1937年に大分県別府市北浜に7人兄弟の末っ子に生まれる。
父・久作は漁師で、母・カメノは久作が釣った魚を売り歩き生計を立てていたが、行商中に産気づいて和久を産んだという[1]。
漁師を継がせたいと考えていた父親の意向で、1944年に北国民小学校に入学すると、稲尾は父に連れられて伝馬船に乗り、艪を仕込まれた[2]。
稲尾は幼少時代について、「薄い板一枚隔てて、下は海。いつ命を落とすか分からない小舟に乗る毎日だったが、おかげでマウンドでも動じない度胸がついた」と語っている。
また、強靭な下半身はこの漁の手伝いによって培われた[3]。
1949年の第20回都市対抗野球大会で、監督兼選手・西本幸雄が率いる別府市に本拠地を置く実業団チーム・星野組は全国制覇し、オープンカーで市内をパレードした。
観衆の中には少年時代の稲尾がいた。
稲尾は「星野組はスターだった」と回顧しており、星野組のエースである荒巻淳に憧れて野球選手を目指すようになった[4]。
1950年に中部中学校に入学すると野球部に入部し、1年生の秋には捕手のレギュラーとなる。
中学時代はのちに西鉄に同期入団する、東部中学校(日田)の畑隆幸と対戦し完封を喫した[5]。
なお、中学時代は生徒会長を務めている。
1953年に大分県立別府緑丘高等学校に入学、高校の4年先輩には後にプロで同僚となる河村久文がいる。
当初は捕手であったが、1年生の秋に投手に転向し[6]、2年生の夏にはエース兼四番となる[7]。
1954年秋季九州大会県予選では準決勝に進出し、エース田中喜八郎を擁する津久見高に0-1で完封負け。
翌1955年夏の甲子園県予選では、準々決勝で上野丘高校から17三振を奪って勝ち上がる。
しかし、準決勝で阿南潤一のいた佐伯鶴城高に2-3と惜敗し、東九州大会には進めなかった[8]。
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