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THE人物伝アイザック・ニュートン、ペスト流行と三大業績、錬金術研究と聖書研究、晩年

2022-02-26 09:12:26 | 連絡
〇ペスト流行と三大業績
また、ニュートンがこうした成果を得るのに有利に働くことになる、もうひとつの出来事があった。
一人でじっくりと思索をめぐらす時間を得たのである[7]。
学位を取得したころ、ロンドンではペストが大流行しており(ペストは以前14世紀にヨーロッパの人口の3分の1以上を死亡させたほどの恐ろしい病気だった。ニュートンが学生のときのそれは数度目の襲来であった)、この影響でケンブリッジ大学も閉鎖されることになり、1665年から1666年にかけて2度、ニュートンはカレッジで彼がしなければならなかった雑事から解放され、故郷のウールスソープへと戻り、カレッジですでに得ていた着想について自由に思考する時間を得た[7]。
また1664年、つまりペストで疎開する前に奨学生の試験に合格して奨学金を得ていたことも、故郷で落ち着いてじっくりと思索するのに役立った[7]。
こうしてニュートンは故郷での休暇中に、
1.「流率法( (Method of Fluxions) )と彼が呼ぶもの(将来「微分積分学」と呼ばれることになる分野)や、
2.プリズムでの分光の実験(『光学』)、
3.万有引力の着想などに没頭することができたのである。「ニュートンの三大業績」とされるものは、いずれもペスト禍を逃れて故郷の田舎に戻っていた18か月間の休暇中になしとげたことであり[13]、すべて25歳ごろまでになされたものである[7]。
結局、このわずか1年半ほどの期間にニュートンの主要な業績の発見および証明がなされているため、この期間のことは「驚異の諸年」とも、「創造的休暇」とも呼ばれている。
この間に、リンゴが落下するのを見て万有引力のアイディアを思いついたとの有名な逸話がある(#リンゴについての逸話)。
1667年にペストがおさまったあとケンブリッジ大学に戻り、その年の10月、同大学でフェロー職を務めていた2名が階段から落ちたうえにほかの1名が発狂し、欠員が計3つ生じたため[7]、ニュートンはフェローになることができ[10]、研究費を支給されるようになった。 
その年に『無限級数の解析(De Analysi per Aequationes Numeri Terminorum Infinitas)』を書いた(刊行1671年)。
また論文『流率の級数について(De methodis serierum et fluxionum)』を発表した。
これでニュートンは微分積分法について述べているが、ライプニッツもまた独立に、異なった視点から微分積分法を発見しており、のちに優先権をめぐって熾烈な争いが展開された。
ニュートンの発表はライプニッツより遅かったが、ライプニッツより早く発見していたと主張し、結局25年の長きにわたり法廷闘争を行った。
ニュートン式望遠鏡を考案し1668年には第一号機を完成した。改良した第二号機は1672年王立協会の例会に提出され、ニュートンが会員に推薦される理由となった。
〇錬金術研究と聖書研究[編集]
研究としては、造幣局に勤めてからは錬金術に没頭した(現代の科学者が“科学的”と呼ぶ類の研究は行っていない。そうした類の業績が発表されたのは1696年の入局までの53年間である)。
晩年、『二つの聖句の著しい変造に関する歴史的記述』を著すことになるものの、イングランド国教会の教義とは異なるため、弾圧を恐れて生前には発表しなかった(1754年刊)。
ニュートンの考えの概略は「三位一体の教義はアタナシウスが聖書にもちこんだのだから誤りだ」というものである[7] 
〇晩年[編集]
1705年に、アン女王からナイトの称号を授けられた。授与の会場はトリニティ・カレッジで、自然哲学の業績に対するものであった。自然哲学(自然科学)の業績でナイトの称号が贈られたのは、ニュートンが最初である[7]。
授与から20年ほど後の1727年3月に死去し、ウェストミンスター寺院に葬られた[7]。遺言状は残しておらず、遺品は甥や姪に分配され、所有していた農園はそれの法定相続人の農夫に受け継がれ、ニュートンの自宅はウェストミンスター公立図書館になった[7]。



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