザック・バローにめぐり会う。
ケンブリッジにおいて1663年に開設されたルーカス数学講座の初代教授に就任したバローは、ニュートンの才能を高く評価し、多大な庇護を与えた
バローは時間、空間の絶対性を重要視するプラトニズムを奉じた数学者であり、ニュートンの思想にも大きな影響を与えた。
バローのおかげもあり、1664年にニュートンは「スカラー」[10](=奨学金が支給される学生)にしてもらうことができ、翌年には学位を授与されることになる。バローとの出会いによってニュートンの才能は開花し、1665年に万有引力、二項級数、対数の無限級数の発見[12]を経て、さらに微分および微分積分学へと発展することになった。




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