〇パーソナリティ:徳光和夫81歳
〇アシスタント:石川みゆき62歳
〇ゲスト:山本譲二(歌手)72歳
〇アシスタント:石川みゆき62歳
〇ゲスト:山本譲二(歌手)72歳
徳光和夫があさ5時から元気に生放送~
◇好評7時半は「七時半の五七五」川柳:
・・・税と税と そんなに急いでどこへ行く・・・
◇「徳さんの千客万来」山本譲二さん
エッセイも発売中!演歌歌手・山本譲二さん登場!
今週は、山本譲二さんをゲストにお招きし、師匠、北島三郎さんにまつわるエピソードや、初めてのエッセイ『いつか倖せ来るじゃないか 大腸がんと乳がんをふたりで乗り越えて』などについてトークを展開しました。
デビューから数年間ブレイクすることなく、ようやく『みちのくひとり旅』が大ヒットした山本さんですが、実は師匠の北島三郎さんからは「この歌がダメだった諦めろ」と言われており、「『二人以上いたら、どこでも歌え』ってオヤジに言われたもんですから新幹線の中、飛行機の送迎デッキなどいろんな所で歌いましたね」と人生を変えた一曲にまつわるエピソードを告白。
当時、北島さんの助言で歌う時の衣装にしていたジャンパー、テレビの仕事が続き間に合わない時は「オヤジすいません。ジャンパー借りられないですか?」と衣装を借りたことも明かしました。
続けて、寸法が合わない、靴が小さいなどの会話の流れで「うるさいねぇ、もう全部持っていけ」というやりとりも。
〇山本 譲二(やまもと じょうじ、1950年2月1日 - 72歳)は、日本の演歌歌手。
山口県下関市出身。
血液型A型。
所属事務所はジョージ・プロモーション。
レコード会社はテイチクエンタテインメントに所属している。
琴五郎のペンネームで、楽曲の作詞・作曲も行っている。
ラテン文字表記はGeorge Yamamotoを使用する。
妻は女優の植木悦子。
長女は歌手の山本琴乃[1][2]。
・夏の甲子園大会に出場
・不遇の下積み時代
・北島三郎との出会い[編集]
最後の決意で北島三郎の仕事場に何度も足を運び頭を下げ、十数回繰り返したときに北島から突然鞄を渡された。
即ち「鞄持ちになれ」という意味であり、以降2年間北島の付き人を務める(当時の北島はまだ30代と若く、筋骨隆々としていたため、甘え容赦ない修行の毎日をすごした)。25歳だった。
これを契機に1976年、読売テレビ制作の歌謡オーディション番組「全日本歌謡選手権」に出場、「おもいで岬」や「中の島ブルース」などを歌って10週勝ち抜いた。
本名の山本譲二名義でポニーキャニオンから再デビューしたが、鳴かず飛ばずが続く。
・ヒット以降
1980年、30歳の時に『みちのくひとり旅』をリリース。北島からは「この曲で駄目なら、もう諦めろ」と言われていたと言う。
1980年、30歳の時に『みちのくひとり旅』をリリース。北島からは「この曲で駄目なら、もう諦めろ」と言われていたと言う。
この曲も発売当初は売れずヒットには更に10ヶ月を要した。
1年近く経過後、1981年、フジテレビの「夜のヒットスタジオ」に注目曲として出演すると大きな反響を呼び大ヒットし、スター歌手への仲間入りをようやく果たす。
『みちのくひとり旅』で1981年末の「第23回日本レコード大賞」ロング・セラー賞を受賞し、同曲で「第32回NHK紅白歌合戦」に初出場した。
最終的なレコード売上は130万枚[3]を記録した。
当時はテレビ番組の企画で無人の甲子園球場のマウンドでこの曲を独唱したり、さらにTBSテレビの「ザ・ベストテン」では、上半身裸で褌一丁の姿をさらけ出しながら歌唱したこともあった。
1982年、31歳『旅の終りはお前』をリリース。当曲は前作『みちのくひとり旅』のメロディーをほぼ踏襲しているが、大ヒット作品の次に同系統の曲調を出す手法は、レコードセールス戦略上時々採用されている。
同曲もスマッシュ・ヒットを果たし、1982年末の「第33回NHK紅白歌合戦」へ2年連続で出場した。
こうした経緯から、北島ファミリーの旗頭的存在となった。
また、北島がレギュラー出演していた時代劇ドラマ『暴れん坊将軍』(テレビ朝日)では、北島に代わり1997年から長次郎役を演じ、VIIIシリーズから800回スペシャルまでレギュラーとして出演した。
また北島がめ組の頭時代に辰五郎に恨みを持つ役、め組の頭降板後は萩藩主毛利吉元役でゲスト出演している。
・レコード会社・事務所移籍[編集]
平成に入ると演歌が急速に衰退し、1999年には所属していたポニーキャニオンが演歌・歌謡曲部門の廃止を決定したことから、テイチクエンタテインメントへ移籍した。
2000年には移籍第1弾シングル「花も嵐も」を発売した。
2007年1月1日付で北島音楽事務所から独立し、個人事務所のジョージ・プロモーションを立ち上げた。暖簾分けの形であり、今も北島音楽事務所とは業務提携という形で強いつながりを持っている。
・病気告白[編集]
2009年7月、右耳内部に良性腫瘍ができていることが明らかになったものの、除去手術を行った場合顔面麻痺が残る可能性があることから、手術するかどうか迷う胸中をブログに綴った(後日に「歌手としてステージに立ち続けたい」という意向から、手術はしない決断をしたと述べている[4])。
7月23日、福岡放送『めんたいワイド』に出演。
もともとキャンペーンの一環として出演が決まっていたものの、病気を受けて急きょ内容が変更され、山本が経緯と今後の決意を語った。
番組では、左耳に聴覚補助イヤホンをつけてやっと普通に聞こえる状態であったが、「ファンの励ましのメッセージが力になった」旨発言している。
2017年6月30日、フジテレビの「訂正させてください」に出演した際、右耳の聴力を失ってから8年が経過し、左耳もほとんど聞こえなくなり補聴器を使っていることを明かした[4]。
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