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The 人物伝:稲尾和久 西鉄ライオンズ入団 1956年打撃投手契約金50万円月給35,000円 西鉄の日本一に貢献最優秀防御率と新人王のタイトル

2022-10-08 15:47:51 | 連絡
西鉄ライオンズ入団
高校2年生の秋にスカウト・石川正二が、冬には監督・鶴岡一人が接触してくるなど、早くから南海ホークスが稲尾の獲得に動く。
臼杵高等学校の和田博美の勧誘のために別府に宿泊していたスカウト・竹井潔が南海の動きを知って、西鉄ライオンズも稲尾の獲得に乗り出した[9]。
稲尾は南海と契約寸前まで話が進んだが、父・久作の「大阪に行くよりも、何かあればすぐに戻って来られる九州の方がいい」という言葉や、西鉄に高校の先輩である河村がいたこともあり、西鉄入団を決意した。
このとき河村は西鉄経営陣に稲尾獲得を進言したとも言われている[10]。
1956年に西鉄ライオンズに入団。契約金50万円、月給35,000円であった[11]。入団当初は注目されておらず、監督の三原脩も「稲尾は打撃投手として獲得した」と公言していた。
実際、島原キャンプでは中西太・豊田泰光・高倉照幸ら主力打者相手の打撃投手を務めており、口の悪い豊田からは「手動式練習機」とも呼ばれていた。
打撃練習の際、打者によっては3球に1球ボール球を投げるように指示される(ストライクを投げ続けていると打者が打ち疲れてしまうため)。
稲尾はこのボール球をストライクゾーンのコーナーギリギリを外れるように狙って投げる練習をし、制球力を磨いた[12]。
キャンプ後半になると、次第に稲尾の内角球に差し込まれて打者が打ち取られる場面が増えてきたため、中西と豊田が三原に「稲尾を使ってみてほしい」と進言したという[13]。
後に豊田は「稲尾が打撃投手としてとられたというのは嘘。三原監督は早くから稲尾に注目しており、また投手はまず打撃投手をさせるのが監督のやり方だった」と述べてもいる[14]。
当時の日本プロ野球は、専業の打撃投手を置く球団がまだ存在せず、選手の中から事実上の打撃投手をやりくりしていた、との事情もあった。
稲尾はオープン戦に登板したものの、スコアボードに「稲生」と間違って表示されるなど、未だ無名であった。
しかしここで結果を残して開幕を一軍で迎える。
キャンプ・オープン戦の中で、高校時代の稲尾の本塁打を見ていたスカウトが三原に打者転向を提案した。
当初、三原は打撃投手は務まるのだから様子を見よう程度の気持ちであったが、チャンスをことごとく活かし這い上がる稲尾を見て、本格的に投手をやらせようと考えが変わったとも言われる[15]。
開幕戦(対大映スターズ戦)で11-0と西鉄が大量リードで迎えた6回表から、河村の後を継いで2番手としてプロ初登板し4回を無失点に抑える。
その後もしばらくは敗戦処理などで登板していたが、5月中旬まで25回1/3を投げて自責点わずか1で防御率0.36との安定感が買われ、5月17日の近鉄戦で初先発。
6回まで無安打無得点で抑えるが、7回に崩れて交代となり、2失点で勝ち星は付かなかった[16]。
しかし、この好投が認められて先発陣に加わり、前年の主戦投手であった大津守(前年21勝)、西村貞朗(前年19勝)、川崎徳次(前年17勝)らの調子が上がらなかったことから登板機会が増え[17]、前半戦を8勝1敗、防御率1.17と飛ばす。
この頃は後年のスライダーは投げておらず直球一本槍で、右打者の内角へは内側にシュートし、外角に行けば外側にスライドする、自然に曲がるクセ球を利用して、ひたすら膝元・外角低めに投げ分けるうちに勝っていったという[18]。
後半戦では9月8日時点で西鉄は28試合を残して南海に7ゲームを付けられていたところ、驚異的な追い込みで逆転優勝を果たすが、稲尾は終盤の28試合中20試合に登板して7勝(2敗)を挙げ、リーグ優勝に大きく貢献する[19]。
シーズンでは21勝6敗、パ・リーグ記録の防御率1.06という成績を残して最優秀防御率と新人王のタイトルを獲得した[20]。
新人王はNPBの新人記録として残る180安打を放った佐々木信也との争いになるが、直接対決で打率1割ほどに抑えたことが決め手となり、稲尾が選ばれたという[21]。
巨人との日本シリーズでは、第2戦で史上初めて高卒新人投手として先発登板(後に堀内恒夫、石井一久、吉川光夫も記録)すると、最終の第6戦では1失点完投勝利を挙げて胴上げ投手となる。
結局、全6試合に登板し3勝を挙げ西鉄の日本一に貢献。
敢闘選手と最優秀投手に選出された



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